3杯目

上喜元で上機嫌

 多少騒がしい場所のほうが落ち着く質のわたしはラウンジでレポートを書く。だけど、今日はやるぞ、っていう日に限ってやたらと友人知人に遭遇したりするものなのだ。レポートを進めたいのに、みんなともお喋りしたい。結果、会話しながらキーボードを叩くことになり、友人と別れ画面を改めてみれば、「なにこれ?」となってまた書き直す。もう何年同じことをくりかえせば、自宅や図書館でそれを行うようになるのかわからないが、この調子ではその瞬間は訪れそうにもなかった。もはやリライトまでが定型なのだ。あと一年と少し、やり遂げたいと思う。

 とうに街灯がついた大学の駐輪場で愛車のチェーンロックをはずし、肩にかける。ポケットの中からライトを取り出してハンドルにくっつける。壁にもたれかけていたクロスバイクを起こして正門を向けば、少し屈んで同じような作業をしているであろう、数時間前にも近くで見た金髪頭が目に入った。ちょうど灯りにきれいに照らされていたから、その顔もわかったので挨拶がてらベルを弾いた。甲高い音に振り返り、わたしを認識した諏訪は片手を上げるのでこちらから寄っていく。

「めずらしい。まだいたの?」
「今日はレポート漬けだ」

 どうやら同じことをちがう場所でしていたらしい。諏訪は、ひとりでなら図書館でやってそうだよな。
 そのままおたがいにパッパッと点灯と消灯をくりかえすライトを装備したクロスバイクにはまたがらず、一緒に押しながら歩きはじめる。
 四限目のゼミが終わってから、諏訪はそのままボーダーに向かうのが常だった。ゼミのある曜日は固定シフトになっているらしく、今日もさっさと教室を出て行ったので、とっくに大学にはいないのだと思っていた。思っていたというより、諏訪の存在があるとかないとか、なにも考えてもいなかった。
 そんなわけで、いつもそうしているかのように歩きはじめたが、ゼミ終わりに一緒に帰るというのははじめてのことだった。

「諏訪、実家だったっけ」
「おー。おまえもだよな」
「そうだよ。箱入り娘ちゃんです」
「どの口が」

 せっかく自転車があるのに、乗らなくていいのかな。
 諏訪は忙しいだろうからと、個人的にどこかへ誘ったことはなかった。みんなを誘う流れで、みんなのなかにいる諏訪に声をかけるのはよかったけど、ふたりでとか、考えられなかった。そもそもふたりでどうこう、というまでの仲ではないのは置いておいても、自分のためによくわからない時間を使わすのは悪いような気もしていたのだ。

「帰ってからもレポートやるの?」
「もう勘弁」

 だから、そういう展開になったのはこないだのふたりで二次会しようぜ事件がはじめてだった。
 結局、あれは未遂で終わったけど。
 お会計が終わって外でみんながぐだぐだしているところを抜け出そうと試みたけど、失敗に終わった。取り立てて仲よくもないわたしと諏訪。付き合っていないわたしと諏訪。やましいことはないけれど、じゃあ自然にふたりでその場から離れられますか? というと、それは難しかったのだ。なにをどうやっても不自然な気がしてならなかった。べつに、みんな酔っ払いだし気にしなかったかもしれないけど。だからこそ合コンをいい感じになって飛び出しちゃうふたり感が拭えなくて、どうやってその場を離れればいいか悩んでいるうちに、いつものようにカラオケにいた。

「……飲み行くか?」

 諏訪と顔を見合わせて苦笑いした、あの日のリベンジを提案するなら今かもしれない。
 そんな考えは、どうやらわたしだけのものではなかったらしかった。帰り道に偶然会って、夜だし飲みに行く。これは超ナチュラルにちがいない。わたしは四、五回ベルを鳴らして賛同の意を示した。






「あまい日本酒は色が濃いんだよね」
「黄色っぽいよな」

 前回行きそびれたとき、頭のなかで候補にあげていたお店のうちのひとつ、カウンター席で厨房が囲まれた赤提灯系のお店に入った。席と厨房のあいだにはたくさんの日本酒が並んでいるということを、わたしは覚えていた。今日はなんとなく日本酒が飲みたい気分だった。
 当初の予定どおり一、二杯生を飲んでから、日本酒に切り替えた。手書きのメニュー表の数値と店員さんのおすすめを聞きながら飲み比べに励む段階に入っている。

 かばんからポーチを取り出して、口紅だけぬりなおした。箱とライターを取り出すために開け放たれたまま、となりのイスの上に放置された諏訪のバックパックから、文庫本がのぞいている。
 煙草、と一言つぶやいて、諏訪は店外に出て行った。店内は無理でも、外に灰皿が置いてあったということも、わたしは喫煙者ではないけれど記憶していた。気遣いできる女だとほめていただきたい。べつに、息するように思い当たっただけだから、なんの労力も使っていないけど。
 バックパックがカウンターの陰のフックに戻されるのをながめながら、

「おかえり」

 待っているあいだにもらったお冷を差し出すと、諏訪はひと口ふた口飲んだ。

「本、読む人なんだっけ」

 なんやかんや三年の付き合いになるのに、諏訪のことをぜんぜん知らないのだなと思う。それは嘆き悲しむようなことではなく、むしろこれから知る時間がまだ残されているのであれば、少なからずうれしいことのように感じる。
 お猪口から今度は辛口の日本酒を飲み込む。やっぱり日本酒は辛口に限るな。

「まあ。なんか最近読んだか?」
「……占いの本」
「は?」
「手相占いの本を読んだ」

 そういう本じゃねーよ、と小説を読む人には呆れられそうだが、ありのままの事実を伝えた。大学の参考書を除けば、ついおととい、本屋で立ち読みした有名な手相占いの先生の本が直近で開いた本であった。

「ちゃんと学べたかよ」

 真正面に突き出された諏訪の左の手のひらを凝視する。男の人の手を取ることはあっても、こうして内側をまじまじと見るというのはそうあることではない。

「生命線が短いですね」

 見たまま、所感を述べれば手のひらが顔に水平移動してきた。

「ぶへっ」
「んな線くらいは俺も知っとるわ」

 両の手で顔面との距離をとれば、さきほど付け足した口紅が諏訪の手のひらで笑っている。もっとこう、日本酒をちびちび嗜むように、女の子のことは丁寧に繊細に扱ってほしいわ。
 片手でおしぼりをとって、赤をこするだけでうんともすんとも言わないわたしの手を、今度は諏訪がつかんで諏訪の太ももの上に乗せた。

「これが生命線だろ?」

 諏訪の人差し指が、わたしの手のひらに刻まれている線を撫ぜて、ぺちぺちと何度か叩く。自分の体温と諏訪のそれが重なって、一気にふきだす汗の量が増えたようだった。

「バカ、違うよ。それは頭脳線」
「バカとはなんだ、バカとは」
「ちなみに、諏訪は頭脳線も短い」
「だれがバカだ」
「だれも短いとバカとは言ってないでーす!」

 今度は諏訪の手がわたしの頭にのびてきて、まるで犬にそうするかのようにかきまわす。だから、雑なんだってば。
 なんかもっと、いろんな線を覚えたはずなのに、今日はもう思い出せそうになかった。たぐり寄せきれない記憶や手の熱さも頬の赤さも、どうかお酒のせいにさせてほしい。