4杯目
ダブルのバーボンにご注意
ゼミの教授が受け持っている基礎演習のクラスで配るというレジュメのために、なぜかわたしが借り出され輪転機をまわしていたところ、黒地に緑の線が三本入っている缶を手にしている諏訪に会った。ここは学部棟の奥まった場所だし、数枚のプリントアウトならパソコンルームで行うので、こんなところで諏訪と会うとは微塵も想定していなかった。
「最近いっつもそれ持ってない?」
諏訪とこうしてばったり遭遇することはそうあることではないので、いつも、というのはおもにゼミの講義室内でのことだった。
エナジードリンク、クラブで酒と割ったやつしか飲んだことないけど、なかなかおいしいからすきだ。すぐ酔えるし。けど、
「満身創痍。春休みとかぜってーねーわ」
単品で昼間に飲んでる人間は、おもに睡魔とかと戦っている。わたしがこうして教授のパシリをしてるくらい、大学生活自体はもうそんなに忙しいはずもないし───諏訪が単位を落としまくっているなら話は別だがそれはなさそう───ボーダーでのあれやこれが大変なのだろう。まだ冬休みもきていないのに、すでに春休みがなさそうとは。ご愁傷さま、と手を合わせる。
「酒をくれ」
残りをあおった諏訪が、空になった缶をゴミ箱に放る。
あら、これは今晩ないしこれから一杯ひっかけませんかアピールか。ガシャンガシャンと複製されてゆくレジュメのテキストに視線を落としてから、ふたたび上げる。
「じゃあ、スナック行かない?」
誘いの文言の違和感に気がついて、「いや、来ない?」と訂正した。怪訝そうな色をうかべた諏訪にてへ、と首をかしげてみる。
もっと付け足すべきことばがあるのはわかっているが、彼の察する能力の高さに引き取ってもらうこととする。
「……バイトしてるってことか?」
「そう、今日バイトなんだ」
なるほどなあ、同伴とかアフターでいい店知ってるし、手相占いもネタになればと思って仕込んだってわけか、とわたしと接して得た情報と水商売とをつなぎあわせたらしかった。なんと物わかりのよいことか。まあ、占いは個人的にもきらいではないんだけどね。
ジョニデにはアルバイト先を聞かれたときに、英語でスナックってなんていうかわからなくて、バーだよ。って答えたら来てくれたのだった。もっとこいつに英語を叩き込まなければなるまい、と誓っただろうな。
「ってことで、どう?」
「ひとりはさすがに……じゃ、3人で行くわ」
「そりゃ、ママがよろこぶわ!」
きらびやかに着飾った自分の姿を諏訪にみてもらいたいわけではない。そもそも、うちのスナックはとても小さいし、キャバクラのように衣装が用意されていたり、髪の毛をやってくれる人なんていないので、結婚式に着ていく程度のワンピースに、ふだんよりちょっと濃いめのメイクをしているだけだ。
あんまりへんな期待をされてもな、とは思ったので、カラオケがついてる飲み屋みたいなもんだし気楽にね! と笑って、しずかになった輪転機のトレイの紙の束をつかんだ。
地下一階。ドアを開けてすぐ、正面奥のステージとスタンドモニターが目に入る。その左にカラオケ機材、右はなんかデカめの花瓶にいつも華やかなものがささってる。
出入り口右にレジカウンター、左にお手洗い。段差をあがると、左にずらっとカウンターが七席あって、天井からひとつカラオケの歌詞が表示されるモニターがつるされている。たまに、野球中継とかワールドカップ、格闘技をみることもある。
右側に棚があってその裏はクローク。その先、ステージ前に左右わかれてテーブルが二卓ずつ。カラオケはステージに上がって歌うスタイルで、座ったまま歌おうとするとママと、たまに現れるマスターに怒られる。
21時前にわたしが出勤してきたときにはすでにべろべろだった、今日はじめて来店したというカウンター席に座っていたスーツ姿のお客さま───60手前かな───に連行され、ステージでド定番曲をデュエット中、ドアが開いてちりんとベルが鳴った。
諏訪と、いち、にい、さん、───あれ、4人だ。みんな飲んだ後らしく、声が大きい。
ちょうどよく歌い終わって、チーフがカウンターから手を鳴らし、ママは若い4人のコートを預かって、テーブル席に案内している。足元のおぼつかないお客さまの背中を軽く支えながら、カウンター席に連れ帰る。すれちがいざま、「いらっしゃいませ」と、すでにソファに腰掛けていた諏訪に声をかけた。
「で、どれ?」
