水葬アクアリウム
取り急ぎ、廊下で行われた学園長からの(不)定期報告によれば「元いた場所に帰る方法は、KeyのKのひと文字すら見つかりませんねえ」ということだった。
今ここでさめざめと泣けば、私が悪いみたいじゃないですか、と文句を言いながらも学園長は慰めてくれるだろう。学園長は、やさしいのだ。
クルーウェル先生も、バッドボーイだなんて言わずに毛皮のコートを被せてくれるだろう。
トレイン先生は静かにヒントになり得そうな昔話を聞かせてくれて、ついでにルチウスがわたしの膝にでも乗ってくるといい。
バルガス先生は来るべきの日のためにだとか息巻いて、体力づくりを強要する。
エースは頭を撫でように叩いて、デュースはおどおどしながらも俺も真面目に方法を探すと宣言するだろうし、グリムはきっと腹が減ってるんだゾ! とわたしの管理表にカウントされていないへそくりのツナ缶を持ってきてくれるだろう。
だから、今日突然、帰る方法が見つかったと言われても、正直困る。それがわたしの素直な気持ちだった。
リドル先輩なら、トレイ先輩なら、ケイト先輩なら────
身軽で何も持たなかったわたしのはずなのに、置いていきたくないものが嵩張ってしまった。
盆や正月に帰省するように時間とお金をかければ行き来できるならいい。でもきっと、わたしの場合はそうではないだろう。そういう都合のよいこともあるかもしれないけど。
エースとデュースとグリムとは、少なくとも年に一度は集まって近況報告をする未来をもはや楽しみにしてしまっている。どう考えても愉快だ。
わたしはかなり情に薄い女で、大学は実家から通えない距離をわざわざ選んだ。同じ大学に行った友人はひとりもいない。なんなら、同じ高校に行った中学の友人すらいない。
ほんのひと握りの友人たちをこちらに呼び寄せるほうが、よっぽど建設的なアイデアだと思われた。
学園長と別れ、少し出遅れた昼食をとりに大食堂へ向かうとグリムは案の定、エースとデュースと揃って座っていた。どうやらわたしの分の席を確保してくれているようだったので、合流するより先にビュッフェで料理をとってしまうことにした。
サバナクロー寮生の集団の最後尾に並ぶと、獣の耳がドミノ倒しのようにぱたぱたと折り畳まれていった。
近ごろ、露骨に距離を取られている気がする。とりわけ獣人属から。
以前はもっとこう、攻撃的だった。わたしを見かけては威嚇してきそうな。今は陰口を叩かれている様子すらなく、逸らそう、と意図された視線が痛い。
「オレは監督生くんがレオナさんの部屋に足繁く通ってんのを知ってるんで、まあいいんスけど。こうも理由も不明で〝レオナ・キングスカラーの所有物です〟って匂いを嗅がされるとね〜」
どこから現れたのか、振り向けば頭の後ろで腕を組んだラギー先輩がししし、と笑っていた。
「そんなにお邪魔してないですし、それに、所有物ではないかな」
今日もレオナ先輩は、ラギー先輩が必死に確保したランチをどこかで貪るのだろう。わたしがレオナ先輩とお昼をいっしょに食べることはまずない。
所有物、という表現はとても気に食わない。というより、現状に即していない。
学園長から譲ってもらった(というより、借りっぱなしで返していない)スマートフォンはレオナ先輩からのメッセージも電話も受信しない。あくまでもわたしたちが会うのは、フィジカルベースのやりとりだった。
だから、どちらが呼びつけているとか、呼び出しに応じているとかは、ない。もちろん、鼻も耳も効くレオナ先輩はわたしを探し出すことに苦労しないだろう。でも、わたしだってレオナ先輩をわざわざ避けていたのだ。避けれるならば、見つけられるということ。それにまあ、わたしがほんとうに会いたければ植物園へ赴けばよい。簡単な話だった。
「ラギー先輩とかジャックのほうが、レオナ先輩といっしょにいると思うけどなあ」
「レオナさんの匂いがつくなんてのは、オレも寮生も慣れてますけど。それとは違うんスよ」
ふむ、マーキングというやつか。
あいにくわたしは視力もよくなければ鼻も効かない。なんなら人間界でも使い物にならない軽い鼻炎持ちだ。
