Case.2 Notes

 

1


 大学一年生後期初日。は駐輪場に愛車の真っ白なルイガノを停めた。ストッパーを蹴ると、スポーツサンダルの爪先から出ている塗りたてのイエローのネイルが親指の先だけ剥がれていることに気がついて、わかりやすく気持ちが萎えた。
 前期後半の駐輪場より混雑していて、そういえば入学したころもこんな感じだったか、と思い出す。心機一転、怠惰な生活を改めようとスタートを切った学生たちとの持久走がはじまるわけだ。じわじわと確実に脱落していく様子が経験から想像できた。
「休み明けから一限はきちぃな」
 こん、と頭上に固いものが当たって、すぐに離れた。なんだ、とが振り返って確認するより先に、ネイビーブルーの扇子をぱたぱたとあおいでいる三白眼の男が隣を歩いている。
「……うわ、諏訪洸太郎、ずいぶんとこんがり焼けたね?」
 赤くなっているとか、皮が剥けているとかいうわけではなかったが、二段階くらい肌色がぐっと濃くなった印象だった。きれいに焼けられてうらやましい、とは思った。
「ひたすらボーダー活動に勤しんでたはずなんだが、一回海行ってキャンプ行ったら完全に夏満喫した様相になっちまった」
「それ、日焼け分はじゅーぶんに満喫してるよ」
 この二か月弱のの生活を改めて振り返って比較するまでもない。諏訪の活動は間違いなく夏を楽しんでいた。
「ってか、ボーダーの人なんだ。それじゃあ、三年からはトリ研に入るわけだね」
 三門市立大学には〝トリガー研究室〟なるゼミがある。トリガー研究室に所属しているのは九割九分、ボーダー隊員らしい。半自動的に隊員がねじこまれるのだろう、一応理系のゼミに分類されるが学部を問わないそうだ。「トリ研をつくるのを条件にボーダーが大学再建にかなり貢献した」という噂は否定できない。
「融通効くゼミなんざ、そんくれーしかねーんだろうな」
 途切れない学生の波が自動ドアを閉じさせない。じんわりと流れてくる冷気に誘われるように、と諏訪は学部棟に足を踏み入れる。
「これからなんの講義?」
「ミクロ経済学入門」
「いっしょだ。念のため確認だけど、諏訪洸太郎はいちばん前の席陣取るタイプ?」
「任務でたいてい滑り込みか遅れて入ることになっから、前のほうしか空いてねーっていう不可抗力により、そういうタイプではある」
「なるほど。あ、誰かと約束してる?」
「破る可能性の高い約束をわざわざする趣味はねーんだよなあ」
「あー、出席カード何枚も書かされるの地味にうざいよね。ま、おたがいさまなんだけどさ」
 階段で三階まで上がり、大講義室のスライドドアを引く。ぞろぞろと背後に学生が連なっていて、そのドアがすぐに閉められることはなかった。
 さっ、とは真ん中後ろから二列目に目ざとく空席を見つけて、ずんずんと歩みを進める。諏訪も黙ってそれに続いていた。
 どちらも「ではいっしょに講義を受けましょう」と、提案こそしなかったが、沈黙は肯定と同義である。
 ふたりはまったく長い付き合いではないし、連絡先こそ二か月前の一件で交換していたが休みのあいだにやりとりをすることもなく、今のところ同じ学部であること以外に共通項などを見出したこともなかったが、並びたって行動することにはもはや違和感を覚えなかった。ひとつのことを共同で行うと、望まざるとも信頼関係が構築されているものなのかもしれない。
 椅子の背もたれにリュックを引っかけて、ペンケースを取り出す。髪を結った男性TAの大学院生がすでにテーブルに並べていたレジュメを見て、ははたと思い出した。
「こないだのテスト前にさ、友だち三人とその友だち数人で講義ノート買い集めたんだよね」
「でた、講義ノート。一年で手ぇ出したら終わりだろ」
 諏訪はカメムシやゴキブリでも見たかのように眉をひそめた。
「愚かである自覚はあるよ。ちょっとお金を得ながら講義受けてる人たちの爪の垢は、今すぐ煎じて飲みたい。……いや、比喩表現なのは重々承知だけど、やっぱヤダ」
 東門を出てすぐ、簡素な二階建ての建物がある。そこで売られているのが講義ノートだ。
 講義の内容が、その講義に出席していた学生の手でまとめられていて一講義千円以下で購入でき、不真面目な学生たちがこぞって買い漁る。書き手側の観点でいえば、二単位取得できる科目をひとつ担当するとだいたい一万円くらい稼ぐことができる。
「般教の内容なんて毎年そんなに変わるもんでもないでしょ? だからわたしがいくつか保管しておいて、来年本家より安めに売り捌くことにしたんだよね。それで整理してたんだけど、見てこれ」
 はポケットから引っ張り出した端末をいじってから、テーブルに載せて諏訪のほうへと押しやった。
「……爪。肌白いし、よく似合うな」
 諏訪は眼下の端末に添えられているの手元について感想を述べた。フットネイルと揃いのイエローはよく映えるのだ。
「えっ。……それは、どうも」
 こちらの色は剥がれていなくてよかったな、とは安堵し、同時に、細部をチェックされること──とりわけ異性に──への気恥ずかしさを覚えた。
「……いや、ありがとうなんだけど、今見てほしいのはそこじゃないのはおわかりですよね」
 はこれみよがしに端末をテーブルに擦り付けるように揺さぶって不満をあらわした。
「褒めたんだから怒んなよ」
「怒ってない。わりとシンプルに照れてるの」
 そう言ってぷく、と頬を膨らませたの素直な感情表現に今度は諏訪がコメントに窮したところで、講義開始のチャイムが鳴った。は声をひそめて、
「ここの部分、右端だけ読んでみてよ」

