学園から上級生へは仕事が依頼されることがある。それは個人で請けることもあれば複数人でひとつをこなすこともあった。しかし、誰がどれだけどんな仕事をしているのか、それぞれ知る術は基本的にはない。守秘義務があるのだ。
 加えて三郎に関しては、学園を通さず独自に請けている仕事があった。ちなみに学園はそのルートを認めてはいないのだが、今晩の三郎はそちらの案件だった。
 染み付いた鉄錆の臭いは夏の入り口の湿っぽい夜風に晒したところで消えはしない。
 本来、半刻は巻けたはずだった。しかし、どこかから紛れ込んできた野犬の遠吠えによってリズムが狂った。
 その音にみなの意識が集中することは一見都合のよいことのようにも思えるが、その場の全員の意識がひとつの音に向くのだから、その分、想定しえない動きも発生する。いくらか気を使う項目が増えたことにより、案件に対してタイパ・コスパは悪かったといえた。
「月がきれいだな」
 うまくいかなかったわけではない。タスク自体は問題なく完了した。しかし、それはほんの思いつきだった。夜の帳が忍術学園を包む頃、三郎はくのいち長屋の屋根を渡っていた。
 一人部屋で布団を敷き、机の上で筆を走らせていたは池に打ち上げられている鯉を見るかのような目で三郎を見上げた。
「……出ていないでしょう」
「ああ、そうだったか」
 信じられない、といった表情をつくってからは視線を伏せた。今日は雨こそ降らなかったが終日曇天だったのだ。
 三郎は畳のヘリを踏み越えると、戸の横の壁に背中を預けた。
 男子禁制のくのいち長屋、とりわけ自室まで足を運ばれたことには驚かなかった。は三郎の気配を感じ取っていたということだ。つまり三郎は完璧に気配を消すことをしなかった。
「食堂の裏の茗荷が食べ頃らしい。食堂のおばちゃんと兵助が、絶対に明日の朝食の豆腐に添えると張り切っていた」
 そんな話をしたくてわざわざ来たわけでもないのだろうが、その程度の話を必要とされているのだろうとは静かに察して顔を上げる。
「きっと茄子も出るよ。おばちゃんに茄子の辛子味噌和えをリクエストしている」
「辛子味噌か。下級生には苦手なやつも多いんじゃないか」
「抜かりなく味噌だけバージョンもつくってくれるそうですよ」
「お前は辛党だよな」
「まあね。でも甘いものも好きだよ」
「そうか」
「うん」
「そうだな。よく団子を食っている」
「三郎も好きだよね」
「ああ。また麓にも食べに行こう」
「そうだね」
 そう言って口を閉ざした二人の代わりに、さらさらと風が葉を揺らす音が沈黙を埋めた。
 どちらからともなくふたたび口を開こうとしたところで、二部屋離れた二人部屋からくすくすと押し殺した笑い声が聞こえて、と三郎は顔を見合わせる。
「……明日の朝が楽しみだ」
「うん。寝坊しないように」
 三郎はひらりと片手を掲げて背を向けた。

 今夜はなにも起こらなかったことが問題だった。
 三郎が張っていた武士が落馬した。目的地には向かわずそのまま城に蜻蛉返りで担ぎ込まれ、三郎が想定していた場所には現れなかった。ここで手に入れられるはずだった情報がないことで、計画は瓦解。ない袖は振れない。
「これから風呂場に行こうと思っていたのに」
 風呂桶を小脇に抱えて髪を掻き上げながらは言った。
「行ってくればいい。待っている」
 は明らかに困惑の色を出した。
 それは部屋の主不在で待たれる不気味さ、わざわざ来たなら話くらいしてやりたいという思いやり、そもそもなんでなんの前触れもなく不法侵入してくる同期にそんな思いやりを見せてやらねばならないのかという苛立ちのそのすべてが渦巻いていた。
「待っててどうするの」
「どうもしないをするさ」
「そんなの自分の部屋でしたらいいじゃない」
「部屋には雷蔵がいるだろう」
「ここにはわたしがいるでしょう」
「だからいいんだろう」
「だから、わたしはこれから風呂場に行くんだって」
「ああ。だから行ってこいと言っている」
 わけがわからない、とは肩をすくめた。
「蛇でも持ってきてあげようか」
「断る」
 そういえば近頃は蛇を傍らに置くことが少ないなと三郎は思った。は特定の生物を武器としないし、以前からかならずいつもそばに置いているというわけでもなかったが。
「まあとにかく行ってくるけど。静かにしているのよ」
