水没アペラシオン
植物園の亜熱帯ゾーンはじめじめとしていて、まるでぬるいサウナのようだ。
日本だと沖縄は一応亜熱帯気候に属していたような気がするが、生憎わたしはあの離島へは旅行したことがないし、おそらくはこんなに湿度は高くないように思う。
サイエンス部が懇切丁寧に育てている植物、薬草や毒草、そしてフルーツがたわわと実る木々は生命の力強さを感じさせる。
ツイステッドワンダーランドに降り立ってからはまだ、少し肌寒い気候しか体験していない。
日本には四季があるが、ここにも暖かい期間があるといいな、と切に願っている。この世界からの脱出を諦め、骨を埋める前提での願望だった。できれば、それを知る前に戻りたくもあった。
「おい、そこの草食動物。出て来い!」
気高い怒鳴り声が鼓膜を貫いて、ゾーンの出入り口のほうへ視線を移す。声の主は顔を確認せずともわかっていた。
浅黒い皮膚をした、運動着姿のライオンのような人間。レオナ・キングスカラーは、尊大に腰に両手を当ててこちらを睨みつけている(わたしは視力のよい動物ではないので表情までは見えない。かなりの根拠と確信のある想像だ)。
「えっと、もう少しだけいさせてほしいです!」
「あ!? なんでもいいから、早く来い!」
夜のオンボロ寮は底冷えする。ここでサウナのように三十分くらい過ごしてから、寮に帰るのはどうかと思い至ったのだ。結果的に意味はないように思うけど、ここの草花を見るのも好きだった。
途端、顔面に水飛沫がかかる。屋根のある植物園に、雨? 驚いて顔を上げれば、雨雲なんてない。あるのは、スプリンクラーだ。
わたしがいることなどおかまいなしに、あたり一面に水を撒き散らしている。一瞬のうちに頭からつま先までしっとりと濡れてしまった。ここから出入り口まで戻るあいだには、びしょ濡れだろう。
「言わんこっちゃねえ」
「はあ……すみません」
「濡れて困るのはお前だろうが。この俺がわざわざ忠告してやったのに」
ドアの前で仁王立ちしていたレオナ先輩は盛大なため息をついた。
ちゃんと言ってくれれば、走って出たのに。スプリンクラーが作動するぞ、と。言葉が足りない。
「ほかの草食動物だったら放っておいてもよかった」
オンボロ寮ではまともな暖を取れないと知っているからだろうか。すきま風がぴゅうぴゅう通り抜け、挙句シャワーは結構な頻度でお湯から水に勝手に切り替わる。オンボロ寮は名実ともにオンボロなのだ。
「獣人の嗅覚を舐めるなよ」
どうやら、そういった心配をしてくれていたわけではなかったらしい。ふと自分の衣服を見下げる。ぺったりと脚にまとわりついたスラックス。そして、上半身の凹凸を際立たせたシャツ。
「……別に、隠していたわけではないですけど。まあ、ここは男子校ですし、誤魔化そうと多少努力はしていましたが」
レオナ先輩はわたしが女であることを知っていたらしい。言ったとおり、わたしは自分の性別を隠そうと躍起になったことはない。
あまり身体の女性らしさも顕著なタイプでもないし、ここへ来たころ髪の毛はリドル先輩のようなショートだった(今は麓の理髪店に行く経済的な余裕もないし、自分で切るのはケイト先輩に咎められたので伸ばしている。もう少し伸びたらひとつにでもくくる予定だ)。
顔の造形でいえば、わたしよりずっと美しい人たちもいる。必死に隠さずとも、疑われることもないのだ。
そもそもわたしの性別がどうとか詮索する以前に、わたしという存在が異端なのである。人はよりインパクトのあるほうに目を向けるものなのだ。
「着て帰れ」
ばさっ、と目の前に白い塊が飛んできて、反射的にキャッチした。
小さな橋に無造作にかけられていた実験着の白衣だった。かすかに、レオナ先輩の体臭と香水の混ざった独特の香りがした。
明日の授業で使わないのだろうか? と尋ねるのは愚問だろう。
「……制服の上にサイズが明らかに合ってない白衣なんて、余計に目立つ気がしますが」
「雌であることを覆い隠すには視線が逸れてちょうどいいだろ」
それは一理ある。わたしはひとつ頷いて、レオナ先輩の善意(いつかなんらかの見返りを求められるだろうから純粋な善ではない)に甘えることとした。
翌日、金曜日。授業が終わり、まだ陽が沈みきらない時間に、モストロ・ラウンジはバイトとフロイドに任せてきたというアズール先輩とジェイド先輩と正門前で合流した。
