夕凪フロウ

 避けられている。
 ナイトレイブンカレッジに入学して間もないころに関係をもった、麓のどこかの店の女は何を勘違いしたか恋人ヅラをするようになり苦労した(これは俺が若くて見る目がなかった)。いつぞや帰省したときに再会した夕焼けの草原の昔馴染みの女は、以来音信不通になった(面倒ごとにならない女は選べるようになったらしいが、また違うベクトルで失敗したと言える)。
 の場合、後者にリアクションが類似しているが、そもそも前提が異なる。俺は直近二回の反省を律儀に活かしたはずだ。アイツとはセックスはおろか、キスのひとつもしていない。ただほんの数分のあいだ、頼まれる前に胸を貸してやっただけだ。
 正直、最初はこの草食動物に果敢にも誘われている、と思っていた。おそらくは本人もそのつもりだったはずだ。
 ただ、今にもぼろぼろと水滴が落ちてきそうな声で名前を呼ばれて、そういうことではなくなったのだと察した。
 気が変わった理由も、泣くほどの感情もわからないが、授業についていけないとか、国に帰りたいのに帰れないとか、そういった不安ならば、クラスメイトにでも素直に吐露すればいい──ということに、は思い至ったのかもしれない。よりにもよって、俺を選んだのが間違いだった、と。
 せっかくの赤ワインのボトルを開けることもなく、はお礼の言葉だけを発してひょこひょこと部屋を出て行った。ジャックがオンボロ寮まで送り届けたと、朝にラギーから聞いた。「ひさしぶりで酔っちゃってお恥ずかしい、って笑ってたッス」。
 十中八九、バツが悪いんだろう。俺からしてみりゃ、草食動物である時点で等しくひ弱な存在だ。ちょっと俺に隙を見せて泣きついたところで、その事象の前後で優位性が何ら変わるわけでもない。
 俺が立ち寄ってすぐ、廊下や食堂にまだ濃くの香りが残っているのに、その場にの姿はもうない。草食動物なりの第六感を発揮してみたり、なんらかの情報を耳をそば立てて把握したりして、邂逅を回避しているとしか思えない。
 もとより、一年と三年では授業が被ることもなければ、所属している寮も異なる。そもそも頻繁に出会う機会がない。当然のことながら、植物園にはぱったり姿を現わさなくなった。
 たまたま俺の白衣を借りた翌日に、街で発情期のオスとメスを見て自分の本能を思い出して、酒の力でも借りてちょうどいい男に甘えたくもなったんだろう。理解できなくもない。悪いことでもない。にも非はない。責めるつもりは毛頭なかった。


「寒いのに、オープンカーなんかでどこに行くんですか?」
「俺はあてのないドライブしか基本的にしねえ。だから、今日も目的地はねえ」
「……そうですか」
 エンジン音に負けそうな声が、諦めの色を出していた。おもに、寒さについてだろう。

 じゃあ、をわざわざ俺が追いかけまわすのかといえば、勿論しない。時間の無駄だ。俺がなぜそんなことをしなくてはいけない。ライオンのオスは狩りをしない。──はずだったのだが。
 に避けられている、というほとんど確証に近い考察だけがつねにぷらぷらと宙に浮いていて、とにかく鬱陶しかった。
 ハーツラビュルの一年坊どもと毛玉が俺を非難する声を上げているなか、外廊下で計画通り見つけ出したの細っこい手首を引っ張って外へと連れ出した。
 いつまでも逃げ切れると思ってたのか、こっちが撒かれてやっていただけだ、と文句を垂れてもよかったが、はただ押し黙って素直に脚を動かしていたのでこちらも口は閉じた。

「何を気にしてやがる」
 麓でレンタルした残りもののオープンカーの助手席に大人しくおさまったはコートの上からブランケットを肩にかけて、膝の上に載せているスクールバッグの肩紐をきつく握りしめている。しかたがないので、その布切れに防寒魔法をかけてやった。どうやらコイツの制服にはその機能が付与されていないらしい。
「ええと……距離感を間違えたかな、と思って。ごめんなさい」
 の言う〝距離感〟が、避けたことによって生じた離れすぎた距離なのか、酒を言い訳に俺を唆そうとして生じた近すぎる距離なのかは判断がつかなかった。
 おそらくは、どちらもだろうとは思われたが、後者を追求するのは憚られた。
「わざわざ避けたりすることこそが距離感を間違えてんだよ。普通でいいだろ、普通で」
「自分が普通でいたら、レオナ先輩は普通でいてくれましたか」
「……当たり前だろ。何言ってんだ」
 が学園に極力馴染むために使用していると知った一人称が鼓膜をくすぐる。
 それはそれで詰め寄ることもできずに、クエスチョンマークをぶら下げ続けていたかもしれない。行き着く先はいずれにしたって、これだったような気もする。
「エースもデュースも、グリムも。目が離せないほどやんちゃだけど、ちゃんとするところはしっかりしているし、大切な友人で、信頼できる仲間です」
 虫唾の走る単語の列挙に眉根が寄った。は俺のほうを見ずに、流れていく景色を追いかけている。
「でも、言えないこともちょっとあります。そもそも言いたいかっていうと、言いたくないんですよ」
「おーおー。俺は粗雑に扱える年の近い部外者だから言えるってか?」
「そんなこと言ってないじゃないですか」
 唇をへの字にひん曲げて、明らかな不満を表わしていた。チェカがごねているときの表情に似ていて、思わず目を背ける。
「あの日、街に行ったときに湧いてきた感情が、誰かに甘えたいってことだってわからなくて。レオナ先輩が言ってた通り、そういうことをすればすっきりするんじゃないかと思って、お酒の力を借りてなし崩し的に、なんて思ったんです。レオナ先輩が、誰でもいいわけないのに。失礼なことして、ごめんなさい」
 遠くでシーガルの甲高い鳴き声がいくつか響いた。クソ真面目なコイツらしい、あけすけな嘘のない、誠意のある経緯説明と謝罪だった。
 この体当たりな誠実さは〝ここ〟で生きていくために演じはじめたものなのだろうか。もっとあらゆる物事に適度に無関心で、器用に立ち回れるだけのある程度の狡賢さをもって、ここではないどこかでは生きていたのかもしれない。
「じゃあ、お前は俺に寄りかかられてもいいのか? 甘えられてもいいのか? こっちだけ受け止めてやる関係なんて、割に合わねえんだが」
「えっと、すみません。その発想はなかったです。……でも、まあ、わたしでいいなら、いいですよ?」
「はっ。ま、心配しなくともそんな予定は今んとこねえけどな」
 沈みかけた夕陽を背後から浴びながら、小首を傾げているの表情はよくわからなかった。
 ただ、戦略的に変更されたであろう一人称に、彼女が引っ掻き回してきたであろう過去の男たちを思った。勿論、同情している。
「ていうか、レオナ先輩がわざわざ車借りて運転してるのは、どう考えても普通じゃないので、レオナ先輩こそ距離感間違えてるんじゃないんですか?」
「……これは、間違いじゃねえよ」
 きっと、彼女は俺の弱みになるだろう。同時に、強さにも変わるのかもしれない。我ながら身震いする想像だった。でも、不思議と悪くはない。
 夕暮れ時の潮風がわずかな湿度をもって肌を撫ぜている。

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