Case.1 X-Bike
1
やっと低くなった太陽が長い人影をつくる。は自分の足元の影をながめて、ひとつ深く息を吸った。
ふう、と吐き出してから、踏み抜くかの如くコンクリートにニューバランスの靴底を押し付け、対象に近寄る。
「あの。それ、あなたの自転車ですか」
斜め後ろからかけられた声に男は手を止め、ゆっくりと振り返っての存在を視界に入れた。
の背後にはほかに数名の学生が自転車を押し歩いたり、自転車の持ち主の横を歩きながらお喋りに興じている。つう、とこめかみを汗が伝った。
「……そーっすけど」
三門市立大学経済学部の学部棟横の駐輪場。ブルーカラーが特徴的なビアンキのクロスバイクのサドルに手をかけていた男は、不信感を隠そうとすることなく答えた。サドルを締め直す男の汗ばんだ腕に筋が入る。
「……ああ。チャリの買い替えでも検討中っすか?」
学部棟の壁に沿って自転車とバイクが並べられている駐輪スペースは影になり薄暗く、すぐ後ろの日向道とのコントラストが美しい。ぶわ、と風が吹き抜けていき、の八対二でかき分けられていた前髪の比率を乱した。いっぽうで男のくすんだ金色の短髪は、風になびくことなく頑なに形状を保っている。
チェーンロックの鍵穴に、男がポケットから取り出したキーを差し込む。かち、と解錠された音がしては小さく息を吐いた。
「……いえ、ごめんなさい。大丈夫です」
重たいチェーンを男が肩にかける動作を確認する間もなく、は男を抜き去って駐輪場の奥へと進んでいく。
「え、ちょっと。ちょっと待った」
男はそう言ってを呼び止める。そのまま立ち止まりそうにもない立ち去り方だったが、は振り返り、人差し指をの立つ真横の壁に貼られているラミネート加工されたコピー用紙を指差した。
タイトルらしき一文目の大きな文字は目を凝らせば読めなくもなさそうだったが、男にすべてが読めるわけもなく、一瞬の躊躇いののちに男は自分の自転車を押しての横に進んだ。
「──サドルの盗難? ……ああ、あなたのが盗まれたんっすか?」
「はい。先週やられました」
は側にあった白いフレームのルイガノに視線をやって、男の目もその後を追う。
「正確に言えば、入れ替えられてて」
ぽんぽん、と二度が叩いた黒地に蛍光グリーンのラインが入ったサドルは、その色合いがどことなく違和感を醸し出していた。
とはいっても、ズタズタに切り裂かれていたり、汚れていたりするわけでもなく、いたってきれいな状態だ。
「代わりがあるだけ、いい……のか?」
「まあ、たしかに乗れるので、いいっちゃあ、いいんですけど。ほかに盗難の報告もないみたいで、オリエさんもこんな貼り紙しかしてくれないし、なんだかなあ、という感じです」
〝オリエさん〟というのは、三門市立大学の警備を任されている警備会社『オリエンタルセキュリティ株式会社』の警備員たちを指す愛称である。
貼り紙には〝一件〟であることを強調したいのか、事件発生日時とこの駐輪場の名称がご丁寧に記載されている。
せめて、ほかの駐輪場にも貼ってほしいな、とは東門に立っている長袖の警備服に身を包んだ暑苦しい初老の男に目をやった。
「で、犯人探しっすか? 直接怪しいやつに聞くなんて、危ねーことしますね」
「……ですね。どうかしてました」
この男のほかに声をかけた人間はまだいなかったが、疑いをかけられた犯人が素直に自白するものとも思えない。運よくこの男はまっとうな人間であったから助かったのだ。なにかしらの疑いの目を感じていただろうに、男はポジティブな方向に受け流そうとするコミュニケーション能力まで持ち合わせていた。ラッキーだったのだ。
は無謀なことをした、という自覚をもった。サドルがなくなってしまっていたのなら、このまま怒りに任せて犯人探しを続けたかもしれないが、それは警察の仕事である。警察や探偵の真似事はの趣味ではない。
「名前は?」
「……わたしのですか?」
「犯人の名前がわかってたら苦労しないでしょ」
あはは、とは声を出して笑った。
「一年のです。で構いません。えっと……」
「諏訪洸太郎。俺も一年。つーわけでタメ口でいいし、苗字でも名前でも呼びやすいように呼んでくれ」
「うん。時間もらっちゃってごめん。ありがとう」