こういうのに率先してついて来たがるはずのフロイド先輩(お前の飲食代は自腹ですよ、とアズール先輩が言ったら、じゃあ行かな〜い、となったらしい)が果たしてひとりになってしっかり仕事をまっとうできるのか。気分が乗っている日であることを祈るほかない。
よろしければ今度、麓のリストランテへ行きませんか、とアズール先輩に誘われたときは開いた口がしばらく塞がらなかった。
敵情視察だと彼は言っていたが、おそらくは改めて件の謝礼も込められている。ジャックなんかには別ルートでなんらかの謝礼をしたか、これからするのだろう。そしてそれは、丁重に断られるはずだ。
ミステリーショップで普段の買い物は済むので、麓まで出ることは滅多にない。きょろきょろと街を観察したかったけど、なんとなく彼らの前で好奇心をむき出しにすることは憚られた。
アズール先輩がリザーブしていたお店は、派手というより地味で、満席ではなく空席もあった。わたしたちは予約席の紙札が置かれているテーブル席に案内された。札にはご丁寧に『Mr. Ashengrotto』と手書き文字が添えられている。なるほど、敵情視察にせよ接待にせよ、アズール先輩がこのお店をチョイスした理由がわかった気がした。
寮でもパスタはつくれるのに、なぜか今日はどうしてもトマト系のパスタが食べたい気分だった。店でいちばん高いものをオーダーしてやろうと思っていたのに。
うんうん唸りながら、わたしは覚悟を決めてメニューにあったペスカトーレを指差した。まだジェイド先輩は決めかねている様子だ。
店内を見渡すと、カウンター席のカップルがわたしの目をひいた。彼らが騒がしいわけではない。むしろほかの客より静かだ。悪戯に耳元で囁いたり、そのまま耳の後ろを触ったり、太ももに手のひらを添えたり、軽いキスをしたり、といった動きを除けば。
そういえば、この国の人たちの人間性というものを、わたしはよく知らない。わたしの知る世界でいえば、アメリカやヨーロッパのような、オープンな感じなのだろうか。それとも、彼らがレアなのだろうか。
オーダーを終えた目の前の人魚たちの視界にもカップルは入っているはずだ。店内の雰囲気を大事にしている彼らならひと言物申してもおかしくないところだけど、とくに言及することはなかった。
彼らは大人びてはいるけど、まだ高校生だ。年齢的なものもあるかもしれないし、やはりああいった男女は当たり前の光景なのかもしれないし、とりわけ人魚にしてみれば、オスとメスのあれこれというのは、ひた隠しにするようなものでもないのかもしれない。
料理もお酒もそこそこに指を絡めあっている見知らぬ男女を見て、まだなにも食べていないのに迫り上がってきそうな不快感を覚えた。
「ペスカトーレ、気に入ったのですか?」
ここの料理がアズール先輩の口には合わなかった、ということではないらしい。問いかけに棘はないので、嫌味ではないと思う。
レジの横に〝当店自慢のトマトペースト〟と、これまた手書きで特徴の書き込まれた紙のプレートがあり、その後ろに三つトマトペーストの缶が陳列されていた。
「グリムくんに作って差し上げるのですか? 今日はお留守番ですからね」
「えっと、まあ、そんなところかな」
置いてきたグリムへ、お土産を買って帰ってあげようと思ったのは確かだ。今、たった今、ジェイド先輩に問われてほんとうにそう思った。
あの件に関してグリムは契約の当事者なのだ。半分以上悪いんだから、アズール先輩たちがグリムに謝罪の形を渡す必要はほぼない。そもそも誘われるに値しないのだから、置いてきたと表現するのはナンセンスな気がする。それにグリムは今ごろハーツラビュル寮でもてなされている。
なぜ缶詰を凝視していたかと言うと、レオナ先輩へなにかお礼をしなくてはならない、と思い出したからだった。グリムじゃない。
レオナ先輩が料理をすることはないだろうけど、ラギー先輩に使ってもらえば必然的にレオナ先輩の胃袋に収まるだろう。
ふと、レジの奥の棚に目をやるとワインボトルが並んでいた。ここへ来てから、お酒を飲んでいない。日本にいたときにすごく飲んでいたかというとそうでもないけど、いざ目の前に差し出されるとうずうずする。店内でもワインを嗜む人が散見されて、わたしもグラスをゆらしたくなっていた。
