05
脱兎
「怖そうなのにやさしい、そのギャップが好き」諏訪が純粋な疑問から尋ねてみればそう照れた声が返ってきた。高校の校舎の屋上には諏訪とクラスメイトの女、二人きりだった。
ギャップってなんだ。ヤンキーが一途に一人の女を大切にしている、とか。ヤンキーが捨て猫を拾ってた、とか。そういうやつか。ヤンキーが更生してもてはやされるような。そもそも産まれてからずっと法を冒さず生きている人間のほうがどう転んだってエライだろ。それに俺はヤンキーじゃねぇや。
グーグル先生に言わせるとギャップは大きなズレ。差異。溝。だってよ。まず溝もなにも、対岸から対岸へぽんと渡れるわけねーのと一緒で、当然そこにはなんらかの橋がかかってたり、迂回してたどり着いたり──なにもなく飛び越えていっているわけではねーだろ。他人にはギャップに見えたと思っても、それはその人の道の続きでしかない。ここでいうところの怖いがマイナスでやさしいがプラスなのだとしても──この際俺がやさしいのかどうかは置いとくが──マイナスもプラスも俺に違いない。ほかにもたくさんの要素が人にはあるワケで。そもそも俺は怖くないと言い張りたく。そもそも怖いってなんだ。勝手に怖いとマイナス評価をしたうえでまた勝手にやさしいとプラスに転じさせた結果、その溝だとか橋だとか迂回路を知らず好きだと言われても、どう受け入れてよいのやら。
──云々。
そんなことを聞き手のリアクションやアドバイスをとくに期待せず喋りつづけていた制服姿の諏訪を、だだっ広い座敷で烏龍茶を口に含んでいた木崎は思い出していた。学部飲みの場で、諏訪は恰好の肴となっている真っ只中であった。
「諏訪くんって彼女いるの?」
「いねーよ」
「そーなのー?」
「女とどこに行けばいいのかもさっぱりわからん」
「ははっ ウケる」
「映画でいいじゃん。喋んなくてすむし」
「映画は観るつってたけど、って、いや、喋りたくて誘うんだろ?」
「はいはいはい、好きな人はいるわけね!」
「そうなのか、諏訪。聞いていないぞ」
「あーあーあー、うるせー! 風間も絶妙なタイミングでトイレから帰ってくんなよ!」
諏訪はあれこ持論を並べこそすれ、もちろん何もしていないのに餌を目前に出されればこれといって諏訪には拒絶する必要もなく、高校の同級生たちの言葉を借りれば、諏訪は女に困ることはなかった。そんな来るもの拒まず、去る者追わずを具現化したようだった男が、だれかを追いかけようとしている事実に、木崎は目を丸くした。
酒のせいか話のせいか、顔を赤くしている諏訪は煙草をふかしていたが、木崎にはその相手にとんと見当がつかなかった。
正隊員候補の中高生の親や親族との面談が朝から晩まで続き、八センチヒールをスリッパに履き替える休息時間を得られなかったは痛む外反母趾に、こういうときこそ戦闘体になりたいと素人っぽく考えていた。別に帰り道くらい換装してもバチ当たらんくね? まだ帰る気配のない上司の水沼を盗み見る。
全社員数の一割くらいが人事部の人員数の基準だとネットに書いてあった。ボーダーという機関には五名である。内、非正規雇用二名。機密情報を扱わない業務をやってくれている。どこまでを社員と仮定すればいいのか不明だが、非正隊員や一般職員を合わせれば人事部の人員は一割には足らない。
とはいえ隊員を育てるのは隊員だから人材育成はほぼ管轄外。正隊員昇格後の人員配置もおもに忍田・東ライン任せ。応募書類をさばいたり、採用試験、親御さんと面談、非正隊員のフォロー、設備や備品管理、他部署とのあれやこれ、がメインの仕事だ。おそらく、楽なほうなのではないだろうか。AI化されてしまいそうな業務も多い。そもそも採用試験なんてほぼトリオン量計測器の仕事だ。でも、これから隊員希望者もますます増えるだろう、というより、増えていただかなくては困る。じつは結構忙しくなるんじゃないか? 人雇う気ある? 一般職って定時退社できるのは幻だった?