「おー、気にすんな」
諏訪は片手を上げると、自分のクロスバイクに跨ってペダルを踏み込んだ。はその後ろ姿を名残惜しく追いかけることもなく、手のひらに握り込んでいた鍵を黒いチェーンロックの鍵穴に差し込んだ。
大学構内では自転車から降りて! とオリエさんがおそらく諏訪に向けて叫ぶ声が響いている。
2
四限の講義終了のチャイムが鳴ったと同時に、出入り口にいちばん近い場所を陣取っていたはすでにレジュメと筆記用具をしまっていたリュックを背負っていの一番に大講義室を飛び出した。
二階から階段を駆け降りて学生たちの憩いの場であるラウンジを通り過ぎようというところで、聞き慣れない声が自分の下の名前を呼ぶのを聞いた。ラウンジ手前の自動販売機の横から声をかけてきた人物には見覚えがあった。
「あ、えっと……。諏訪洸太郎?」
「フルネームかよ。まあ、いいけど」
競歩選手さながらに忙しなく脚を動かしていたつもりだったが、諏訪にはそうは見えなかったのかもしれない。それなりにタッパのある諏訪との脚の長さをくらべれば、歩幅が狭すぎたか。しかし、その分せかせかと動いていたのだから、よっぽど急いでいるように見えてほしいものだ。
「……そうだ。あのさ、ちょっと時間ある?」
それでもは立ち止まった。そして、諏訪にこれから時間の猶予があるのか否かを問いかけた。
「ちょっとって、どんくらいだ」
「駐輪場に行ってわたしの仮のサドルを引き抜いてから法学部まで赴いて、わたしの本物のサドルと交換するくらい」
「ちょっとじゃねーよ、それ」
たしかに、法学部の学部棟はここから軽く徒歩八分はかかる。カップラーメンがふたつも完成してしまうほどの時間だった。
諏訪は片手に持っていたコーヒーの空き缶を黙ってゴミ箱に落とした。それは、ちょっとというには長すぎる時間だが付き合ってやっても構わない、という意思表示だったのだろう。
の横に並んで歩きだした諏訪と、自動ドアをくぐる。騒々しいセミの鳴き声とともに、汗の匂いではなく、飽きるほど嗅いだことのあるメンズの香水の香りがほんのりとした。隣の諏訪のものであろうか。大衆受けはするだろうが面白みに欠ける、とは個人的な意見として思った。
「サドル、あったのか」
「たぶん。昨日の夜オリエさんからメールもらってさ。これは、法学部の教授のだったみたい。教授のにつけられてるやつはまだ実物見てないし、わたしのサドルってなんの変哲もない黒のやつだし、もはや見てもわかんないかもしれないけどね」
停めていたクロスバイクから引っこ抜いたサドルをは軽く振る。サドルを持ってほしいという合図をしたわけではなかったが、諏訪はからそれを受け取って目的地へ向かうため踵を返した。
「にしても、盗られたのって一か月くらい前の話だろ。教授、気づくの遅すぎねーか」
が諏訪に詰め寄ったあの日はもう二週間も前の話になる。来週からのテスト期間を乗り切れば、あっという間に夏季休暇だ。
「置きっぱなしにしてたんじゃないの。わたしだってできることならこんな暑い中、チャリ漕ぎたくないもん」
「そういや、あそこの駐輪場ユーザーに、とまったく同じ型のルイガノユーザーがいたな」
「別に、めずらしくもなんともないからね」
「サドル黒になってたし見つかったのかと思ったらチェーンロック違ったし、別のやつだなって」
「……そんなに目立つチェーンロックだったの?」
「あ? いや、のと同じで黒ではあったけどな」
「……こわぁい」
まさかあの数分の立ち話の間に、チェーンロックの形状を記憶していたというのだろうか。は諏訪の観察眼に尊敬よりも恐れを抱いた。しかしなんとなく、が髪の毛を切ったりリップの色を変えたりしてみたところで、それには気がつかないような気もした。根拠はない。
「心外だな。ま、すぐ違う女がその自転車取りに来たしな」
法学部の学部棟を視界に捉え、諏訪は教授の研究室の場所をに問うた。B221、とは携帯を開くでもメモを確認するでもなく誦んじる。記憶力のよさという意味では、諏訪もも似たようなものだ。
学部が異なれど学生の様子というのはたいして変わり映えするものではなく、ふたりはいつもそうしているように学生の波を掻き分けて進んだ。とはいえは他学部にひとりで乗り込むのは多少気が引けた。だからこそ、事情を知る諏訪に同伴を頼んだところがあった。
