6杯目
NO RAIN, NO RAINBOW
「おい」アルコールが入って声量が普段より倍くらいになっていそうなテーブル席のお客さんたちの声と、厨房の食器がたてる音と、溌剌としたオーダーを受ける声のあいだをぬって自分の名前が呼ばれる音を拾う。まぶたが自分の想像していた以上に長いあいだ落ちていたことに気がついた。
そろりと暗闇から抜け出せば目の前の串物のショーケースに反射している光がまぶしくて、視界がぼやける。カウンター席で右どなりに座る諏訪に視線をうつし、ビールジョッキの取手を握り込んだ。
「寝てたろ」
「いやいや……まばたきだよ。長めの」
たった2杯生を飲んだだけなのに。疲れているんだなあ、とあくびを噛み締めてから炭酸を喉に流す。
ほどよい苦味はわたしの意識を覚醒させてはくれない。毎日数杯飲むブラックコーヒーと同じでとっくに耐性ができているのだ。そもそもアルコールは睡魔を呼ぶものである。まあ、ときにハイテンションをもたらすこともあるわけだが、少なくとも今日はそういう日ではないらしい。
「帰るか?」
「なんでそんないじわるなこと言うの」
「なら起きろ」
「だから、起きてるってば」
よ。と、某アニメのキャラクターの語尾をつけそうになって、引っ込める。
ラウンジという騒がしい場所で卒論をぽちぽちと打っていたわたしに、諏訪が怪訝な表情を浮かべながらキャスター付きの椅子を引いて正面に腰かけたのは数時間前のはなしだった。運よくか悪くか見つかったわけではなくて、あらかじめ居場所をメッセージで問われ、伝えていた。
集中力を途絶えさせて、なにか話さないといけないだろうか、とモニターから目線を上げ続けていればバックパックからノートパソコンを取り上げる動作が確認できたので安堵した。思い出したようにひと言ふた言やりとりすることばや、会話にもならないぼやきや呻き声が心地よく流れて、一歩間違えれば互いに邪魔になるはずなのに、案外捗った。
ラウンジの人もまばらになったころ、飲みに行こうという流れになるのは当然の成り行きだった。むしろそれを期待という糧にして、タイピングや書籍をめくる手が忙しなく動いていたともいえる。
「諏訪はボーダーに就職するんでしょ」
「あ? そーだな」
「いいね、楽で」
そう八つ当たりをしてみれば、おいこら、と握り拳の鉄槌が頭頂に下される。痛いなあ!
というわけで、わたしは卒論を着実に進めながら、終わりの見えない就職活動をまだやっている。
三門市立大学はそれこそ渦中の三門市にある大学という意味では全国的に名が知れているが、三門市近辺以外での就職を考えているような学生にとってみれば、足切りされるレベルの大学だ。現に、滑り止めで受験していたという友人が大多数である。かくいうわたしも、三門市大学が第一志望だったかというとそういうわけでもなく、ただ推薦でいけるというだけで進学を決めたのだった。
界境防衛機関への就職というのは現在ボーダー隊員でなくても可能だ。いわゆる一般職とか総合職とかいう仕事が当然あの組織にもあるのだ。諏訪は隊員という前線からは退いて、隊員育成と営業にまわるんだと言った。常識的に考えて、ふたつの仕事の掛け持ちは重労働だろうが、もしかしたら今も同様のことをしているのかもしれない。どこから守秘義務に当たるのかは知らないが、なんとなく濁されたりしたら、拒絶されているわけでないと頭では理解していてもほんのり傷つくと思うので深追いはしない。
ボーダーに在籍している限りは危険と隣り合わせの仕事には変わりないけれど、それは三門市に住んでいる限りはあまり優劣のないことのようにも思う。実際、ボーダーができてから件のレベルの災害は起こっていない───というよりは諏訪たちによって食い止められている───わけで、隊員でない限りは、戦争に派遣されることがない、安定した、転勤のない、自衛隊みたいなイメージがないこともなかった。だから、じつはボーダーへの就職というのは人気だったりする。
「でも、だれでもそのまま就職できるってわけでもないよね?」
「本人の意志だけではまぁ、難しいな」
そのまま隊員として働けなくなるまで、籍を置き続けることを勧められるだろうな。
諏訪はそう言ってジョッキを持ち上げる。働けなくなるというのは、年齢的なことなんだろうか。定年まで闘うんか? いや、それはないだろう。そうなると、ある一定の時期が来ると否応なく働けないような状態になるのだろうか。
そこも問いかけない代わりに、諏訪によってわたしの分だけ大皿から小皿に取り分けられていたシーザーサラダを箸でつまんで、口に運ぶ。