お客さまを椅子に座らせてからカウンターに入って、グラスに水道水をそそいでいたところ、メニュー、おしぼり、コースター、お箸、箸置きをトレイにてきぱきと載せながらママがとなりでささやく。あの4人のうちのだれを狙っているのかと聞きたいのだろう。
「いやあ、どれとかないんですよ」
あったら連れて来なくないですか、と言おうとして、それじゃあ水商売をしているこの世の女たちを見下げ、わたし自身も引け目を感じていることになってしまうので、口をとじた。
さきほどのデュエット曲にかけてダブルのウイスキーをいただきながら、ついにテーブルに突っ伏したお客さまが「帰る」というのだけを待った。この時間ならタクシーもわりとすぐ来てくれるだろう。
カウンターの上のモニターにうつるイメージ画像をぼんやりながめていたら、画面が切り替わって古い曲のタイトルが出た。あら、彼らはこんなのも知ってるのね。
「帰る」。聞こえたことばに、カウンター横の子機を取ってタクシー会社の電話番号に設定されているボタンを押して、カウンターから出てママにお会計の準備を頼んだ。
「風間は知ってるよな? この筋肉がレイジ、丸いのが雷蔵」
いつもはついていたお客さまを外まで見送りに出るのだが、チーフとママが代わりに行ってくれた。寄りかかられたりしたらいやでしょ、ということだった。こういうところ、このお店はとてもしっかりしているのだ。わたしが過剰にボディタッチや言葉でのセクハラを受けていると、かならずママかチーフかマスターがストップに入ってくれる。だいたいのものはわたしもかわせるし、そういう仕事だとは思っているけど、それでもスタッフにやさしいお店であることはうれしいことだった。
開いたドアから寒い寒い、と戻って来たママとチーフのほかに、ひとり常連さんがくっついていて、ママとチーフはカウンターについた。
さて、今ステージ上でひとり振り付けもしながら昔の男性アイドルの曲を熱唱している風間くんは何度か諏訪といっしょに一般教養の講義で話したことがあった。レイジくんは諏訪といるところを見かけたことがあるし、大きいのでとてもよく目立つ。雷蔵くんというのは、ボーダーで働いている同い年なのだそうだ。
「意外だわあ」
そういうわけで、少なからず関わりのあった風間くんの豹変ぶりにはおどろきを隠せない。それに、みんなよく昔の曲を知っている。諏訪はいつものメンバーのカラオケだとRIP SLYMEばかり歌っているんだけど、この流れだと諏訪も精通しているのだろう。意外、という発言に込めたそのふたつの意味を目の前に座る雷蔵くんに伝えれば、
「上の人と飲みに行くことも、ないことはないからね」
「なるほどお」
風間くんの件はまるっと無視されたが、まあいいだろう。拍手とともに目も顔も真っ赤な───瞳は通常どおりか──の風間くんが、わたしの右となりに座るレイジくんの膝にダイブした。固そうだけど、大丈夫かね。
「どうよ、水商売をしちゃうような女は?」
「べつに」
「べつに、って、なによお」
お誕生日席でわたしの左ななめ前に座る諏訪に問いかければ、なんとも興味なさそうな返事がある。つっこんでから、あ、ちょっとわたしウイスキー飲みすぎたなと、間延びした語尾を自覚した。
レイジくんが風間くんを持ち上げて、雷蔵くんのとなりに戻している。
「負い目も感じちゃいねーだろーが」
「……諏訪は意外と女の子の純度に重きを置くほうかと思って」
「おまえの俺へのイメージはどーなってんだ」
純度ってなんだよ、と諏訪に頭を叩かれながら、わたしも、わたし自身になんだよ、と言いたかった。なんだよ。
「おい、すわ、はやく飲め」
雷蔵くんの膝を横断して風間くんがビール瓶をつかんで傾ける。こぼされるのは面倒だ。さっとわたしは手元のあいたグラスを下にのばす。おまえが飲むのか、と風間くんが口元をゆるませるので、はーい、とグラスを持っていないほうの手をあげた。
「こいつ、いつもはすぐ寝るんだ。だから計算外だったんだよ」
いまさら3人が4人になった理由など、どうでもよかった。ことばが少し、足らなかったな。そりゃ、女友だちには潔白さなど求めないだろうけど、じゃあ付き合う女の子にはどうなんですかと、わたしは聞くべきだったらしい。そもそも、それを確かめてみたくてここに呼んでみたんだろう。
もうすぐ冬休み。そしてすぐに春休み。しばらく諏訪は忙しいと言っていたっけな。当分会えないだろう、さみしいなあ。
そう言う代わりにテーブルに置いてある灰皿を諏訪のほうへ押しやる。諏訪がポケットに手をつっこんだのをみて、わたしもハンカチにくるんでいたライターをつかむけど、なんとなく、火をつけるのは断られるような気がした。