エレベーター横の案内表示によれば研究室は二階の端っこにあるようだった。階段は使用せず、ちょうど一階に停まっていたエレベーターに乗り込み、二階のフロアへ降り立つ。図面の通り、廊下をずっと進んだ突き当たりに、その研究室はあった。アポイントは十七時二十分。現在、十七時十八分。上出来だ。
スライド式のドアを三度ノックすれば、そこそこ若い男の声が入室を促す声がする。案の定、が引いたドアの先には老眼鏡をかけていない、四十代手前に見える男がデスクの前に座っていた。
両面の壁は本棚で覆われていて、真ん中に控えめな応接セットが設置されている。一年生であるも諏訪も、まだ教授の部屋というものに出入りしたことがなかったが、いかにも文系の研究室、という想像通りの景観に安堵した。
「わざわざ申し訳なかったね。たしかに、私のサドルみたいだ」
教授は立ち上がり、諏訪の手元の派手なサドルを一瞥してそう言った。革張りのソファの上に置かれていたスターバックスの紙袋を教授が取り上げ手を突っ込めば、黒のサドルが顔を覗かせた。
は自分のものであるという確証を正直なところもてなかったが、もはやその趣味ではない蛍光グリーンを手放せるのであれば構わなかった。
「よかったです。こちらこそお時間をとらせてしまって申し訳ありません。……いや、わたしたちが謝罪し合うのはおかしいですよ。被害者ですから」
「はは、それはそうだ」
教授と諏訪はそれぞれ手に持っていた件のサドルを交換した。〝LOUIS GARNEAU〟のロゴは入っている。任務完了だ。
「でも、もしかしたら私はきみに謝らないといけないかもしれない」
「……え?」
教授は手間賃代わりということだろうか、さらに袋から取り出したスターバックスのコールドカップをに差し出した。ありがとうございます、とは頭を下げてそれを受け取る。
「ふたりで来られるとは思っていなくて」
「押しかける人数が増えて申し訳ありません。私のことはお構いなく」
デスクに置かれていた飲みさしの同じ模様のカップを教授が取り上げて、ソファへの着席を手のひらで催促する。
まだ時間は大丈夫なのか、とが視線で諏訪に問いかければ、諏訪も手のひらを差し出してを促した。
「一か月も気がつかず、申し訳なかったね。ずっと教員用の駐輪場に放置していたんだ。どうしても暑くてさ、一度自分を甘やかしてバスを使ったのがよくなかった」
「お察しします。なので、その件についても謝っていただかなくて大丈夫ですよ」
会話を続けながらソファに座ったの横に、諏訪も腰を下ろした。ふたりの重みで革が深く沈み込む。
「じつは、犯人に思い当たる人間がいたんだ」
えっ、とは声を上げた。好奇心と憎悪の入り混じった音だった。
「過去形なんすね」
いっぽうで諏訪の声色はひどく冷静だった。教授はひとつ頷くと、言葉を続けた。
「懇意にしている三年生の学生がいてね、きみと同じルイガノに乗っているんだ。かわいらしいことをするもんだなあと思ったのだけど、ふと顔を上げたら、サドル盗難の貼り紙がしてあった。彼女がやったのならわざわざ警備会社に報告しないだろう? でも、彼女もきみらと同じ学部だから判断がつかなくてさ。まあ、仮にそうだったとしても呼び出せばわかることだったし、彼女には連絡しなかったんだ。そしたら、きみらが現れた。要するに、私の予想は外れていた」
のんびりとした口調のとおり、この教授はのらりくらりと日々立ち回っているのだろう。なにが〝かわいらしい〟だ、とと諏訪は毒づきたかったが、それについてリアクションをとる暇は与えられなかった。その代わり、オリエさんに全部の駐輪場に貼り紙するように、と自分が頼んだのだ、とは隣の諏訪に小声で付け足す。
「ということは、またこの入れ替えがどこかで行われる可能性があるってことですか。困ったもんですね」
あまり困惑や迷惑をしているような表情をはつくらず、ストローをくわえた。なぜなら、彼女のサドルは今日をもって返却されたからだ。とくに自分は誰かに恨みを買うようなタイプでもないと自負している。個人が標的にされているわけではないと考えていた。