「先ほどから気にはなっていたのですが、あなたもしかして、お酒が嗜める年齢なのですか」
わたしの視線を追うだけでいろんな情報を得て推察しないでほしいものだ。支払いを終えたアズール先輩が目を丸くしている。
「じつは、自分の国では法律上そうなんです。ここではどうなんでしょうか。第一、自分は身分を証明することもできないですし、制服を着てますし、なにより、お酒を買うほどの余裕がないですね」
大袈裟に肩をすくめると、ジェイド先輩がにこやかに笑う。
「それでしたら、モストロ・ラウンジへぜひいらしてください。じつは、教職員用に何本か揃えているんですよ」
「どなたかへのプレゼントなのであれば、店内で召し上がっていただかなくても構いません。特別に、仕入れ値でお譲りしましょう」
学園長のように両手を広げて「私、優しいので!」と、今にも言い出しそうなアズール先輩が怖い。
「……なにか企んでます?」
「お近づきの印です」
「調子いいなあ……」
その足でモストロ・ラウンジで白ワインを一本購入した。肉食のレオナ先輩なら赤だろう、と思ったのだが、わたしが白を飲みたかった。二本購入する余裕はない。お礼だというていだが、ワンチャンご相伴に預かれないかという魂胆だ。
アズール先輩は白を選んだわたしに疑問符の浮かぶ表情を向けていた。まさか、渡す相手もわかっていたなんて。
レオナ先輩の白衣は曇ったり晴れたりをくり返していた冬空でも一日でなんとか乾いた。「制服はつねに清潔でなければならない」と、頬をリスのように膨らませてリドル先輩が主張し、トレイ先輩が譲ってくれたアイロン台に白衣を広げてアイロンをかけた。
ワインは丁寧に紙袋に入れてくれたので、そこに我が寮の洗剤の香りをまとってしまったレオナ先輩の白衣を滑り込ませる。「今度はどこに行くんだゾ!?」と、また置いていかれることに不平不満を述べるグリムを押しのけて、鈍い音を立てるドアを開けた。
「また来たのか。懲りねえな」
「あ、レオナ先輩。探す手間が省けて助かります」
今度はちゃんと、スプリンクラーが作動する時刻の書かれたプレートを読んだうえで亜熱帯ゾーンに入室した。まだ次の作動時間までは時間がたっぷりあることを知っている。
明日は休みとはいえ、もう二十時に近いからとっくに寮に戻っている可能性が高いと思っていたけど、借りているものは早く返したい。
「これ。よかったら一緒に飲みたいんですが、どうですか?」
モストロ・ラウンジのロゴが印字された袋からボトルを取り出す。
「先日のお礼にと思って」
「……一緒に? クロウリーに一年に酒飲ましたなんてバレたらめんどくせえ」
ぱっ、とレオナ先輩の瞳が見開いたと思ったら、すぐに眇められた。
口ぶりからして、校内での学生の飲酒自体が禁止されているわけではないらしい。
「レオナ先輩、自分のこと、いくつだと思ってますか?」
「身体の発達具合から見たって一年坊たちと同じか、それより下じゃないのか」
「失礼な。自分、レオナ先輩と同い年とかですよ」
「成長期に栄養が足りなかったのか? かわいそうにな」
「ほんとうに失礼ですね。うちの両親に謝ってください」
レオナ先輩に謝罪を要求しながら、わたしこそ両親にこの親不孝を謝らなければならないと思っていた。わたしのいなくなった日本で、彼らはどうしているのだろうか。
思春期真っ只中のころ「お前らが勝手にわたしをブスに産んだんだろうが!」と、当たり散らかしたこととか、ちゃんと成人式のときにでもキリよく謝っておくべきだったな。
「いいぜ。俺の部屋来いよ」
「……えっ、俺の部屋で、いいんですか?」
正直、あっさりオーケーしてもらえるとは思っていなかった。それに、どこで飲むのかを考えていなかったとはいえ、まさかあれだけわたしとグリムを入れるのを嫌がっていた部屋にまた招待してくれるなんて。
「三日も居座ってたんだ。勝手知ったる部屋だろうがよ」
「それはそうですけど」
「嫌ならそいつを置いてオンボロ寮に帰れ」
「……いえ、お供させていただきます!」
ひらひらと片手を振って外へと出ていくレオナ先輩の背中を追いかけた。