「自分から、何かするべきかな?」
「オレから言えることはとくにないッスね」
「うん、まあ、そうですよねえ」
ベッドのヘッドボードにもたれて脚を投げ出せば、大型の猫科動物が許可も取らずに太ももを枕にした。大きい身体(これでも一般的なライオンの獣人と比較すれば小柄なのには驚く)が猫のように丸められて、すぐに寝息が聴こえてくる。
この人、硬い講義テーブルの上でだって、椅子の上でだって寝れるのに。贅沢じゃないの。
ほんとうにわたしは猛獣使いにでもなったんじゃないかと錯覚する。グリムのことすら納得いってないのに、もう一頭なんて知ったこっちゃない。だれだ、今のところ甘える予定はないなんてほざいていたのは。
この、レオナ先輩の頭がわたしの行動を制限しているあいだ暇を持て余すので、わたしは文字を読んだり書いたりすることにした。
図書室で、わたしたちが日本で英語を学んだときのような参考書を探すのには苦労した。ナイトレイブンカレッジの学生が、ツイステッドワンダーランドの公用語を学ぼうとするはずがないからだった。
最初は悪い夢か何かだと思ったから、強気だった。これはどうにも醒めない夢なのだと思ったら、怖くなった。夢ではなく受け入れざるを得ない現実なのだと悟ったら、開き直れた。
不安のベクトルは故郷へ帰れないことから、魔法を1ミリも使えない自分がこの世界で生きていくことへと切り替わった。
ナイトレイブンカレッジという大きいけれど小さい箱の中ではなんとかなっている。それでもここで生活していくとなると、まだ数年猶予があるとはいえ、目下気にするべきは卒業後ないし四年生になったころの身の振り方である。
原理はわからないが学園に充満している魔力や、魔力の強い生徒によって、わたしの「聴く」と「喋る」という能力は保証されているらしい。たしかに、わたしはここへ転がり落ちた瞬間から彼らの話す言葉を理解し、彼らもわたしが話す言語を理解していた。
学園外に出ると、街の人の声はノイズ混じりになることがたまにある。正確にいうと、雑音が入ってくるのではなくて、わたしが彼らの扱う言語に馴染みがないから、雑音のように聴こえるのだ。
リスニングとスピーキングを学ぶためには、まず学園外に出るか、なんらかの方法でわたしに生の音を聴こえるようにしてもらわないといけない。難儀だ。
逆に「書く」と「読む」に関しては、対策が必要だった。わたしは板書されている文字が笑いたくなるほど理解できなかったし、その暗号のような文字を書き写すこともできない。それで、学園長が魔法道具である万年筆をくれた。それを握っているあいだ、わたしはツイステッドワンダーランドの公用語を読んで、書くことができる。
授業には一応支障がなくなったとはいっても、こと書くことに関しては気味が悪い。自分の思考と手が連ねている文字が異なるのだ。それはどうにも自分が操り人形である気持ちになる。だから、自分の意思で文字が書けるようになりたかった。
幸い、わたしは日本にいるとき英語が得意だった。大学の第二言語で選択した中国語も悪くなかった。それらともスペイン語ともフランス語ともペルシア語とも異なるここの文字を理解するのは難しいが、これがなかなか結構楽しい。
話し言葉には流行り廃りがあるだろうけど、書き言葉に関して言えばベーシックでフォーマルなものを使えば違和感もないだろう。いちいち誰かに事細かに教えてもらわなくったって、ひとり黙々と作業ができる。せめて今書けて、読めるようになれば、聴けて、話せるようにもなるはずだ。
視界の端で、レオナ先輩のまぶたが震えた気がした。わたしは手元の参考書から目を離す。耳もぱたり、ぱたり、と動いている。
「起きましたか?」
わたしの問いかけに意味をもった言語での返事はない。唸っている。起きていない、と起きているのに主張している。
いい加減わたしの脚も限界だ。わさわさと長い褐色の髪の毛をかき乱す。貫くような左目の傷跡を指先で撫でれば、鬱陶しいと言わんばかりに手で払いのける。そうしてやっと観念して、レオナ先輩は上半身を起こした。