「私は既婚者ではないから、学生との間になにがあろうと法的には自由だといえる。ただ、教授と学生がいっしょにいるところを見て、なにかしらの考えに至る人間もいるかもしれない」
「……知ってますよ、とアピールされたとお考えということですか」
「彼女のではなく、あの子の自転車を狙った、と仮定するなら、ね」
諏訪は眉根を寄せ、教授は感慨深そうに顎に手を添えた。横顔と正面にある顔に、が交互に視線を向ける。
「えっ、じゃあ、わたしの自転車がまた狙われるかもしれないってこと? 勘弁してほしいなあ……」
「あくまでも仮説に過ぎないし、ほんとうに無差別かもしれないけど」
「たしかに経済学部からここまでは、結構な距離っすよね。しかも、教員用の奥まった駐輪場までわざわざ足を運ぶなんて、最初から狙っていたように思えるな」
「うーん……」
はふたりの考察に置いて行かれているわけではない。しっかりと話の本筋を理解していた。だからこそ、教授ないし諏訪の次の一手を聞くのが恐ろしかった。
「でも、こんなこと警備会社の人に言うわけにはいかないだろう?」
「気になるなら、今後も盗られたくないのなら、犯人を探せ、ということですか」
「命令というより、これは心構えとして受け取ってほしいかな」
「いや、なんでわたしが巻き込まれなきゃいけないの!」
「そこだよ、私が謝罪しておきたいのは。私の周囲も探るけど、正直教員が学生用の駐輪場をうろつくのは目立つ」
「だから、やったのは学生だろう、と? まあ、教員用の駐輪場はガラガラですし、人通りも少ないっすよね」
「物分かりがよくて助かるね。もちろん私からあの子に連絡して思い当たる節がないか聞くことはできる。ただ、自意識過剰でちょっと恥ずかしいじゃないか」
は最善策として押し黙った。なにがちょっと恥ずかしいだ! と、今にも癇癪を起こし、教授を罵倒しそうだったからだ。
幸か不幸か、諏訪はと同じ自転車の持ち主の顔を見たことがあった。そして、その顔をある程度記憶しているに違いない。それが〝あの子〟である可能性はそれなりに高いと思われる。
これからの流れは、本人も気づかぬうちに前のめりになってしまっている諏訪が決めてしまうだろう。は降参だ、と言わんばかりにストローをくわえて大きく吸い込んだ。
3
作戦会議は法学部からの帰り道には終わっていた。サークルに所属していないと諏訪には三年生に知り合いはおらず、わざわざいろんなルートを伝って忍び寄るメリットも見出せず、結局はダイレクトにアタックすることを選択した。
探偵ごっこというには単純すぎるように思われたし、ごっこというには重労働である。
には、引き入れてしまったのは自分であるが、なぜ諏訪がここまで自分のトラブルに首を突っ込んでくれるのかがわからなかった。
件の女と対峙するのはさっそく翌日となった。なぜなら、諏訪がその女を見かけた曜日と時間を覚えていたからだ。仮に講義後なのであれば来週まで持ち越してしまうとテスト期間に入り、ルーティンが崩れてしまうことを危惧した。さらに相手は三年生だ。就職活動も佳境に入る。
恐ろしい。いちいち取るに足らない出来事を記憶していたら、記憶を司る脳のどこかが潰れてしまう、とは思った。それこそ来週に迫っているテスト勉強にそのキャパを充当すべきだ。
「こいつのチャリのサドルが、とある教授のサドルと入れ替えられてた。心当たり、ないっすか」
そして、水曜日の十五時前。のそれと瓜二つのルイガノを解錠しに、女は現れた。ありていに言って、きれいなお姉さんだった。諏訪が顔を覚えていたのにも頷ける。記憶力を使ってしまってもしかたがないだろう。
あまりにもうまくいきすぎていることと、諏訪の前置きのない豪速球ストレート一球勝負な質問に顔をしかめた女に、はこの後の展開が不安になった。
「わたしもルイガノユーザーなんですよね」
は場の空気を一ミリでもよくするために、
「真っ白なルイガノちゃん、かわいいですよねえ」
間延びした声で感想も述べた。
「……もしかしたら、一年生の女の子かもしれない。インスタの鍵垢に申請がきていて、すぐ取り消されてたんだけど。いろいろ、探られてたかもしれない。その子、わたしの元カレの、今の彼女だから」
