07

ナースコール

プライベートのスマートフォンに表示された[諏訪洸太郎]の文字に、人事部のデスクで昼食をとろうとしていたが椅子に座りくるくると回わりながら出れば『インフルでした』と、諏訪は自身の病名を告げた。

『そういうわけで、一週間は出られません』
「いや別に、わたしに迷惑はかからないしいいんだけど」
額面通りだった。
はシフト調整をしないし、代わりにが防衛任務に出なければいけないということもなかった。朝方に諏訪から体調が悪いと一報をもらったのも、たまに連絡をとる仲なので、世間話の延長だと認識していた。それから数時間後の電話には努めて落ち着いた声を心がけた。インフルエンザだというのなら、体調が悪い程度ではなかっただろうに。熱が何度あるとか、もっと鬼気迫る感じを出してほしかったとはスマホが拾わない距離でため息をついた。

「実家に戻った?」
『いや、ばーさんがいるんで』
移したら困るということなのだろう。とりあえず寝ます、と通話を終了した諏訪にはお大事にと当たり障りのない言葉を返した。

このところ入隊希望者の数に比例して人事部の仕事量は増えていた。書類整理の人材が足りていない。そこはまだ誰にでもできる仕事ではあったので大きな問題ではなかったが、家族との面談がもっとも重たい仕事だった。こればかりは替えがきかない。というわけで忙しかったのだが、スマホの時間を確認して、は席を立った。電話は諏訪の救援依頼だと受け取ったのだ。







「白衣を希望したのだけど、寺島くんにナース服を設定されたよ」
「……俺にそんな趣味はねえとは言っとく」

モニター越しにの姿が映し出されたときには気がつかなかったが、玄関を開けた先にいたはナース服姿であったので、諏訪は朦朧とした頭でも、この人は今換装しているのだなと理解した。諏訪は陳腐なAVの登場人物にでもなった気分だった。余計に身体に障る。
は開発室に走り込み、「戦闘体はウイルスの吸収率も高くなってしまうのか」「データはあるのか」「ないなら今後のために取ってくる」と述べ、察した寺島は「そんな体張った実験しなくていいですよ」とぼやきながらも、の戦闘体の設定をいじったのだった。

「女ひとり押しかけるのもあれだから、寺島くんにも来てもらおうと思ったんやけど、万が一彼が罹っちゃったら困るでしょ」
「……さんにかかっても困る」

入っていいと諏訪は言っていないがおじゃまします、とフラットシューズのかかとを揃えては部屋にあがった。このときばかりは整理整頓のできる自分でよかったと諏訪は自分の気性に感謝した。玄関にどさりと置いた容量一杯のビニール袋からレトルトのおかゆを取り出すと、キッチンに置きっぱなしになっていた深皿にあけ電子レンジに入れた。ラップの在り処を訊く時間も惜しいらしい。それはあまりにも自然な行為で、をいちど家にあげたことがあっただろうかと諏訪は存在しない記憶を強引に引っ張ってきそうになった。

「熱とか小学生以来出してないし、わたしはいつも心配する側だから大丈夫!」
根拠のない経験談を誇らしげに話すに諏訪は、苛立った。
わざわざコンビニのレトルト食品をまとめ買いして、人事部権限で住所を勝手に調べてインターホンを鳴らしたことを、諏訪は自分でも驚くほどわかりやすくうれしく思っていた。しかしどういうつもりでのこのこと男の家にあがり込むのかと。この女にとってはよくあることなのかと。なにをされても言い訳はできないぞと。誰にでもそういうことをするのかと。そもそも似たような経験があったからこそ躊躇いなくできるのだろうと想像ができて、無性に腹が立ったのだった。実際、ひとり暮らしの大学生を経験したには、風邪をひいた学生の家にあがって看病をするということは当然あったことなのだろう。

「じゃあさ、キスしてもうつんねえ?」

だからそんな馬鹿げたセリフが口から出てきた。であれば何を言ってもうまく切り返してくれたり、はたまた乗ってくれたりすることを常々身を以て経験していたからこその甘えだった。そして、あの夜からの延長の期待。諏訪にしてみれば、どちらに転んでもよかった。できればそれは後者のほうがよかったかもしれないが、そうなった場合の自分の行動についてまで頭がまわっていないのもまた確かなことだった。

「知らん。試したことないもん」
「じゃあ、試して」
「やっぱナース、好きなんじゃん?」
それ食べたら寝なよとまだレンジがまわっているうちにはさっさとフラットシューズに足を突っ込んで扉を開け放った。諏訪の経験則は正しく、は大人な対応でするりとかわしてしまったのだった。