はレザーのトートバッグに荷物を詰め込み、お疲れさまです。よい週末を、と席を立つ。──下に降りるまでのあいだ脱いでもよくね? パンプスを脱いで拾い上げ、タイムカードを切った。
「……まさかそれで帰るつもり?」
「あ、響子」
自動ドアを開けた先には防衛隊員である同い年の沢村が立っていた。私服姿なところをみると、沢村もこれから帰路につくようだった。
「飲み行かない?」
「よーっしゃー! 足の痛みも吹っ飛んだわ」
「じゃあ靴履いてよね」
人差し指と中指にかけていたパンプスを砲丸投げのごとく投げ捨てたかったが、軽蔑の眼差しを向ける沢村とともに居酒屋の暖簾をくぐるためにも、控えめに床に転がした。
と沢村はボーダーで出会い、自然と距離感を詰めた。どちらもベタベタとつるむような付き合いを好まないタイプではあるが、大学時代に出くわしていればおそらく近づくことはなかっただろう。ボーダーという共通項のなかで、おたがいがどのような役割をもち、周囲からどのような評価を得ているのかを理解し、好意的にみているからこそ関係をもつことができるのだ。
「こないだついに、友だちの結婚式行ったわー」
「ああ、東くんも行ったというやつね」
噂自体もおもしろかったけど、ガサツなちゃんが東さんと……? って、みんな戸惑っていたのが愉快だったと沢村はスマートフォンをいじりながら歩道を歩く。ならなんでそんな噂が成り立ったのかしらねえと、さして興味なさそうな声が乗用車の走行音と重なった。
「これからさぁ、学生時代から付き合ってる人たちは結婚するでしょ。で、付き合ってない人たちはだいたい会社で出会った人たちと結婚するでしょ。じゃ、わたしは?」
「さぁ」
「売れ残りになるのよ。この職場には出会いがない」
赤信号で立ち止まったついでには縁石を蹴った。愛に年齢は関係ないとはいうものの、上を見りゃワーカホリックなおっさんたち、下を見りゃ中高生である。圧倒的な同世代不足にが嘆くのも無理はなかった。
「そんなに結婚したい?」
「さすがに今はまだ遊べたらいいかとは思うけど、今いなきゃ、したいときにできなくない?」
「まあね。それこそ東くんはほんとうにどうなのよ」
出たよ東さん! と、は大げさに天を仰ぐ。
「30までに結婚してなかったら貰ってくれるって」
3LDKで同居するんだぁ。そんな約束してる人、あと3人くらいいるけど。──信号の色が切り替わり、ふたりのヒールの音が鳴る。
「あーあ、だれか精子だけでも提供してくれ。三門市は補助たくさん出るから子どものひとりくらい、わたしだけでも育てられるはずだ!」
「まだ飲んでもないのにやめてくれる?」
煙草の煙を払うように沢村は眉間にしわを寄せ顔の前で手をゆらす。数分後にはビールジョッキを鳴らすのだ、もうにとっては飲んでいるのと同じだった。目指す暖簾はもう目と鼻の先。
「あら、風間くんだ」
ガラス窓から店内の見知った顔に先に先に気が付いたのは沢村だった。言われてが汗でずれていたメガネを定位置に引き上げてから確認すれば風間がちょうど靴を脱いで座敷にあがるところだった。窓際の座敷席がスモークのかかった窓からでも、大人数で埋められているのがわかる。十中八九、大学生の集まりだろう。
「場所変えよ。未成年飲酒を見て見ぬふりしたと咎められたくないし」
「諏訪くんに飲ませてるくせに」
「共犯者があとふたりいるからいいの」
あそこにしよう、イケメンのバーテンがいるとこ。──くるりと進行方向を変えたに、少し遅れて沢村が続く。
「てか、諏訪くんは?」
「なにがー?」
「恋愛対象として! 最近、防衛任務被んないと思ってたら諏訪くんに合わせてるんでしょ」
沢村が足を早めて横につく。街灯や看板の明かりと高低のついた声がぎらぎらと客を呼んでいる。世界的にみても特殊でまれな被害をうけ、急速な復興を遂げた三門市の繁華街は、その過去を覆い隠すかのようににぎやかだ。
「大学生……年下……未成年……結婚……」
「子どもつくれればいいっつてたじゃん」
先刻払いのけられたはずの話題が予想以上にはやめの再放送となり、が笑い声とともに手を数度打つ。顔は結構タイプだから、遺伝子としてはありがたいかも。身長も高いし。──まんざらでもないのか、むしろ恋愛対象外だからこその軽口なのか、沢村には判別する材料が少なすぎた。
