7杯目

RGBの組み合わせ

 ラストのゼミだった。ちょうど奨学金返納についての講習会がゼミの後に被ってしまったので、お疲れ様会は後日となっている。もちろん幹事は諏訪だ。最後の最後までご苦労なことである。
 今日は寝坊した結果、リュックに突っ込んでいたアルフォートしか食べていなくて、お腹がすいていた。学食で今更食べるのも、家に帰って何かつくるのも、コンビニで何か買って帰るというのもなんだかしっくり来ない。あ、そうだ。
 忙しなく帰り支度をしていない金髪頭の男は、今日は任務でないとみた。

「諏訪、ラーメン食べ行かない?」







 今すぐに、と身体が炭水化物と味の濃いものを欲していた。爆速でペダルを漕いでもよかったけれど、もうふたりでこうして自転車を押しながら歩くこともないだろう。もちろんゼミ飲みを含め、数回諏訪と飲みの席につくことはあるだろうけれど、おたがい大学の敷地内に長居することはないのだ。ほんの少しのセンチメンタルがわたしにゆっくりタイヤを転がさせた。

「内定、よかったな」

 隣を歩く諏訪は、ろくに返信できなくて悪かった。と謝罪する。
 決まったよ。おめでとう。のやりとりはメッセージで済んでいた。諏訪は、さらに質問などを返す余裕がなくて悪かった、と言いたいらしい。

「いやいや、ありがとう」
「電話しようかとも思ったけど、せっかくならいろいろ直接聞きたかったし」

 今日も俺から誘おうかと思ってたんだよ。
 諏訪はハンドルから片手を離し、首の後ろを掻く。わたしも風を受けて散らばった前髪が気になってしまって、束を摘んで引っ張った。

「結局ね、スナックの常連さんに紹介してもらっちゃったんだ」
「そりゃよかった」
「まあ、ずるいよね」
「そうか? 手持ちの武器をフルに使ってなにが悪い」
「へへ」

 入り口に紺色の生地にオレンジの文字が印字された暖簾のかかったラーメン屋の横の路地に自転車を停めた。いらっしゃい、と数人のスタッフの勢いのよい声がわたしたちを出迎える。ほぼ満席だ。来店人数をこちらから伝える前に、カウンター席しかない店内の隅っこの二席の前のテーブルが店長の持つ布巾で拭かれた。
 券売機の前でリュックを下ろし、ショルダーストラップに左腕を通す。三つ折り財布を取り出して小銭入れのスナップボタンを外したはいいものの、10円と1円しか入っていない。お札の入っている場所を引っ張って覗き込むが、千円札一枚だけがこちらを見ていた。

「しまった、現金ぜんぜんない。いつもピッだから」

 左手に財布を握ったまま、電子決済でスマートフォンをかざす動作をしながら振り返れば、同様に財布を開いていた諏訪が、自分も同じ状況であることを告げていた。

「餃子も食べたかったけど、ここはラーメンとビールですな」
「ちがいねえ」

 折り目をできる限りきれいにした千円札が挿入口に滑り込んでいく。飲みたいわけではないはずだったのだが、やっぱりなんだかビールが飲みたくなった。空腹を満たすならラーメンと餃子のはずなのだけれど、これだから飲兵衛は困ってしまう。カウンターでチケットを二枚ずつ出せば、交換にお冷が差し出された。
 麺の硬さ、味の濃さ、油の量。云々。近頃のラーメン屋はなんでも選ばせていただけるのはありがたいことなのだろうが、わたしは「おまえの考えるベストを出して来いや!」と思うタイプである。だから、そんなことを問いかけて来ない、ここの店がすきだった。
 スナック終わり、チップをもらったときなんかに寄り道をするので、店長とは顔なじみ。のはずなのだが、今日はふつうに来店の掛け声が響いただけだったし、「はいよ。生ふたつ」。やっぱり調子を尋ねる声かけもないので、わたしもその距離感になんとなく倣うことにする。忙しいんだな。

 かんぱーい、とジョッキを軽く近づけて、空きっ腹にアルコールを入れる。染み渡る。ビールはいつだっておいしいけれど、一杯目は格別だ。

「もう卒業なんだねえ」
「一緒にこうやって出かけるのなんて、最近になってからだし実感ねえな」
「当然のごとくみんなで行ってたもんね」

 どうしてもこの頃は同級生と会話するネタは、もう卒業だなんて。信じられないね。単位足りるかな。みたいなものに固定されてしまう。だから、諏訪にも同じことを聞いた。そんなやりとりに面白みを感じていなかったのだけれど、自分もくだらない話を振る側になってしまった。

「なんだかんだ英語のクラスも般教も、よく被ってたよな」
「諏訪が大学にいないわりには、会えてたよね」
「たしかになぁ」
「けどもう、約束がないと会えなくなっちゃうね」

 ……おっと。
 今までのように偶然会ったから、今日は会えるとわかっているから、その場で声をかける、という行為ができなくなるのは紛れもない事実なのだけれど。ちょっと言葉選びと声のトーンを誤った自覚があって、誤魔化すようにジョッキを口元に近づける。
 こちらの気配を伺うような視線を隣から感じる。だめだ、間違えた。せめてこういう雰囲気は薄暗いバーのカウンターとかで出すものだ。少なくともラーメン屋のカウンターではない。