あっさり身の上話をし、真犯人の候補まであげてくれた女は、口元にほほえみさえ携えていた。元カレは三年生だと、ご丁寧に情報が追加される。
「……ほんとうに〝元〟カレなんです?」
「先月にはちゃんと終わったわ。まあ、彼、同時進行はしていたと思うし、そういうわたしも、彼を責める権利はないってこと」
女の敵はいつだって女だと相場が決まっている。
その新たに登場した女の名前を聞けば、には思い当たる顔があった。駐輪場へ来る前に、ラウンジで見かけた。喋ったことといえば入学当初の自己紹介くらいなものだったが、同じ基礎演習に所属している女だ。探す手間は省けたとはいえ、すでには気まずさを感じていた。
「諏訪洸太郎はさ、彼女いるの?」
爽やかなホワイトのクロスバイクが去っていく後ろ姿を眺めながら、は諏訪に問いかけていた。
「なんだよ、いきなり。……今んとこいねーよ」
「いたことはあるよね?」
「だとして、なんなんだよ」
大袈裟なため息をこぼして、は影になっている壁に背中を預けた。
「男的にはこの痴話喧嘩について、どう思うのかな、って。まだ決まったわけじゃないけどさ」
諏訪もに倣って壁にもたれかかった。ポケットに突っ込んだ手は何かを探し当てたようだったが、すぐに何も捕らえずに引っ張り出された。
「……順序を違えず、清算して、誠実であるに越したことはねーよな」
「普通のこと言うのね。おもしろくなーい」
「今ここでおもしれーこと言うの求められてっとは思わなかったわ」
喫煙所寄っていいか、と諏訪は突き当たりに見えていた喫煙ブースを指差す。しかたがないなあ、とは重心を前に動かして歩き出した。
「トラブったことないの?」
「あー……まあ、ねえな」
「それはあったやつじゃん」
「トラブルになる前に身を引くんだよ、俺は」
「不戦敗かあ。かっこわる」
「バカ言え。クールだろうがよ」
おそらく一年生の女の子というのはわたしと基礎演が同じ子で、さっきラウンジにいた、とブースでが告げれば、さっさとケリをつけよう、と諏訪はご丁寧にロールオンの容器に入れ替えられた香水を手首に転がしながら、調査の続行を提案した。煙草の煙たさに混じって、昨日嗅いだ香りが強くした。
テスト前のラウンジは賑わっている。がやがやと騒がしいテーブルとは対照的にひっそりと静かに、廊下に面したふたり掛けの席にその女はいた。男とふたり、向かい合ってパソコンを開いている。
「人様のチャリのサドル抜いて交換するとかいう悪趣味なことやったか?」
ずかずかと遠慮なく歩み寄って単刀直入に物を申す諏訪に、はもはや何も文句を言うつもりはなかった。
問われた女は液晶から顔を上げた。そうして女は声の主である諏訪ではなく、の顔を見つけて、まばたきをぱちぱちとくり返した。
「僕がやったんだよ、諏訪くん!」
数秒の沈黙ののち、女の向かいにいた男が叫んだ。
しっかりと、間違いなく名前を呼ばれた〝諏訪くん〟をが見れば、こっちは俺の基礎演で一緒だな、と諏訪は頭をかいた。諏訪の同級生である時点でこの男は三年生ではない。
「だって、三年の先輩に嫌がらせをされたって言うから。困らせてやろうと思って! 彼氏として、当然のことだろ!」
女は驚愕のまなざしを男に向けた。
はて、あの清々しい顔をしていた先輩がわざわざ次の男がいるのに、どうでもよくなった男の次の女に構うだろうか。にはどうしても想像ができなかった。なにかしてやりたいと思うとすれば、やはりこの女のほうだろう。
ハナっから厄介だったとはいえ、ますますおかしなことになったぞ、とがちら、と諏訪に顔を向けると、
「あのさあ、誰が彼氏だって? なに勘違いしてんの?」
ぬるりと現れたスーツ姿の第二の男に、と諏訪はいよいよ一歩足を後ろに引いた。
と諏訪には、もう確認せずともわかった。これがあの女の先輩の元カレ、目の前の女の今の彼氏であろう、と。
「とにかく、人のサドル勝手に引っこ抜いて交換すんの、やめてよね! われわれからは、以上です!」
は挨拶がわりに勢いよく片腕を上げて、身を翻した。今度こそほんとうに自分が恨みを買ってしまう。勘弁してほしかった。
「ああ、もう! ほんっとーに、くだらない!」
どうせ付いてきているだろう、とは振り返ることもせず、共感だけを求めて嘆いた。