「任せとけ」
 ごろんと座布団の上に寝転んだ三郎はまるで陽当たりのよい場所を強奪した猫のようだった。夜だが。
 絶対に寝ないでよね、とは念を押したが、が湯気をまといながら風呂場から戻ったときには、その部屋は座布団にいくばくかの温もりのみを残し、もぬけの殻だった。

 鉢屋三郎は忍術学園の五年生である。
 その情報だけを見ると、そのあたりの忍者より能力的に劣るのではないかと思われるのは仕方のないことだろう。なにせ、学んでいる途中の身なのだから。この場では生涯人は学び続けるべきだという話は置いておく。
 もちろん、鉢屋一族について多少なりとも知識があれば諜報活動等、期待する声のほうが大きくなるだろう。しかし、忍術学園の「生徒」に仕事を依頼するレベルの人間が、ましてやそんな学園の存在を知らぬ人間が、それを知っていることは多くないのだ。鉢屋三郎という存在は便利屋くらいの認識である。
 そもそも「忍術学園の生徒です」と名乗って三郎が仕事をとることはあまりないのだが(鉢屋姓を馬鹿正直に名乗ることも滅多にないのだが)、つまり「割安で仕事を請け負うと言ってくる若い男」というのが三郎の要素のすべてなわけで、依頼主が三郎のことを完全に信用していなかった。
 その結果、他所の忍びも一人雇っていて、それが三流であり、三郎はその忍びと連携をとることはおろか制御もできず、それが引き起こす自身の仕事への実害を避ける行動を追加で目立たぬように行う必要があった。
 そして、今宵も三郎はの部屋を訪れていた。
 は扉の前に突っ立っている三郎を見やると
「破けてる」
 と指をさした。
 指の動きに視線を合わせた三郎は自身の左袖を見た。の指摘のとおりに一本ぴっと線が短く入っている。
「たいしたことないさ」
「どうせ雷蔵に縫わせるんでしょう」
 手先は器用なはずだが、三郎は裁縫をしたがらないことをは知っていた。
「貸して」
 断る理由も三郎にはなく、上着を脱ぐとに差し出した。
 肩衣から出ている腕には昨日今日でついたような生々しい傷はなく、は三郎に悟られないように心の内で安堵の息をついた。箪笥から針と糸と鋏を取り出しているを横目に、大人しく座布団に腰を下ろした三郎もひとつ長い息を吐いた。
 糸をよって蟻ほど小さな穴に通す。三郎の皮膚ではなく布に針が刺さったのだが、それでも三郎は針が肌に刺さる感覚がするようだった。
「母が」
 ちくちくと淀みなく縫い進めてゆくの手元を見ながら三郎は言葉を切った。
「こうしているところを見るのが好きだったんだ」
 は耳を疑った。この五年間で三郎の口からいわゆる身内の話を聞いたのははじめてだったのだ。時を重ねるにしたがって文字通り皆が鉢屋一族について知ったが、一族のことを三郎は話さなかった。
「さすがにこの年で母の面影を見られるのはうれしくないかも」
 その衝撃を凌ぐかもしれない居心地の悪さをは指摘することにした。
「大丈夫だ。雷蔵を見ているときにも同じように思っている」
「それもどうなのよ」
 はいおしまい、と手早く糸を結んで切るとは上着を三郎に向かって放り投げた。流れるようにそれを掴んだ三郎はさっとその場を立ち去った。礼の一つや二つ行ったらどうなの、とは思わないこともなかったが、三郎に頼まれたわけではないことを思い出して余った糸を針から抜いた。

 三郎はその夜、町の名主の囲い者の元にいた。なんのことはない、ていのよい商人を演ずる三郎の情報源の一つだった。
「ずいぶん安い女の香りをさせているのね」
 布団の端で髪をときながら振り返ったは眉をひそめた。
 練香が媚びるように香っている。本来、ほんのり香る程度のものが移ってここまで届いている時点でお察しだった。
「お、嫉妬か」
「気に入らない香りなだけ。香りの先は見ていない」
 三郎はそのまままで距離を詰め、おもむろに片手を伸ばした。は避ける間もなく、中腰になった三郎の指先が頬に触れる。
「嘘を言え。たったいま〝女の〟香りと言っただろう」
 は三郎の手を払う。つれないな、と三郎はつまらなさそうに笑って立ち直した。
 いい意味なのか悪い意味なのかはわからない。浮ついていてとにかく、通常通りではない。そんな状態の男を相手にするのは骨が折れる。
「私にとってしても気に入らない女だったさ」
