08
サイドアタッカー
人事部のあるフロアから喫煙ブースに続く廊下の途中にはどん詰まりの謎の曲がり角があり、風間はその空間にふたつの人影があるのを確認した。鼻をすする音と軽い調子の声が聞こえたので一度エレベーターの前まで後退し、ベンチに腰掛けることとした。目を赤くした訓練生の女がこちらへ向かってくる気配がしたので、抱えていたノートパソコンと書籍を横に置いて腕組みをし、目をつむった。うたた寝をしているとでも思ってくれたら上出来だろう。エレベーターが彼女を運んでいく機械音を聞いてから、風間は立ち上がりもうひとつの人影まで歩みを進めた。「泣かせるならもっと場所を選んだほうがいいのでは」
「泣かせてなーいっ」
トリオン兵と闘うと思ってたら相手が訓練とはいえ人だなんて聞いていない。人を切るのが、撃つのが、恐ろしくてたまらないがボーダーを辞めたくはないと、喫煙ブースから出てきたに告げたそうだ。あらま、と話を聞いているうちに堪らず瞳からほろほろと涙が落ちてきそうになったので咄嗟に場所を移したという。もはやあの不可解な行き止まりはそのために設計されたのではないかとすら思った。
は風間に知っている子だったかと確認したが、風間は首を横に振った。風間の目に入らないということは要するにあまり目を引く人材ではないと言って間違いないのだろう。
向こうからもそのうち人が出てくるかもしれんし、向こうは緊急脱出なんてあるかしらんし、人殺しになる可能性もあるってことよね。だとしたら、彼女に限った恐怖ではないと思うんやけど。そこまで考えがおよんでいる人がどれほどいるかは別として。とは自論を述べる。
「現時点で無理と言うなら、さっさと切ってやるのがやさしさかもしれません」
「そう急かさなくても。ボーダーにいてくれる人は多いほうがいいし、それに、辞め方によってはうちの評判落ちるし」
それに、記憶封印措置なんてできれば使いたくはないでしょう、とが腕を組む。
「戦場で足手纏いになるのは困りますけどね」
否定しか出てこない風間に苦笑しながら、は、
「人を守るというのは必ずしも前線で戦うことではないじゃん」となだめる。わたしだって戦えと背中を突き飛ばしたりしませんよ。あなたが何を求めてボーダーに入ったのかを考えてみて、よかったら今度教えてと言っといた。──ありきたりだけど。と眉を下げる。
「履歴書の動機には復讐のためとかそんな物騒なことは書いとらんかったはずやし」
「全員分、覚えているんですか」
「んなわけ。やばそうな方を覚えとるから、消去法」
けらけらと笑うはいくらかこのようなやりとりには慣れているのだろう。人材を育てるのが優秀な隊員の仕事なのであれば、人事部の仕事というのは君はいる、いらない、と箱に選別していくような足切りの采配なのかもしれない。その役割のほとんどはトリオン計測機によって行われてはいるが、トリオン量に恵まれているからといってそのすべての人材が戦闘センスがあるわけではない。それを風間はよく知っていた。そして、そうやって簡単にハシゴを外すようなことを、が嫌がっているということも、よく理解した。
「にしても風間くん、その荷物はなに」
風間が抱えるパソコンの上に積み上がる書籍の山を指差し、レポートを溜めすぎたと表情を変えずに返事をする風間には納得した。パソコンに重ねられていた書籍を一冊ずつ持ち上げながら、
「あ、これいける。手伝う? 代わりに稽古つけて。今度はふざけず、サポート的なやつ」
ひとつ該当する講義を見つけて、等価交換を提示してきた。そもそも、おまえらのデートを融通してやった対価としてこっちにも依頼しに来たんだ。それではチャラにならんと、風間は言ってやりたいのを同級生の顔を思い浮かべ我慢した。
「いいですけど、諏訪はむしろ邪魔してやったほうがいいんですよ」
「その心は」
「予め予測する、ではなくて、その場で考えて対応するほうに向いていますから。そこを鍛えるべきでしょう」
「対処療法なわけね、洸太郎は」
そういうことです、と頷く風間は間髪入れずに疑問を呈する。
「それで、さんはいつまで諏訪に付き合うんですか」
「え? いや別に、洸太郎のために出ているわけではないよ」
そのとぼけた声にうそをつけ、と風間は思う。以前より防衛任務につくことができる隊員が増えているのにあんたの実働は増えているだろう。
「狙撃手一本でやる気はないんですか」
「年齢的にもちょっとねぇ。それに、わたしランク戦したくないもん」
幹部、古株の正隊員と一部の一般職員のなかで導入が決定されている新しい制度については言及した。あの限られた人員だけが集められたミーティングの場に部長の水沼だけでなく平社員である自分も呼ばれていたということを、はどのように認識しているのだろうか。
「そうやって、何も突き詰めないつもりですか」
なぜを問い詰めたくなったのか、むきになってしまったのか、風間にはわからなかった。自分がの腕を買っているのか。もっと努力すればすぐに今後のB級にあがれるだろうと思ったのか。ふらふらしている似たもの同士のおまえがいるから諏訪は次に進めないのだとでも言いたかったのか。ずいぶんと印象が変わる理由にはなってしまうが、いずれにしてもと諏訪の今後に、自分は興味があるのだなと、風間は噛みきれないホルモンの処理に迷うような心地悪さを覚えた。
「まぁ、ちゃんと洸太郎のケツは叩いとくけどさぁ。アンタはわざわざここまで来たんでしょうが?」
そういうこと言ってたら手伝わないからね、この甘え上手の弟め。──そう不貞腐れるに、風間は素直に謝罪の言葉を述べる。あとで行くから部屋にいてくれと麻雀部屋のことを示しながら、は残っている業務を片付けに人事部へと向かって歩き出した。