小波シュプレヒコール
教室を出たら、仏頂面の無駄に脚の長い獣人属が外廊下に腕を組み突っ立っていた。
「おい、何が食べたい」
「……はあ」
「はあ、じゃねえだろ。何が食いたいのか聞いてんだ」
いや、それは当然わかるけれども。
居眠りをしていたふたりと一匹がトレイン先生にお小言をもらっている姿を振り返って確認する。もう一度向き直る。
何が食べたいかではなく、今日は何がつくれるかでしか献立を考えない日々なので、そう咄嗟に自分の欲求を表に出すことはできない。
はた、と数か月前にアズール先輩とジェイド先輩と行った麓のリストランテを思い出し、
「……ペスカトーレ、ですかね」
「はっ。海鮮かよ。まあいい。明日の夜、開けておけよ」
明日の夜はちょっと、などという言い訳はまったく聞き入れてもらえそうになかった。わたしはただ黙って揺れながら遠ざかっていく尻尾の先を睨みつけていた。
「さぁて、お嬢様。遠慮なく召し上がれ」
そう言って、レオナさんは頭の後ろに手を伸ばして自分の髪の毛をくくる。
二十歳でワインのホストテイスティングをよどみなく済ませられる男を、わたしは目の前の獣人属以外に述べられない。そもそも、二十歳そこそこの男とそれが要求される店に出かけたことは、あっちでもなかったか。
「……てっきり、ラギー先輩につくってもらうのかと思ってました」
「たまにはいいだろ」
たまには、って。わたしがあなたに外食に誘われたのははじめてなのですが。
以前、急遽ドライブに連れ出されたあと、めちゃくちゃめんどうなことになった、ということをレオナ先輩は覚えていたらしい。今朝、外出許可をとれ、とご丁寧に印刷された申請書を眼前に突き出された。一応わたしもスマートフォンを所持しているのでオンライン申請できるんだけどな、とは言わなかった。傲慢な男の善意である。黙って受け取るほかない。
二度目の来店となった麓のリストランテは、相変わらず窮屈ではなく、かといって閑散ともしていない。つまり、客にとって非常に居心地のよい空間であった。レオナさんはわたしの向かいで、さっそくステーキにナイフを入れている。
レオナ・キングスカラーの所作は美しい。やはり曲がりなりにも王子である、と不動の現実を突きつけられる。こちらはフォークに巻きつけたパスタがすでに所在なかった。
いつもの千葉のヤンキーみたいなド派手な服装ではなく、相変わらずはだけてはいるけどワイシャツにスラックスを合わせている。制服と寮服の合わせ技のようだ。
ファッションを個性の顕示とみなしつつ、TPOもわきまえることができるらしい。そんなもん大前提だろ、と鼻で笑われそうだから、何も言うまい。
店内の音に耳をすます。魔力の少ない、もしくはわたしと同様に魔力のない客の声も、ただのざわめきではなくなった。たまにレオナさんが部屋の魔力を遮断したうえで発音の特訓をつけてくれたおかげもあり、断片的ではあるが会話が聞こえるようになっていた。
それを報告すれば、レオナさんは自分の手柄かのようによろこぶんだろうか。
カチカチとお皿にカトラリーが当たる音の合間に、ワイングラスをまわす。淡いイエローの液体が静かに波をたてた。
「さて、戻ってとっておきの赤ワインでもいかがですか、お嬢様」
半歩後ろをついて歩いているに視線を寄越さずに手のひらだけを向ける。
はいよろこんで、とが手を取らないことくらいわかっていた。無言の圧だけが返ってくる。
「なんで怒ってんだよ」
少なくとも夕焼けの草原の女たちは〝無言〟で怒りを表現することはないが(音沙汰がなくなるという意志ある決別こそ経験したが)、おそらくは怒っていた。ガキのころ、自分も同じような態度をとったことがある気がしないでもない。自分の機嫌の在りどころを他人に任せる、傍迷惑なやり口だ。