なんにせよ、ボーダーのウェブサイトとか報道でしか知らないが、何人か顔の浮かぶ幹部たちの満場一致ないし、それに近しい推薦が必要なのだろう。営業職は人選にそこまでこだわる必要はないような気もしたが、諏訪に営業の適性があるという判断に一友人として異論もない。
「必要とされるって、すごいことだね」
しかもふたつの部署だなんて。
今更ほめられてもな、とでも言いたげな眉根の盛り上がった諏訪が、店員さんがカウンター越しに身を乗り出して配膳しようとしているアスパラ巻き串、ぷちトマト串が2本ずつ載ったお皿を受け取って、ふたりのあいだに置いた。
「しっかしまぁ、クソブラックだぞ。まだ学生だっつーのに、やっとこうして飲める時間がとれたわけだしな」
「うーん。わたしじゃ鮮明な愚痴を聞いてあげられないから、ボーダーの人たちと飲むほうがいいんじゃないの?」
「毎日顔突き合わせてるやつらと酒飲まなきゃ話せねーことなんて、もうねえよ」
冗談ではなくいたって本気な、くたびれたため息に笑ってしまう。
まるでわたしとは話したいことがある、わたしと話がしたかったのだ、と諏訪は言っているようだけれど手放しではよろこべない。
だって、諏訪はわたしにわざわざ連絡を寄越して少し寄りかかろうとしたくせに結局やめた、という前科があるんだもの。あれは、ああ、わたしではその役割は担えないのね、なんてちょっとがっかりするにはじゅうぶんな出来事だった。それはもちろん、わたしが諏訪に必要とされたいと願っているからこそ、湧き出てきた感情だったと認識している。
ただ、今はとりわけ、諏訪に必要とされ認められたいというよりは、だれか。だれでも。あなたは唯一無二で、代えのきかない存在だよと、示してくれる人。束の間の、かりそめの安心感をもたらしてくれる人であればだれでもいいのかもしれない。
「なんかやりたいこととか、決まってんのか? 妥協できねー感じ?」
「いやいや、これがまったく。絶対これ、譲れない! みたいなのがないから困ってるんだよね」
さっそくアスパラ巻きを口に運んでいる諏訪を横目に、わたしはお通しのもずく酢をつついて、串物がもう少し冷めるのを待つことにする。
「そもそもさ、なんでも突き詰めなきゃいけないのかな」
自分の強みはこれでぇす! 負けませぇん! 的なのがないと就職できないわけ?
などと言ってビールを流し込むが、それはありえないと、当然わたしも理解している。そんな人間ばかりが存在していたら、世界は成り立たないのだ。だけど、現にわたしは就職先が決まっていなかった。目下の大問題である。それはどうにも、わたしは世間様に必要とされていないということのように思えて、その呪いは背後霊ごとくわたしに日々まとわりついている。そのへんに転がっている煙草の吸い殻くらい、馬鹿馬鹿しい、取るに足らない、よくあるはなしだった。
「べつに俺だって、なんかが突出して優れてるわけでもねぇよ」
諏訪は竹串を筒に放り込んで、入れ違いに煙草を指に挟む。
卑下しすぎることはない。驕っているということもなく。客観的に自分を見ている。でもどこか、自分と他人のあいだに一線を引いている。なんとなく、諦めている。諏訪の居心地のよさというのはそんな、ちょっとだけ自己評価の低いところにあるのかもしれない、と思う。
ボーダーという組織に属していないわたしには判断基準が風間くんや雷蔵くん、レイジくん。それにちらっと挨拶したことのある堤くんくらいしかないし、彼らが働いているところを見たことはない。
諏訪曰く、風間くんやレイジくんは隊員のなかでトップレベルで、雷蔵くんは高卒でずっと組織に尽くしていて、チビゴリラと筋肉ゴリラとデブゴリラらしい。ほとんど悪口のようにも聞こえるそんな人たちに囲まれていると、自分はさほどでもない、と悟るのかもしれない。
それでもやっぱり組織に残れるというのは評価されているということの証明以外になんだと言うのだろうか? きっと諏訪にはだれよりも───少なくとも組織内では秀でていることがあるに違いない。
けど、それをわたしが真剣な表情で伝えたところで、おまえが何を知ってんだ、と呆れられることだろう。無責任な根拠のない励ましやアドバイスほど、無価値なものはない。
「あのさ。プース・カフェって、知ってる?」
「あ? なんだそれ」
「カクテルのスタイルなんだって」
人差し指を振ってテーブルに置かれていた端末を指差せば、諏訪は火のついた煙草を口にくわえてそれを拾い上げ、フリック入力に手が動く。腰を浮かせて椅子を引きずって、なぞられる画面を覗き込んだ。「おっ、グラスホッパー」「うむ。伊坂幸太郎だよね」「それもそうだけどよ。そーゆー名前の技術? が、ボーダーにもあんだよ」「バッタ……飛ぶんだ?」「察しがいいな」。
「でね、レインボーってやつがあるの」
「これか」
うわっ、すげーな。
