2杯目
レモンサワーでかき消して
大学一年生の英語のクラス、わたしは、わたしたちは、頭を抱えた。イギリス人の男の先生は、ジョニーデップに似ているけど、めちゃくちゃ厳しかった。にこりともしないし、一切の日本語を禁じられた。当然ジョニデも一切日本語を喋らなかった。だいたい語学の単位というのは、和気あいあいと、それなりにしていればもらえるものなのに、ジョニデは違った。スパルタだった。わたしも諏訪も、英語はできない分類にぶち込まれるだろう。でも、ジョニデはわたしと諏訪のことを気に入っていた。みんなのことは名前呼び捨てなのに、わたしのことはちゃん付けにしたり、諏訪のことはなぜかSUWAと呼んでいた。そう呼びたくなる気持ちもわからなくはない。諏訪と浅からぬ関係にあるわれわれのなかでも、諏訪のことを下の名前で呼ぶ人間はいないから。
英語ができる賢い子は、ほかにたくさんいたのだ。なぜだろうかと友人に問えば、あんたはなんか、そういう人種なのよ。ということだった。問題児ほどかわいいもんなんじゃない? と笑われたが、それほど問題も起こせないくらい、わたしは見所のない学生であった。
ただ、諏訪が気に入られる理由は明白だった。諏訪は任務でそこそこ欠席もしていたけど、出来は差し引いても課題を遅れてもちゃんと提出していた。それに、用意周到だった。プレゼンは、つくるだけじゃなくて、想定質問まで検討して、こたえを準備していたのには驚いた。グループワークも、英語が得意な子が突っ走るのをフォローしながら、よく発言していたものだ。そういう、多忙なのにちゃんとするところが、気に入ったのだろう。
いっぽうわたしは、わからん、知らん、けど、かもね、と、ひどい有様であった。それをみて、ジョニデは鼻で笑っていた。
ちなみにわたしは二年生のクラスもジョニデに受け持たれ、ついにはわたしのアルバイト先に奥さんとあそびに来てくれた。ジョニデの笑顔を、そこではじめてみた。奥さんは日本人だったので、なんでそんなに気に入ってくれているのか? とジョニデに調子よく聞けるほどの英語力がなく諦めていたわたしは、奥さんを通して聞いてみることにした。ジョニデは横に座る通訳を介さず「わからない」と、眉をひそめた。「でも、みていて、楽しい子。そのままでいてね」。ジョニデが日本語を流暢に喋ることよりも、そのことばがうれしくて、わたしは二回うなずいた。
そんな、部外者たちに哀れみの目を向けられるクラスだったので、三年生になっても一年生のときのこの英語のクラスの一部メンバーで飲みに行くことがいまだにある。それはめずらしいことだった。それもこれも、みな、死に物狂いでがんばった時間を共有したからだった。というわけで、今日はその戦友たちとのひさしぶりの飲み会である。
しかし、本日諏訪は不参加だ。メッセージアプリの出欠表によれば、欠席に名が連なっていた。正直、なんだ、残念。とは思った。でも、酒と友人はわたしを呼ぶし、わたしに行かないという選択肢はない。諏訪の不在はわたしの飲酒欲とは関係がないのだ。
壁ではなく、男の側面を背もたれにして、座る人がいない端っこの座布団の位置まで足を伸ばす。横向きのなんともお行儀の悪い体勢で、今日は早々に切り替えたレモンサワーの入ったグラスに手を伸ばした。
この背もたれになっている男はわたしの元カレである。恋愛がはじまるのもまた、苦楽を共にしたからである。ただ、そのことをとくに英語のメンバーに知らせたことはなかった。
一年生の冬から付き合って、二年生の夏休み前には別れていた。実家暮らしのわたしにとって一人暮らしの元カレは都合よかったし、とくにでかい喧嘩もなにもしなかったし、嫌いになったとかでもなかったけど、恋愛というのはそういうもんなのだ。あと腐れなくさくっと別れたわたしたちは、また手軽な関係をはじめようと思えば、その準備はすでにすんでいるといえる。その証拠に、わたしをこの体勢にしたのは彼であるし、わたしはそれを拒まなかった。
ぐるり、と元カレに向き直って、アルコールのせいにでもして抱きついてみようか。そうすれば、今日の二軒目は決まっちゃうね。
さて、と片手を畳についたとき、「諏訪〜お疲れ〜」。聞こえた不在のはずの人物を呼ぶ声に、座敷の出入り口を目線だけ動かして確認する。あら、いらっしゃったではないか。
抱きつく代わりに、来ないのではなかったのか? と、背中を離して元カレに問えば、昼ぐらいにやっぱ遅れていくわって連絡入ってたぞ、とのこと。ああ、わたしはグループの通知はオフにしてるんだった。
木板のシューズボックスの鍵と自転車の鍵を片手に、諏訪は立ったまま喋っている。身軽だなあ。ポケットにスマホと財布と煙草が入ってるのかな。ボーダー終わりかな。考えているだけで声を出していなかったわたしと、空席を俯瞰している諏訪と目線がかちあう。あ、という口をつくる間もなく諏訪は奥までやって来て、
「あっ、ちょっと!」
わたしがひとくち飲んだばかりのレモンサワーを空いていた手で掴みあげると、一気に飲み干した。
「飲み会の最初の一杯を人さまの飲みかけで消費してしまうなんて、なにごとだ!」
「薄くね?」
アルコール入ってんのかよ。
そう不満げに言ってわたしの横に突っ立ったままの諏訪は、おまえのその二枚陣取っている座布団を一枚寄越せということらしい。なんとめずらしいことだろう。はじめから、ではないけど、それでもいつもより長く、諏訪がとなりにいるかもしれない。
そう思えばうれしくて、酔っ払っているふりを押し通してその腕を思いっきりひいた。もちろん、わたしと元カレのあいだに座ってもらうつもりで。
諏訪は、知っていたのかもしれないな、とふと思った。隠せていると思っているのは当事者たちだけだというのは、よくある話だ。べつに、隠していたわけではなかったし、ここにいる全員が知っていることだったとしても、とくに気にしないけど。
「すいませーん! 生、ふたつ!」
とりあえず、通路を通る店員に向かって諏訪と自分のために声を張り上げた。そんな話をするにはまだ、ちょっとお酒が足らないのだ。