 三郎はそう言うとの髪を指先ですいた。
「そう。残念だったわね。お相手のほうは三郎のことを随分と気に入っているようだけど。過剰に香りを焚いたようだし」
「女の趣味は把握したうえで面を作っているからな」
「三郎に惚れているのは顔のせいだけではないと思うけど」
「なんだ、私の性格がいいと褒めてくれるわけか」
「私の……? ニーズに合わせてカスタムした性格が、でしょう」
「よくわかってる。あの女も満足そうだった」
「で、その女から必要なことは聞き出せたわけ」
「これが外れさ。まあ大外れということもないが、ちょっと方向性が違ったな」
「欠伸が出る」
 そう言って実際には欠伸をした。
「じゃあ、わたしは眠るから」
「なんだ、寝るのか」
 はもう言葉を返さなかった。
 こんな露骨な匂いを学園に持ち帰ることも気に留めないなんて、余裕がないのかもしれない。それともなにか、なんらかのへの当てつけなのかもしれない。それなら圧倒的に後者であってほしい、と薄っすら漂う甘い香りを避けるように布団を頭まで被りながらは思った。
 
 富松作兵衛が蚕小屋にいるを所在なさげに訪ねてきたのは、その日最後の授業が終わった後だった。
「どうしたの作兵衛、そんなに青い顔をして。もしかして、お願いしていた虫取り網の修繕がうまくいかなかった? 気にしなくていいのよ、替え時だったから」
 ぶんぶんと首を振ってから
「それは、しっかりできましたよ!」
 作兵衛は力強く答えた。
「さすがね、ありがとう。それじゃあ、どうしたの」
 作兵衛は押し黙る。は無理に催促することなく桑の葉をかき集めている。
「ぼくが考えすぎなのかもしれません……」
「いいよ、話してみて」
「近頃、鉢屋先輩の道具を修理する機会がとても多いんです」
「うん」
 には思い当たる節がありすぎて作兵衛が話す続きを聞くのが恐ろしかった。
 三郎が学園を通じての仕事以外も行っているのだろうなということをは察していた。おそらく五年の全員が。三郎がいかに優秀な忍たまだとして、明らかに案件量が違うと見えた。
 そして三郎にとってイレギュラーが発生したときは、の部屋を訪れるものと思われた。この見解については雷蔵とも一致していた。毎晩決まった仕事の時間があるわけではないが、戻ったときに不機嫌であることはないそうだ。は、自分の部屋を訪れる三郎が不機嫌であることを知っていた。そして、出て行ったあとに機嫌が直っているであろうことも。
「厳密に言うと、ぼくではなく食満先輩が修理をしているんです。普段ならぼくにも経験としてやれと言うところなんですが、鉢屋先輩のものだけはやらせてくれないんです。それって、絶対に変なことはできないからではないですか。失敗できないのではないですか。ぼくでは心許ないから任せられないのだと思うんです」
 用具委員会委員長の食満留三郎の名が出て、はその先を察した。
「最初、鉢屋先輩はご自分で修理されていたんです。でも、食満先輩がそれを取り上げて、一緒にするようになって……アイツは意外と雑なところがある、とか言っていました。鉢屋先輩は近頃得意な武器以外も試されているようですから、整備にも慣れていないものがあるようです」
 これは留三郎が悪いな、とは思った。留三郎は作兵衛の推察能力を侮っていた。心配性であるということは、一つの事柄から複数の道を模索することができるということなのだ。そしてそれが正解を導き出すこともある。
「話してくれてありがとう」
「竹谷先輩にお話をしようかとも思ったのですが、きっと、先輩の言うことのほうが、鉢屋先輩は聞くのではないかと考えました」
 あれは誰の指図も受けないのよ、と作兵衛に言うことは憚られた。代わりにはにこりと笑顔をつくって頷く。
「鉢屋先輩に、危ないことはやめてほしいと言って欲しいのです」
 まだ作兵衛には完全にはわからない。危険だからといってそれが避ける理由にはならないということが。これがもし、「学園案件外の仕事を」と言っているのなら、作兵衛は本当に悲しいほど察する能力に長けている。
「三郎にとって必要なことなんだと思うから、わたしには止められないよ。でも、そうやって心を配ってくれている作兵衛に気がつかないのはどうかと思うなあ。三郎の代わりに、ありがとうと言わせてね」
先輩、でも……」