=公共的討議の場へ提起する一助
特徴付け
理論をサーベイして

 さて、気を取り直して。
 講義に集中してもらいたいところだが、が画面に表示させていたのは、講義ノートの内容を撮影した写真だった。
「……おー、『助けて』ねえ。『て』の終わり方が若干強引な気もすっけど」
 諏訪はぐっと伸びをしてから、
「偶然だろ」
 つーか、縦読みって左の頭読むのがふつーじゃね? と、あくびをひとつした。
「偶然だと思うじゃん? こっちは、『おどされてる』になってるんだよね」
「同じ筆跡、か」
 一枚目は『行動経済学』のノート、そして切り替えられた画面には『簿記入門』のノートが映し出されている。筆跡からして、男の書いた文字のように見えた。は端末を引き戻して、ふたたびポケットに仕舞う。
「ほんとうにおどされてて助けてほしいって言うなら、そうしてあげたいところだよ」
「いたずらだろ」
「でも、いたずらじゃなかったら?」
 は正義感が特別強いタイプではない。小学生のころの掃除時間も、中学生のころの合唱コンクールも、「ちょっと男子! 真面目にやってよ!」と癇癪を起こしたことはないし、友人らの喧嘩に首を突っ込んだり、引ったくりの男を追いかけたりしたこともない。
「だれかに助けてほしいって素直に言えなかったこと、ない?」
 それでも、ここ数年を三門市で生きた子どもたち──大学一年生もまだ子どもだ──は、大なり小なり、なにかを堪えて生活していた。
 当然、それは子どもに限らない。みんながみんなつらかった。今も引きずっている人間だってわんさかいるだろう。だから、みんなつらいと、助けて、と言えない。結果的に三門市近郊の精神科は儲かった。その先生だって、言いたかったかもしれない。つらい、助けて、と。
、二限は?」
 諏訪は質問に答えない代わりに、質問を返した。
「英語。今日は三限のフラ語まで」
「おっけ。んじゃ、三限終わったらラウンジな」
 くるりとシャープペンシルをまわした諏訪は、じっと板書されていくホワイトボードを捉えていた。