今回は露骨に避けられはしなかったし、前回は怒られていたわけではなかったとはいえ、S.T.Y.X.の一件以来、は言葉少なに一定の距離を保とうとしていた。その隙間を俺に積極的に詰めてほしいようにもとれたし、自分から戻すまで待ってほしいようにも見えた。
VDCの時期はオンボロ寮が合宿所にされ、がマネージャーにあてがわれた影響もあり接触機会は減っていた。それでも顔を合わせればあれがこれでそれだ、と聞いてもいないのに近況を百面相をくり広げながら報告してきたものだった。
「柄にもなく、こんなのでご機嫌とらないでくださいよ」
くくっていた髪を引っ張られ、頭が倒れる。後ろ手で悪さをした手首をつかめば、振り切ろうとする力を反射的に感じたが、すぐに緩められた。無駄な抵抗だと、彼女は経験則から理解している。
「メシや飲みくらい、誘うだろ」
振り返れば、そういうことではない、との伏せられた瞳は物語る。
オレンジ色の街頭に照らされて、スカラビアの副寮長にお裾分けしてもらっているというヘアオイルで手入れされた髪の毛が光をもっている。
「……どっか行くときは行くって宣言しろって言ったじゃないですか」
「おいおい、無茶言うな」
どうやら、渡し守に同行した件について文句があるらしかった。やはりオレに不満はあったようだが、とてもこちらの落ち度とは認めたくはない。
「お前こそ闘う術ももたねえのに、全裸で飛び込んできたみてーなもんだろ。アホすぎる。ルークの野郎が悪いとはいえ、怒りてーのはこっちだ」
それに、ひとつ言い訳をするならば、ラギーにはアイツにいちばんに伝えに行け、とは頼んだ。コイツも渦中にいたんだから、意味のねえことではあったが。
「わかってるんですよ、こういう女は鬱陶しいですよね。でも、どうしたらすっきりするんだか、わからなかったんですよ」
引き離したり、突き離したりしたいような煩わしさは感じていなかった。むしろ、その逆。引き寄せたり、引き留めたりすることを、どうしても選ばざるを得なくなる。
「嘆きの島で会えたとき、安心しました。学園にいっしょに戻って来れたときも。だって、会えなくなったらどうしようかと思ったんですから。それで……」
「じゃあよかったじゃねえか、また会えて」
「はい!」
「なんだ、やけに素直だな」
「後悔したときには、遅いことだってあるって、わたしはもう知っていることを思い出したので」
積極的な会話を拒絶してた時間も後悔してほしいもんだな、とは思いこそすれ、口には出さなかった。
なにひとつ別れのことばを残すことなく突然離れたあっちの世界の話をしているのだろう。その後悔を一時失念して、現在に活かせないくらいには、にとってこの世界が通常になりつつあるのかもしれない。それは悲しいことのようにも、よろこばしいことにも思えるのは、無責任なのだろう。
「……というわけで、ハグしてください」
「はあ?」
要求とは対照的に、睨みつけるように見上げられて困惑し、同時に空いているほうの手で引っ張られたシャツの裾に視線を落とした。
「きっと、それだけでよかったんです。……だから、したくなくても、してください」
後頭部に手を回し顔面を胸に押しつけたことはあれど、砕けそうに細い腰に手を回し抱きすくめることは、タブーのように思われ、意図的にそれを避けていた。そのことには気がついていたのだろう。
じゃれつくのとはわけが違った。もっと、なんらかの確固たる関係性の人間にしか許されてはいけないことのようだったからだ。挨拶とともに身体を一瞬寄せ合うような気軽さも、ふたりのあいだにはむしろいまさら持ち合わせていないように思っていた。
「……したくねえわけねえだろうが」
「……そうなんですか?」
いちど知ったオアシスを失うのは、上げた生活水準を下げることのように恐ろしく耐え難いことに違いない。
「うるせえな、黙ってろ」
砂漠に海が広がる。だから、嫌だったんだ。