「……チェカでもわかるぞ、それくらい」
レオナ先輩はわたしの横に置かれた参考書を横目にそう言った。
「それはそれは、王位継承権一位の子への教育の賜物ですねえ」
嫌味なのか、事実なのか。事実だとしたらレオナ先輩はあの邪険にしている甥っ子のことをよく理解している叔父である。
これはエレメンタリースクール高学年レベルの参考書だ。あのちまちまとしたかわいらしい子どもがほんとうに読めて書けるのかはわからないが、それくらい仕込まれていたっておかしくはないだろう。
「わざわざ勉強しなくったって、コレがあるだろ」
許可を得ずわたしのブレザーの内ポケットに手を突っ込み、レオナ先輩はご丁寧にも万年筆を引っこ抜いてくれた。なんと無礼な。
「選択肢は多いほうがいいと思いません? 魔力の少ないド田舎とかにも住んでみたいし、せめて今は魔法道具なしで、書いて読めるようになりたいですね」
「選択肢が限られてる第二王子への当てつけか」
「いや、第二王子だからこそ選択肢も多いでしょうよ」
実際、母国をほっぽり出して通常より長い期間この学園にいるではないか。実質的に政権を握っている彼の兄にそんな時間はない。
「あっちに戻れたら、んなもん1マドルも意味ねえもんになんだろ」
うるさいな、放っておいてくれ、と毒づきたくなって、代わりに長いため息をこれみよがしに吐いた。
喧嘩がしたいわけではなかった。このぐうたらな男が、これまで何も努力をしてこなかったわけではないとわかっている。彼が心から望んだものではなかったにしても、だ。彼の横柄な態度は王室という後ろ盾だけでなく、確固たる自身の能力への信頼から来ている(今は、自暴自棄であるゆえ怖いもの知らずである節については言及を避けよう)。
「なんだ、帰るの諦めたのか?」
「帰れなかったら、レオナ先輩に砂にしてもらうという手もありますね。学園外にほっぽり出されたら、現状生きていけなさそうなので」
「俺がいつ俺の能力を使うかは俺が決める」
威嚇するような音だった。
よく言うよ、とも思うが、現にオーバーブロットしても自らの意思でラギー先輩を砂にしなかった男だ。根拠はある。
「……レオナ先輩の故郷は、魔力のない野生動物ばかりでしょう」
夕焼けの草原など、魔法士や魔力をわずかでもまとっている生物の総数に対して空間が広すぎる、人口密度の低い国では魔法道具が必要となる状況も多い。
これも理屈はわからないが、読み書き用の道具より、話す聴く用の道具のほうがコスパが悪くて、使用頻度に応じて道具にせっせと魔力をチャージしなくてはならない。魔力のないわたしは他人に頼らざるを得なくて、不便だ。
魔力の少ない場所で生きていくなら、この地道な努力は無駄にならない。とまではわざわざ口に出さなかったが、レオナ先輩の機嫌は直ったらしい。
この人は、わたしがよその世界へ戻る前提の話が嫌いだ。そのくせ、いつもその話題を暗にふっかけてくるのはわたしではなくレオナ先輩だが、わたしだって好きではない。だって、それはこの男と離れることだけを意味している。
レオナ先輩はどうせ、故郷を捨てられない。なにかを手に入れるためには、なにかを手放さなくてはならないのに、それを理解しているはずなのに、彼はそれをしない。ただ彼のこれまでの境遇にぶつくさ文句を垂れ、反骨精神を盾に生きている。それはなんら、悪いことではない。
「先輩でもねえのに先輩なんてふざけた呼び方、いつまで続けるんだ」
「レオナ先輩は三年生です。そして自分は一年生。ほら、先輩じゃないですか」
「はっ、よく回る口だ」
そう言ってぐう、と両腕を持ち上げて伸びをした。
顔を覗かせた、いちいち鍛えてなどいないというにはきれいすぎる腹筋に人差し指を這わせると、不意を突かれたレオナ先輩は情けなく身体を跳ねさせた。
「レオナさん」
噛みつかれた首筋が熱い。猫のじゃれあいみたいなものだ。首根っこを咥えて持ち運ばれないだけ感謝しなければいけない。
「……レオナ」
彼はこれ以上のことをしないと、わたしは経験則から知っている。今のわたしたちの関係性に固執しているのは、彼のほうだ。