「これからはちゃんと連絡取って会おうね、ってこと!」

 卒業しても当然のごとく会ってもらえる前提の、とっても自己肯定感の高い女の発言になってしまった。本意ではない。むしろ、逆だった。もう会えないのだ、と思っているから、会えなくなってしまうね、と聞いたのだ。ストレートに尋ねられなかったからこそ、約束がないと、なんて少し詩的な条件をつけたのだ。望んでいた答えを自分で言ってしまったけれど、約束して会えばいいだろ、といつもみたいに鼻で笑い飛ばして欲しかったのだ。
 たとえそれが、社交辞令だとしても、わたしはそう言ってこの場だけは諏訪になぐさめられたかった。その約束さえあれば、わたしたちがまたどこかの夜に繋がる未来を楽しみに思い描くことができるのだから。

「……じゃあ、付き合うか」

 油がはねる音、麺が上げられて水がきられる音、退店する客にかかる声。全部はっきりと聞こえている。だけど、わたしの思考はぷつんと途切れる。自分の頭の中の一部の空間だけ切り取られたようだった。
 おろしたばかりのジョッキをもういちど持ち上げて、一時停止。カウンターチェアをつま先でくるりとまわして、諏訪に身体を向ける。

「…………なんだって?」

 たっぷり時間をかけて聞き返せば、スローモーションのようだった景色がまた通常スピードで再生をはじめた。諏訪はお冷のグラスを口につけていて、視線すらこちらへ寄越さない。

「……付き合わねーか、って、お伺いをたててんだよ」
「……本気?」
「付き合えば、軽率に会えるぞ」
「……急展開すぎてついていけない」
「おめーがふったんだろ」

 この言葉を引き出したかったんだろ、と言わんばかりの表情を見て、自分の心臓がバクバクと跳ねていることに気がついた。いやいや、想定問答にはない返答なんですよ。
 ふたたび椅子を蹴って、握りっぱなしになっていたビールを置く。わたしの思考はまったく諏訪の提案に対応できていない。なぜか。理由は明らかである。

「…………諏訪って、わたしのことすきなの?」
「そりゃそうだろ」

 あっさり肯定されてしまった。
 よし、それならわかった。状況が理解できた。諏訪はわたしのことをすきだから、わたしに付き合おうと言っているわけだ。この際、付き合ってください、というお願いベースでないことは置いておこう。わたしが諏訪のことをすきだという前提の提案になっていることには目をつぶろう。
 ───いや、待て。違うな。わたしが真面目に受け取らず、察しの悪いふりして、なんでよー、いやだよー、と言えるようにしてくれていたのだ。ついでに、諏訪自身も必要以上に傷つかずに済むわけだ。どちらにとってもメリットのある伝え方だったといえる。わたしの発言をスルーできなかった、それならばものにしたかった、この状況下での諏訪のベストアンサー。

「なんか、そんな、すきになるきっかけみたいなこと、あったかな?」
「好意のはじまりが、かならずしも劇的であるわけではないだろ」
「はあ……まあ、そうだけど……。もっとこう、情緒をだいじにさぁ……」

 わたしはこの場所でお付き合いを申し込まれたことに文句を言っていた。我ながらいいご身分である。手遅れ感はあるが、多少ふざけないと思考回路はショート寸前なのだ。

「ロマンチックな告白なんて、今までたくさんされてきただろ」
「ええっ、わたしをなんだと思ってるわけ?」
「自分のすきな女だぞ。そんないい女は不特定多数の男に好かれて生きてるさ」

 部外者が聞いたら腹を抱えて笑い転げるか、すっ転ぶような言葉を、こんな場所でつむげるなんて。はじめから悪ふざけではないとはわかっていたけれど、わたしが想像している以上に、わたしのことをずっと、見ていたのだと思わされる。きっと、ときに鮮やかな原色のような、針先で指をちくりと刺されるような、散歩中の犬が尻尾をふりふりしているのを眺めるような───いろんな感情を抱えながら。

「ねーちゃん、どうすんだ?」

 カウンター越し、まさかの正面から店長の援護射撃に思わず両手で顔を隠す。そりゃ、聞こえているか。ずっと聞かれていたのか。店長に催促されて、とっくに答えは決まっていたけれど、まだ口に出していなかったということを思い出す。

「じゃあ……よろしくお願いします」

 手のひらを解放してひざに乗せ、諏訪に身体を向けて頭を下げれば、こちらこそ、と諏訪がわたしの頭に片手を乗せる。顔を上げれば視線が交わって、どうしようもない恥ずかしさで表情筋が言うことをきかない。きゅっと口角を上げて、少しだけ首をかしげて、かわいらしく笑いたいのに。

「よっしゃ、ほれ、サービス!」

 そんな葛藤を切り裂くように、店長の腕が伸びてきて、平たいお皿に整列している餃子がテーブルに置かれる。ふわふわと立ち昇る湯気が忘れかけていた食欲を呼び起こした。

「うっそぉ、ありがとうございます!」

 鼻と口の前で小さく拍手をしながら、お礼を述べている隣の恋人に顔を向ける。よかったな、と諏訪がわたしに向かって目を細めるので、自然に笑みがこぼれて笑い方を思い出す。かわいいがつくれているかどうかは別として。

「ごめん店長、もしかしてラーメン出すの待っててくれた?」
「んなこたぁ気にすんな」

 わたしが常連だってことは気を利かせて黙っててくれたんだろう。いつも深夜にちょっとばかし派手なワンピースでめかしこんでラーメンと餃子とビールを平らげる女が連れてきた男は、ただの悪友だと思われてもおかしくないのに。

「いただきまーす!」

 色気がない、にんにくたっぷりの餃子と、これから待っているラーメン。恋人とのこの先は、少なくとも今日はおあずけの方向でいきたい。