閉まる扉を隔て、は忙しいときでよかったとも思ったし、忙しくなければよかったかとも思った。どちらの気持ちが重たいだろうかと天秤にかけてみるにしても、立ち止まらずに本部までの移動中にすることだった。








麻雀部屋では、諏訪の快気祝いと称して飲み会が行われていた。冬島がにも当然声をかけたのだそうだが、多忙の極みだと言って金髪のポニーテイルをゆらして廊下を駆け抜けて行ったという。平日にちゃんが換装してるなんて、過労死するんじゃないか。そう言って冬島は手で顔を覆った。大丈夫だ、冬島さんよりは働いてないし、多分来る。東が肩を叩いた。


「ランク戦ねえ」
隊員が増えたので新しい制度がつくられることになったと東が缶ビール片手に話し始めたのは、それぞれ二缶は空にしたころだった。東の予言通り、遅れて扉を開けたスーツ姿のも人事部として既知のことだったのだろう、うむ、とひとつうなずいた。臨時でつくっていたチームは正式な隊として動くらしい。そうして隊ごとに競い合いながら、各々の技術を高めていくという。

「東さんはやっぱ隊、もつんだろ?」
「だな、忍田さんにも頼まれているしな」
東、二宮、加古、三輪がそろう隊なぞ、名前を並べられただけで勝てそうにもない。無双だ。
「俺もそのつもりだぞ」
ノンアルコールでこの会に参加している太刀川の発言に、は吹き出した。失礼な女である。
「いやごめん、太刀川が仕切ってるとこ想像したら」
太刀川の能力自体を疑っているのではなく、普段バカ丸出しの太刀川がせっせと指示を出す姿の滑稽さに笑っていた。
「諏訪さんは?」
注がれる視線に諏訪は頭をかいた。想定されていた質問だった。

「いや、俺はそういうのはいいわ」
「向いてっと思うけどなー」
チン、という間抜けな電子音と共に立ち上がった太刀川は、わりと本気で残念そうにそう感想を述べ、焼き上がった餅を引き取りに電子レンジの扉を開けた。



は席を立ち、換気扇の下で紫煙を燻らせる。その煙につられるように諏訪は席を立ち、
「こないだはありがとうございました」
まだお礼を言えていなかった諏訪は、ほかの人に聞かれないようにと控えめな声で伝えた。ナース服に換装していた女の噂はボーダー内には流れていなかった。問題ないというようには煙草の箱を軽く掲げて、ポケットにしまう。無事、諏訪はだれにもインフルエンザをうつすことはなく、目の前の元ナースもこのとおりぴんぴんしていた。

あの日の所要時間五分の滞在は幻覚だったのではないかと換気扇に吸い込まれていく煙をながめながら諏訪は数日前を思った。というか、夢であれ。何を血迷ってあんなことを。そうだ、あれだ、タミフルだ。タミフルの異常行動だ。
煙草をつまんでいないほうの手では出窓に置いていた缶ビールのプルタブにきれいに塗られたサーモンピンクの爪を引っ掛けようとする。諏訪は缶を奪っての代わりにプルタブを引っ張り上げた。

「わお、ありがとう。どうしたの」
「いや、きれいにネイルしとるなと思ったんすよ!」
なにそれやさしい、とは肘で諏訪の脇腹をつついてから、缶を受け取った。

「大学生とボーダーの掛け持ちも大変やろ。二年までは単位落とせないのばっかだしね」
「休日出勤しまくってる元祖二刀流に言われたくねーなー」
「風間くんに関してはちょっとレポートやってあげたりしたけど、洸太郎は頼って来ないしね」
風間のやつ、聞いてねぇぞと諏訪が恨めしそうに零し、が灰皿に灰を落とす。

「俺は、さんに会えば元気出るし、そこにいてくれるだけでいいんですよ!」
ほんとうに俺は読書が趣味なのかと疑うほどの語彙力のなさに、諏訪は辟易とする。の両頬はまだ赤くなるには足りないはずのアルコールに関係なく、赤みがにじんでいる。何か言い返そうと口をあけたは、言葉を発さない代わりにあいた口に煙草をつっこんで、ポケットから再度取り出した箱を諏訪に向けた。

「おい、なにイチャついてんだよー」
冬島の声に「うるせー、おっさん!」照れ隠しの暴言が返る。諏訪は差し出された煙草を、ひとつ抜き取った。