06

土曜日は虎も寝る

赤い目の小柄な男が腕組みをして見上げ、長身の三白眼の男が頭を下げる。その光景に大学の食堂にいた学生たちはおそろしいものを見たかのようにちらりと目線をくれては戻していた。

「風間様御代官様、お願いいたします」
「おまえは俺に九連勤しろと」
「ハイ」
何もおそろしい話をしていたわけではなかった。諏訪は風間に今週末の防衛任務のシフト変更を要求しているだけであった。

金曜日から土曜日へと日付が変わろうとしていた、もしくは変わってしまった夜、
「ご、ごめん……」
そう、何へかわからぬ謝罪をして諏訪の胸部を軽い力で押して離れたは次の瞬間には自分の手の甲を頬に押し付けていた。いつもの気怠げな声はどうした。豪快な笑い声はどうした。
「じゃあ、わたし、こっちだから……」
「お、おう、気をつけて」
ひょこひょこと路地を右折していく背中を見送って以来、の顔は見ていなかったが、月曜日の夜に[今週土曜日の試合だよ]というメッセージを受信したことに諏訪は安堵したと同時に、スケジュールを確認して頭をかいた。ここで防衛任務を理由に断ったらあのせいだと思われる。そうでないとしても、そう思われる。そんな事態は避けたかったのだ。

「カツカレー10杯で手を打とう」
「1日の対価が10日って。闇金かよ」
「3日くらいでは?」
「1日何杯食う気だよ。しかも結局倍以上じゃねーか」
風間が受け渡し口から滑らされたカツカレーの乗ったプレートを持ち上げ、続いて諏訪が生姜焼き定食を引き取る。

さんのどこがいいんだ?」
諏訪にああいう女友だちがいてもなんの違和感もないが、彼女だと紹介されたら、なんかもっといなかったか? と、風間は思うだろう。風間もまた諏訪がある程度選べる立場であることを知っていた。現に先日の学部飲みがおひらきになろうかというころ、小綺麗な女が諏訪にアプローチをしていたのを風間はよくまわらない頭でながめていた。彼女でないにしろ好きな人がいることを概ね認めていた男に自らアタックをする、その女の自信は褒めるべきだろうが風間はあまり好きではなかった。

「……さんだなんて言ってねーだろ」
「でも、そうだろう」
諏訪は答えずバックパックで場所をキープしていたふたりがけのテーブルにプレートを置いた。
「どこがいいんだ、ってことは、いいと思わねーってことだよな」
「いや? ただ、キュンキュンするぅ、みたいな関係にはほど遠そうな人だなと思っただけだ」
──そりゃ、おまえはあの顔を知らねーもんな。
耳まで真っ赤にして震える手を押し付けた小さな女を思い浮かべる。真顔で女子中高生しか似合わない擬音語を発した風間は、もうカレーをスプーンですくっていた。








野球ゲームを起動していたスマートフォンにうっすら影がかかり、諏訪は視線をあげた。待っていた顔が目の前にあって、そのまま上から下へと全身をみる。イエローのワンピースにブラックのフラットシューズを合わせた装いに、目を奪われる。

「お、球団カラーに合わせた? 似合ってます」
ありがと、とくるり一回転してみせるはいつも通りであった。
「バナナ食いたくなってきたな、って、見るなり太刀川に言われたことあるよ」
「プライベートでも太刀川と会うのか」
「休みの日にひとりで買い物してたら忍田さんから電話があって、本部で慶の課題を見てくれと。高校生の勉強の内容なんてすっかり忘れとるわと思ったけど、本部長に恩を売るのも悪くないでしょ」
スーツに着替えて行くまでもないかって、そのまま行ったんだあ。──は財布からチケットを取り出して、諏訪に手渡す。

「そういや、前に趣味聞いたとき、なんで野球観戦って言わなかったんだ?」
「……昔付き合った男がどちらかというと兎派で」
「よく付き合ったな」
「知らなかったのよ! てっきりサッカー派だと思って。顔がそうだったから」
「ンだそれ」
「だからなんか……洸太郎に野球が好きというのは憚られた」
どうして、と諏訪が問いかける前にが売店の前で一時停止する。

「俺は飲まねーけど、飲んだら?」
唐沢から譲り受けたチケットだ。万が一にでも未成年飲酒が席からバレたり映像に抜かれては困る。同じことをも考えていたのだろう。それでもにビールを勧めるのは別に、またアルコールの力を借りれば同じような状況がご提供されるのではないかと考えたからではない。飲みたそうにしていたからだ。そう、断じて違う。諏訪はだれに責められたわけでもないのに、かぶりをふった。

「あーーーーっ! さん、諏訪さんっ!」
はしゃいだ声が背後から飛びついて来てふたりは振り返った。
「えっ、佐鳥じゃん」
抱きつかんばかりのハイテンションで諏訪とのまわりを一周した佐鳥は自分も唐沢からチケットをもらったのだと事情を説明した。
「ひとりなのか?」
「すぐ嵐山さんも来ますよ! ほら!」
指差すほうを向けば、
「サッカー顔代表じゃないの」
は嵐山の顔をみて眉をひそめ、諏訪にだけ聞こえる声で揶揄った。

「お疲れさまです。さん、諏訪さん」
共通の人物から引き渡されたチケットは、案の定四人横並びの座席であることを示している。と佐鳥が客席への階段を登りはじめ、諏訪と嵐山があとに続いた。これから売り子にお金を渡す可能性は置いておいて、今のところビールを飲むことをは諦めたらしい。
「嵐山、おめー野球なんて観ンのかよ」
諏訪がの疑問を引き取り、端的に口にする。
「俺たちはさほど野球好き、というわけではないんですけどね」
「あー、半ば義務なわけね。そういえば広報部隊がどうとかってこないだミーティングで聞いたわ」
振り返っては嵐山に同情の目線を向けた。その通りですと嵐山はうなずいて、いろいろと顔を出しておく必要があるんですよと大人びた口調で自分たちの置かれている立場を説明した。

チケットと座椅子の数字を見比べて、が椅子と椅子のあいだの狭い空間を通り、よいしょと席につく。──さん、通路側じゃなくていいですか。嵐山ぁ、気がきく! けど、大丈夫、ありがとう。
「多分だけど、わたしと洸太郎は、とてもうるさいと思うよ」
「ああ、野次を、飛ばすんですね」
じゃあ諏訪さん、と嵐山が諏訪を先に促す。
「佐鳥はそんなさんも好きですよ!」
「いい子だねえ」
「でも、諏訪さんとお付き合いされているというのなら、佐鳥はおとなしく身を引きます!」
はははとは笑うでもなく、誰の顔も見ないで、誰かが答えるのを待つようにか、このまま話が流れていくようにか、手元のスマートフォンをいじっている。

「されてねーよ。さんはサッカー顔がお好みだからな」
「たしかに諏訪さんは、どちらかというと野球顔かもしれませんね」
「じゃあ、佐鳥にもチャンスがありますかね!?」
電波の悪い端末の操作をやめて、が顔をあげる。

「まあ、誰もサッカー顔が好きとは、言ってないけどねー」

あとで唐揚げとか買いに行って来てよ。お金は出すからさ。とは話題を転換し、恐縮する嵐山と対照的に手を合わせて感謝を述べる佐鳥を諏訪は体を少し後ろに倒して見守る。

私設応援団の鳴らすラッパと太鼓が場内に響いている。言葉の意味はもちろん、そもそもこの状況──諏訪が求めていた状況だとは言えない──。いろいろと整理したいことが諏訪にはあった。ただまあ、大丈夫。まだ慌てるような時間じゃない。
──あ、それはバスケか。