スクロールする指が画像を長押しして拡大表示される。7段にきれいにわかれた配色が小さなグラスにおさまっている。文字どおりレインボーだ。
ウォッカやマリブ酒でつくられているカクテルなんだそうだが、それらがどういった配合でこんなことになるのかは、まったくもって理解不能である。
「こないだバーに行ったとき、いくらでも出すからつくってと、頼んだの」
「おめーが?」
「まさか。アフターのお客さん」
串をお皿から持ち上げ、ひと粒口に含む。噛み締めたトマトが口の中で弾けた。
先週の金曜日。スナックのバイト終わりに、最近よく来店してくれるお客さんに誘われた。基本的に同伴しかしたくないのだが、明日は休みだしたまにはいいかなと、ママと目配せして、わたしだけ着いて行くことにした。これからうちの店に居着いてもらう、ビジネスチャンスなのだ。逃さない手はない。
ビール党の自分ではまちがいなく選ぶことのない薄暗い空間は、お客さんの行きつけではなかったらしく、彼もはじめて足を踏み入れるというバーだった。
「いくらでも、つったって、相場どんくらいなんだよ」
「3000円くらいらしいけど」
「ビール5、6杯分か……」
煙が吐き出される。ついついうっかりなんでもビールで計算。高いよね。でも、これだけの芸術的なものが出てくるにしては、安いような気もするよね。そんな気持ちを込めて、うんうん、と二度うなずく。
「うまかったか?」
「……それがね。つくれなかったのよ!」
木製の椅子の背もたれにのけぞって、わたしは自分の太ももをばしばしと叩きつける。ひな壇芸人さながらのオーバーリアクションである。
見たとおり、やはりレインボーというカクテルをつくるにはそれ相応の技術が必要とされるらしい。やってみます、と曖昧な笑みを浮かべたバーテンダーには、その技術がなかったわけだった。
「そしたら、これつくれないなんて、バーテンダー名乗れねーぞって。……お客さんがバーテンダーさんに言ったの」
ひと息ついて、よいしょ、とお尻を浮かせてふたたび坐骨をたてて座り直す。
バーテンダーは、つくれません、とズバッと断ればよかったのか。そうしなかった心意気を讃えてやってもいいじゃないか。
そうわたしは思って、それいただきますよ、と手を差し伸べようとしたけれど、ここのお会計をするのはお客さんだ。その判断を握る男は、そんなものを飲むんじゃない、とわたしを制した。だからわたしは、なにも言えなかった。今にもうつむいたり、怒り出したりしそうなバーテンダーにも。もちろん、お客さんがこんなマウントを一見のバーで取ることに優越感をおぼえているのだろうという、気味の悪さに対しても。
「ほかのカクテルはつくれるのにさ。それじゃだめなのかな?」
「本人が納得してるならいいんじゃねえの」
「でも、評価はつねに他人がするもんじゃん」
わたしが吐くすべての棘のあることばは、ひたすらに自分にぐさぐさと、ちくちくと、刺さる。だれかがだれかを否定する言動も、自分に向けられたものでなくても、痛かった。
今日はきっと諏訪がなにかをこぼしたい日だった。そうでなくても、少なくともいろんなしがらみから解放されて、そのへんの女と気晴らしに飲みたいだけの日だったはずだ。なのに、それを奪ってしまうのは申し訳ない。どうにかして空気を立て直さなければ。そうは思っても、心と言動が一致してくれない。
なにがしたいかなんてわからないし、できればなにもしたくない。自信がない。置いていかれる焦り。でも努力を怠る、やっぱりなんとかなるんじゃないかという情けない楽観的な考え。ぐしゃぐしゃに丸められた紙。絡まってほどけなくなった刺繍糸のように、わたしの情緒はゆがんで、頑なだった。
毛羽立って擦り傷だらけの心を、治癒の効果効能のあるぬるま湯の温泉にでも浸してほしい。なんか、某死神のアニメにそんなのがなかったっけか。
痛い、と泣きわめきながら、だんだん消えてゆくその傷の痕を、いつか愛おしく思えたらいいなあ、と想像する。今はまだ、到底無理だけど。
「おめーは大丈夫だよ。俺が保証する」
同志を励ますかのような背中への平手一撃に、つんのめる。ありとあらゆる濁ったものが、その拍子に口や目から飛び出してしまいそうだった。
となりで諏訪が短くなった煙草をステンレスの灰皿に押しつけている気配を感じる。わたしはうなだれたまま、じっとしていた。こぼれかけたものを引っ込めなくてはならない。ぽんぽん、とやさしく何度かたたかれる背中があたたかい。できることなら、ずっとこうしていてほしかった。
「……どっかの社長に保証されたいわ」
「言ってろ」
願いも虚しく、諏訪の手はわたしの背から離れて頭に落ちてきたけれど、ちっとも痛くはなかった。