2


 ふたりは対象を助けることではなく、見つけるところまでをゴールと設定した。十中八九、いたずらであろう、というのがふたりの見解だった。
 それらしい殺し文句ではあったが、実際のところの気持ちは「書いた学生を見つけられたら楽しそう」という好奇心によって大半が占められていた。
 一向に発音が上達しないフランス語でクラスメイトと道を尋ねあいながら、は諏訪の自分より強い気がする正義感を悪用したことに罪悪感がわきはじめた。なにせ、ボーダーに所属している男である。各々志した理由は街の平和を守る以外にもあろうが、諏訪はどちらかといえば、彼を駆り立てるものがありその組織に入ることを選んだタイプだろう、とは考えていた。だからこそ、助けてほしい人を見捨てるのか、と暗に脅したわけだ。
 念のためラウンジ前でふたたび落ち合った諏訪にもそのことを伝えたが、諏訪も暇つぶしみたいなもんである、とさして深刻に捉えてはいないようだった。それなら、他者への配慮が過大な共感力が強すぎる女であることをアピールせずともよかったな、とは舌を出しそうだった。
 その日は講義ノート屋に出向いて、ダメ元でそれらのノートを担当した人物の名前を聞き出そうとした。ところが、テスト後、夏休み明けの講義ノート屋の需要はゼロに等しくシャッターがおろされていた。出鼻をくじかれることとなり、ひとまずほかの講義ノートを友人たちから集めよう、とネクストステップを定めて解散することとなる。
 二週間後、経済学部のほとんどすべての講義ノートを友人伝いにかき集め、ふたりはそれらをラウンジのテーブルに並べていた。
「ぱっと見、これとこれがが持ってるやつと同じ筆跡っぽいな」
 立ったままそれらを見くらべて、諏訪は『日本経済論』と『統計学』の講義ノートを指差した。ぺらぺらとさして厚くない冊子をがめくる。すぐに『助けて』『おどされてる』の組み合わせを見つけて、
「違う仕掛けとか、できないわけ?」
 は椅子を引いて気だるげに腰掛けた。
「いや、こんだけ同じ文字を探し出して違和感なく並べられんのは逆にすげーだろ」
「それはそうだけどさー。なんていうか、飽きた」
「はっや」
「二週間かけてせっせと集めただけの成果が得られた感じがしない」
 諏訪もと同じような気持ちではあった。脅されているので助けろ、なんて物騒な縦読みをこうして何講義分も連ねて、執筆者は何がしたいのやら。わかるはずもなかった。
「諏訪洸太郎は、助けてって言えなかったこと、ある?」
 ぎぃ、と椅子を引いて諏訪も腰掛ける。はもうやる気を失ったようで、机に突っ伏している。
「このご時世に男が女がっつーのはナンセンスだが、男はやっぱあんま言わねーだろ。結果全部片付いた後に愚痴として消化が多い」
「男の一般論ではなく、わたしは諏訪洸太郎の話をしてんだけど」
「諏訪洸太郎も同等とお考えいただいて差し支えございません、お嬢様」
 お嬢様て、とは顔を上げて隣の諏訪をじとりと見た。自分から書き手を探そうと言い出した挙句、飽きた、とそれを放棄する奔放さはお嬢様以外の何者でもなかった。
「……まあ、書かれてる講義ノートは必修か般教だけだから、一年生で間違いないだろうね」
 一年次に必修科目を落としまくった二年生以降である可能性は除外するに限る。
「そろそろ抜き打ちで出席カード提出させられそうじゃねえ? 集めるの手伝うか」
「ああ、筆跡鑑定的な? かなりハードル高そうだけど」
 TAに手伝いを申し出て果たしてそれを快く許可してもらえるものだろうか。何らかの違法行為を疑われそうだ。
「ミクロ経済学、TAがボーダーの知り合いなんだよな。まったく学部関係ねえはずなんだが」
「ふーん。じゃあ、ターゲットがミクロ経済学を受講してることを祈ろう」
 講義ノートをかき集めながら、は広げられた用紙に目を留めた。
「あ、これ」
 シャープペンシルやボールペンで書かれたものではない。文字としての形状は留めておらず、空の筆圧だけがうっすらとスキャンされている。
「講義中に書いてるかもね」
「よし、カード回収しながら書いてるヤツいねーかも確認だな」
 新たな作戦と手がかりを得たお嬢様は、にんまりと口角をつり上げていた。

3


「くだらない縦読みやってるの、きみ?」
 人の波の中から声をかけられた男子学生は、目を丸くした。そして、
「ま、まさか見つけてくれるなんて! 運命の人!?」
 今にも飛びかかってきそうな勢いで叫んだ。

 諏訪の知り合いだという大学院生の東さんは政治経済関係の教授と面識があり、たまにヘルプをしているらしい。出席カード集めるときは手伝います、と諏訪が理由を述べずに打診したことを、東さんは二つ返事で了承したらしい。
 かくして回収したカードから似た筆跡を絞り込んだ一週目。二週目、三週目は講義中にやたらと書き込みをしている学生を探した。四週目に再度カード回収の機会があり、前回いなかったもの、逆に今回いるものは外した。
 そうして、候補者たちの基礎演習を割り出し、関係者からの聞き込みを行ったうえで、一名の男が浮上した。

 ミクロ経済学入門の講義終わりに声をかけた男は、見事ビンゴだったというわけだ。
「やっぱいたずらだったか? ならよかった」
「きみを見つけたのは諏訪洸太郎くんだよ」
「おい、押しつけんな」
 ではでは、ごきげんよう。と、が身を翻した背に、
「ま、待ってください! 僕、ほんとうに、おどされてて」
 今度は泣き出しそうな声が発された。
 はこの捜索を楽しんだ。ただし、これ以降のことは関わり合いになりたくなかった。できれば愉快なところだけかい摘み、達成感のみを味わいたかった。
「誰に?」
「バイト先の先輩です」
「ふーん……。それじゃ!」
 は諏訪のTシャツの裾を引っ掴んで、引きずろうとしたが、そんなふたりにお構いなしに男は話を続けた。
「レジを閉めるときに、間違えてお金を持って帰ってしまって。先輩に相談したんです。そしたら、千円だとしても、窃盗は窃盗だ、って……」
 バラされたくなければなんとやら、と脅されているのだ、と男は言った。
「店長にでも話したらいいんじゃねえのか」
「でももう、半年経ってしまって……。僕、こんなんだから相談できる友だちもいなくて。ミステリー同好会には何人かいるんですが、そんな貴重な友人たちにこんなやつだなんて知られたくなくて」
「運命の人には知られていいのかよ」
 鼻で笑った諏訪の横で、はた、とはひらめいていた。
「そういうことなら、法学部の教授に知り合いがいるから、紹介してあげる」
 そうして、なんやかんやあり、男のバイト先の先輩が横領で書類送検されたのは、また別のお話。




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