サバナクロー寮に王の帰還とばかりに入って行ったレオナ先輩の後ろから顔を出すと、ラギー先輩はぎょっとした。
おそらく、レオナ先輩に渡すより直接ラギー先輩に渡したほうがよいと思われたので、瓶は手に持って、実験着の入った紙袋をラギー先輩にバトンタッチした。マーキングとか、必要かもしれないし。
「なんで白なんだ。赤だろ」
ふたり掛けのソファの前に小ぶりなテーブルを召喚しながら、レオナ先輩は文句を言った。想定内だ。
「自分が飲みたかったんです。すみません」
「お前の趣味でモノ選んだらそれは謝礼じゃねえだろ。……しかたねえ。俺のとっておきだぞ」
常温保管されていたらしい赤ワインの瓶が、キャビネットから取り出された。
「と、とっておきなんてものを、出してくれるんですか?」
「ひとりでたまに飲むだけだと、なかなか一本空けらんねえ。一回開けたら、傷むだけだからな」
レオナ先輩はそう言って、赤ではなく白のボトルを魔法でキュポン、と開けた。せっかくの贈り物をぞんざいにはしないらしい。
「一本空けられないってことはレオナ先輩、あんまりお酒強くないんですね?」
とぽとぽとふたつのワイングラスに、半透明の液体が注がれていく。グラスの数だけ、校内でほかにも飲める相手がいるのかもしれない。もしくは、合法ではないけど飲む相手、とか。
「飲む機会が少ねえと、なかなかな」
ふたりとも立ったまま乾杯、と短くお互いに言って、グラスに口をつけた。
「たまには白も、悪くねえな。ま、酒自体久々だから赤も白もねーか」
「まずいとか言われたらどうしようかと思いました。よかったです」
さすがのアズール先輩だ。自分では飲めないだろうけど、しっかりした筋から仕入れているのだろう。
それにしてもレオナ先輩。もう一脚新しく椅子を出すつもりはないのだろうか。木の椅子をここまで引っ張ってきてもいいけど、明らかにテーブルと高さが合わない。このままではレオナ先輩と超至近距離でふたり並んでソファに座らなくてはならない。
ゆらゆら揺れている尻尾を眺めながら、あれを踏みつけてしまった日のことを思い出す。今晩はお尻で踏みつけてしまいそうだ。今度こそ怒られる。
わたしの心配をよそにレオナ先輩はどかり、とソファに腰を下ろす。
それと同時にラギー先輩が鶏肉の料理、生ハム、チーズの盛り合わせ、手製のポテトチップを運んで来てくれた。鶏の料理は作りおきされていたのかもしれない。
てきぱきとテーブルに並べてくれたラギー先輩に「ありがとうございます」と頭を下げると「いいんスよ。ごゆっくり〜」片手を振って出て行った。小言を小石のように投げつけられるとばかり思っていたので、拍子抜けした。
数時間前に夜ごはんは済ませていたけど、少し早い時間だったので小腹が空いていた。わたしは恐る恐るレオナ先輩の隣に座る。
鶏料理は棒棒鶏のように辛いものを想像していたが、塩が効いてるけど辛くなかった。ポテトチップはカレーのようなスパイス系の味でワインが進む。
ビールのほうが合いそうだけど、お酒を嗜まない年齢の子にそこまで求めるのは酷だ。それに、レオナ先輩も普段飲まないというのなら、お酒のあてをつくらされたこともほとんどないのだろう。
「獣人は、性生活を隠すものですか。それとも、あけっぴろげですか」
我ながら不躾なことを聞いた自覚はあった。でも、どうしても今ここで昇華したかった。
レオナ先輩が前屈みになってお皿からお肉をつまんで、彼の三つ編みが肩にかすった。
ナイトレイブンカレッジは男子校だ。教員にも女はいない。だから〝男と女〟の組み合わせを随分とひさしぶりに見た。
自分自身の存在は他所へ置いておこう。わたしはここで、女であることを主張したことはないのだ。察していたり、こうしてレオナ先輩のように確認し合ったりした人がいるにしても。
「自分の国では、異性との過度な接触は外で避けるものなんです。だから、他人のそういうのを見るの、ちょっときついんですよね」
レオナ先輩は無愛想にグラスからワインを飲んでいるが、ライオンの耳は動いている。聞いてはいるらしかった。
「あと、普段タブーなものとして扱われている行為が、子を身籠るという疑いようもない状態で露見するのを見るのも結構、居心地悪いんです」
これは蛇足ではあったが、日本にいたころに常々考えていたことだった。