「アンタたち似てるし」
「ねー、それ東さんにも言われたことあるんだけど」
「だるいなって、全然だるそうじゃなくて笑顔で言うとこ。ちゃんといろいろ考えてて、結局なんでもやっちゃうようなとこが似てる」
「うーん、ちなみにそれは褒めてる?」
「めっちゃ褒めてる」
正面から歩いてくるキャッチの男がと沢村を割って入ろうとするのを、ふたりはそれぞれの片足をナチュラルに男の前に出し、引っ掛けて阻止した。
せっかく別の店で飲んだというのに。
「さん?」
背後から最近よく聞いている声で名前を呼ばれてしまったは、振り返りながらひとまず自分がパンプスを脱いで外を歩いていなかったことに安堵した。あと三分遅かったら、耐えきれずにストッキングを破きながら歩いていた可能性大。さすがにそんなところは年上として見られたくはない。
「わー、洸太郎じゃーん。なにしてたのー」
白々しい。風間が大学の集まりで飲んでいると仮定した時点で、あの居酒屋には諏訪や玉狛の木崎あたりがいることは想定内だった。
同じ方向へ歩いていたふたりは必然的に一緒に家までの道をたどることになる。おたがい飲んでいたことは街灯の光に照らされている上気した頬が示していたが、言葉を交わして確認がとられた。
「今度、映画観に行かね?」
馬鹿の一つ覚えのように諏訪はを誘ったが、には当然諏訪の数時間前のやりとりなどは想像つくわけがなく、飲み会以外に誘われるのは久方ぶりだな、と思った。唐突な誘いをアルコールは目立たなくする。
「観たいものがあれば、っスけど」
トートバッグからスマートフォンを取り出したは映画アプリを起動させて上映中の映画一覧をぼやける視界で確認した。眠たいのと、液晶の光で目がしょぼしょぼとした。
「うーん、微妙なラインナップ」
暗雲が流れる。諏訪の目的は映画を観に行くことではないとしても、次の一手が諏訪にはなかったのだ。
「じゃあさ、野球観に行かない?」
その雲を割ったのはだった。その幸運に、
「野球?」
諏訪はうまく反応することができずに、聞き取れていた単語を復唱した。
「唐沢さんにチケットもらったの。ラグビーの関係で繋がりがあるとかで」
バーでふと財布に入れていたその存在を思い出し、は沢村に声をかけたが予定があるとあっさり振られていた。バーらしくなくビールを数杯あおった景観ぶち壊しの女ふたりを迷惑がることなく、その後XYZをせっせとつくってくれたイケメンのバーテンを誘う手もあったのだが、彼はあいにく既婚者であった。野球観戦だけで不倫と言われることはないだろうが、そんなリスクを取るつもりは毛頭なかった。
「ちなみに、どこ対どこ?」
「虎対兎」
「ちなみにさんはどっちかのファン?」
「……虎」
「じゃ、行きます!」
「マジでー、やったー!」
諏訪の返答に満足したは不安定なヒールで縁石に登り、球団歌のサビを手拍子をつけて歌い出す。閑静な住宅街には当然よく響く声だった。酔っ払いは自分の声量が調整できない。諏訪もそれを静止させることはなく、合いの手を入れた。
「ばーさんが虎党でよ。じーさんがそうだったらしく、よく観に連れてかれてたんだ」
「うちは父親が。あー、よかった」
「スポーツ業界も、今後資金源になんのかな」
「なったらいいなー、福利厚生にシーズンシートとか最高じゃん!」
上機嫌で飛び跳ねるように細い石の上を歩くと、歩道を歩く諏訪をヘッドライトが放射線状に伸び、照らした。タイヤが道路をこする音が建物に反響する。
「あっぶね!」
の横を通過する乗用車との距離はじゅうぶんにあったが、さらに離れようとしたがあ、と思ったときには縁石から片足が離れ、歩道側によろめいた。ぶわ、と走り抜けたあとの風がの髪をなびかせて頬を叩く。
──顔が燃えるように熱く、お腹と、背中がぬくかった。
咄嗟に伸びた諏訪の手で腕を引かれ、すっぽりと抱きとめられたその状況を理解するのに数秒かかり、そして理解してもなお、その腕から抜け出すことをはしなかった。はやすぎる鼓動は足を踏み外したことに驚いたからだけではなかった。夜にのまれた気の迷いは長くはなかったが、諏訪の片手が迂闊にの眼鏡の肢にひっかかった髪の毛をやさしく耳にかけなおし、後頭部を二度三度となでてしまうにはじゅうぶんな時間だった。