 食い下がる作兵衛の頭巾には右手を添える。
「わたしもちゃんと三郎のことを見ていることにする。ありがとう、作兵衛」

 名画に描かれてもいいほどの月明かりが池を照らしていた。それは実際にそういった風景なのか、三郎の心持ちがそうさせているのかは怪しいところではあったが、それは三郎にとって大した問題ではなかった。今夜はスムーズに事が運んだのだという事実こそが何よりも大事であった。
「今夜こそ夜這いなの」
 は驚いた、と目を丸くして三郎を見上げた。足音をはじめとする三郎から発されるものに棘はなく、は戸を開けられるまで三郎の存在に気がついていなかった。
「それは、いままで期待していたってことか」
「……まさか」
 鼻歌を歌い口笛でも吹きはじめそうな三郎の様子に、はいますぐ自分の部屋から逃げ出したくなっていた。
「三郎」
 三郎を制するようには名前を呼んだが
「なんだ」
 と意に介さず、ずかずかと部屋に入る。
 三郎より早く何かを言わなくてはいけない。
 は正座を解いて座布団に片手をつくと、立ち上がり三郎と入れ違いに戸の前に立った。
「今夜は――来ないほうがよかったんじゃないの」
 月明かりがの背後からさしている。顔は影になりの表情は読めなかったが、十分だった。
 三郎にとって忍務の「終わり」の合図は報告書を書き上げることでも、銭を受け取ることでもなくなっていたのだ。

 カコン、と鹿威が音を立てる。鹿威は農業などに被害を与える鳥獣を威嚇し追い払うために設けられる装置だ。それが三郎のことを威嚇しているわけではないのだが、直属の教師ではない土井半助の部屋へ呼び出された三郎にとってその音はあまり心地のよいものには聴こえなかったようだった。
「ご用件はなんでしょう」
 口を開いた三郎の声にはあからさまに棘があった。机に向かい入室してきた三郎に背を向けていた半助はそっと筆を置いて、来客にゆっくりと向き直って静かに微笑んだ。同室の山田伝蔵は留守のようだった。
「そこに座りなさい」
 引き戸を開けた手も戻さず、そのまま突っ立っている三郎に半助は右手の手のひらを座布団に向け促す。三郎は何も言わずに大人しくその通りにした。
「単刀直入に言うが、君のやっていることはとても危険だ。今すぐ手を引くことを薦める」
 なあんだ、その話ですかとでも言いたげに三郎は天を仰いだ。そして数秒後、半助の視線をしっかりと受け止める。
「私がヘマをするとでもお思いなんですか」
「もうほとんどしているだろう」
 三郎は舌打ちをしそうになって、舌を噛んだ。
 一度、三郎は背後にいた追手の存在を数秒、見失った。忍術学園の手前までその存在を撒くことができず、ずいぶんと苦労した。おそらくその日のことだろう。
 あの日のことを三郎はよく覚えていた。苛立ちを押し殺した帰り道、にあれを話すのだこれを話すのだと余計なことを考えていて疎かになったのだ。血の匂いがひどいまま部屋に行って、に相当怒られた。追い返されはしなかったが。
 そうやって、三郎は思うようにいかなかった些細な苛立ちが発生した場合、それを昇華するため、の元を訪れるようになっていた。
 とはいえ「うまくいった日」にくのいち長屋を訪れてしまってからは、それをに指摘されてからは、もう部屋には行っていなかった。なにせ、夜這いにきたと思われるくらい上機嫌だったらしいのだから。
「私が君の能力を評価しているにしろ、していないにしろ、君はまだ忍術学園の生徒だ。実習以外の活動は認められない」
「自主練みたいなものです。知識ばかりあっても実践に活かせないならそれは全く価値がない。兵助なんか特にもったいないことをしている」
 三郎は同学年の博学な男子の名前を出すと大げさにため息を吐いてみせた。
 もともと半助もそう簡単に聞き入れて貰えるとは思っていなかったようで、もういいよ、と三郎に退出を許可する。それじゃあ、と気だるそうに正座を解いて立ち上がった三郎の背中に
「何かがあれば、君だけでは拭えないんだからな」
 と半助は言い放った。
 三郎は半助に背を向けたまま右手を挨拶代わりに挙げた。ピシャリ、と閉められた戸に、半助は三郎に負けないくらい盛大に息を吐いた。
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