ただ、その考えをだれかにわざわざ伝えたことはない。妊娠すること自体を否定しているわけではなくとも、特定の人間を間違いなく不快にさせることがわかっていたからだ。
「そういう前提があってですね。今日街に出たらいちゃいちゃしているカップルを見まして。お国柄というより、獣人属はどういう感じなのかなあ、って気になった……と思ったんですけど」
なんかそれも違う気がするな、とはたと思い悩む。
「まあ、いいです。なんでもいいので、飲む口実がほしかったんです」
「俺が女の誘いを無下にする男じゃなくてよかったな」
はん、とレオナ先輩は鼻で笑った。わたしは空いたふたつのグラスにワインをそそぐ。もう一本空にしてしまった。
「半分獣だからって、道端で襲いかかったりしねえよ。それこそ半分人間だからな。それに、俺の国の女は大抵怖えし強え」
「人間の窮屈なところを律儀に踏襲してるんですねえ」
「……ふうん。お前は、そういうの気兼ねなくどこでもやりてえのか?」
にやり、とレオナ先輩は口角を釣り上げてわたしに視線を寄越す。
「どうしてそうなるんですか。言ったじゃないですか。隠すものだから露骨に見えると気持ち悪いんだ、って」
「隠すものじゃなかったら気持ち悪くないんだろ? 隠さずにいたい、って思ったから、俺に聞いたんじゃねえのか」
香水の香りが鼻をくすぐった。レオナ先輩がわたしとの距離を詰めたのだとわかったときには、半端な長さのわたしの髪の毛をレオナ先輩が指に絡めとっていた。
わたしは平常心、と心の中で唱えてワインを喉から落とす。
「生物学的に意味わかんないことしてるな、無理なことしてるな、って思うんですよ。本来、動物として子孫を残すためにセックスは普通にすべきでしょ? それを、平時、学校や職場にいるときは隠して生活してる。そんなことしてません、って顔して、性欲ある生き物であることを覆い隠して生きてるんですよ。なんだか滑稽だと思いません?」
「ずいぶん饒舌になったな。もう酔ったのか」
「どうでしょう。いかんせんわたしも、ひさしぶりなので」
「要約すると、ご無沙汰なのに街でいちゃつく草食動物どもを見て、自分もしたくなった、だろ?」
首すじに歯を立てられて、ぞくりとした。欲情したのではない、動物としての逃走本能だった。
「かわいがってやろうか。学園内では涼しい顔してうろついてろよ」
「……わたしに手を出したら、アズール先輩に弱み握られますよ。あの人、わたしがワイン渡す相手がレオナ先輩だって、わかってました」
「お前の存在が俺の弱みになると思ってんのか? めでたいやつだな、お前は」
耳に吐息がかかって、唇を引き結んだ。長く鼻から息を逃す。
「別にわたしはレオナ先輩が身体を張って助ける価値のある人間ではないでしょうから、そういう意味の弱みにはならないでしょうけど。アズール先輩が料理すれば、なんとでもなっちゃいますよ」
言葉とは裏腹に、わたしはこのままレオナ先輩に沈められてしまいたかった。きっとわたしは最初からそのつもりでワインボトルを手にしたのだ。
「おいおい、気をつけろよ。さっきから一人称、変わってんぞ」
だけど、彼はわたしを揶揄っているだけだ。レオナ先輩はきっとこの状況に流されてはくれないだろう。彼はいつだって、流す側なのだ。
寄りかかれるものがなくて、いちど倒れこんだら、取り返しがつかなくなる気がしていて、とにかくひとりで地面の上に立ち続けることに必死だった。
右も左もわからぬ土地にやって来て数か月。夢か幻か、めまぐるしい日々を駆け抜けている。この世界でのわたしの知識レベルなんて幼稚園児以下で、実年齢よりよっぽど年下の問題児たちと行動をともにして、わたしの育んできた常識はあまり役に立たない。
「……レオナ先輩」
これは性的な欲求ではない。単なる甘えの一種だった。
わたしの沈殿させていた感情が我先にと溢れ出す前に、レオナ先輩の長い腕が伸びた。かしゃり、と手首の飾りが鳴る。わたしは過度なアクセサリーを身につける男は好きではなかった。
包むように、大きくて骨ばった手のひらがグローブ越しにわたしの後頭部を抱える。彼の胸元に押し付けられた、ただでさえ低いわたしの鼻先はつぶれた。
彼はわたしの孤独を理解しないかもしれない。でも、無遠慮に否定もしない。