「記憶がない」
 は半ば投げやりに呟いた。三郎は道場へ、は図書室へと向かっていた。青々と生い茂った葉に太陽が照り付けていて反射光が眩しい。
 三郎が詳細の説明を促すとは抱えていた書籍を一段階強く締めた。
 五年生に上がる直前、同期全員戦場に出たこと、罠を仕掛けている最中に敵と出会してしまったこと、焙烙火矢を敵の目くらましと狼煙の代わり投げた後に三郎がやって来たこと。それら一連覚えているが、焙烙火矢から三郎の到着までのあいだ、自分が敵を殺したであろう瞬間の記憶がすっかり残っていないのだ、とは言う。たしかに、三郎はそれを手にかけてはいなかった。
 その後にも何度か行われた実践で殺めたであろう回数分、その部分の記憶が抜けているらしい。
「最初は必死だったからな、なんてあまり深く考えていなかったけど」
 話をする間中、はじっと抱えている何十冊も積み重なった書籍を見つめながらただ前に進んでいた。
「わたしに殺される人は誰にも最期を見届けてもらえないなんて、そんな悲しいことはないね。それがせめてもの罪滅ぼしなのだとばかり思っていたから」
 そう言い終わると、三郎の相槌も返答も提案も感想も聞かず、は辿り着いてた図書室に入ってしまった。
 三郎は図書室の扉をじとりと睨みつけて、低く唸るとそのまま目的地へと向かうことにした。いまの三郎にのためにできることというのは、さっぱり思いつかなかったからだ。

 学園近郊の山道で、追手を撒けていなかったことに気がついたのは勘右衛門だった。
 八左ヱ門と雷蔵、勘右衛門。そしてと三郎と兵助の二班に分かれて行動していた。三郎たちは八左ヱ門からの信号で片方の危機を知る。一、二人。
 兵助が投げた手裏剣を合図に八左ヱ門が飛び出した。微塵を振るい敵の足を止める。このあたりは忍たまに分があった。雷蔵が勝手知った地形をたてに追い詰める先を三郎が塞ぐ。 勘右衛門が万力鎖で敵の武器を絡め取り、戦況を完全に掌握した。
 その傍らで、はもう一人のほうを仕留めるため死角から入り込んだ。をフリーにすることが、五年生で行う忍務においては重要だった。
 音はなく、風すらもない。の足元にはすでに物言わぬ骸がごろりと転がっている。
 育てた蚕の繭に毒を含ませてつくった強固な糸がの手元にはあった。倒れた敵の首からはこれまた糸のように細い血が噴き出していて、はそれを虚ろな目で見つめていた。
 ――三郎。
 瞬間、三郎は暗闇の中を掻き分けるように自分の名前が聞こえた。
 しかし、三郎はその声の主に駆け寄ることなどできない。目の前に敵を置いていたからだ。代わりに、の側にいた雷蔵がその肩をさっと引き寄せるのを視界の端に捉えていた。
 ――は、私の名を呼んだのに!
 三郎は言いようのない怒りを覚えた。言いかけた言葉は、三郎が眼前の敵の懐に入って喉を掻き切った飛沫により霧散した。

「七つのときだよ。は山道の入り口で山賊に襲われたことがある。僕はその直後のを見つけた最初の人間だ」
 忍術学園に帰還し、風呂場で血を洗い流し、学園長庵で六人並んで詰めの甘さを詰られ、自室に戻って布団を敷いた頃、やっと雷蔵が口を開いた。
「気がついたときには動いていたんだ。ごめんね、三郎」
「……なにも謝ることはないさ」
「あんな顔をしておいてよく言うよ」
 意味もなく布団の皺を伸ばしながら三郎は雷蔵に尋ねた。
「湯呑みが割れる音に敏感だったこともそれに関係しているのか」
 うん、と雷蔵は頷く。
 茶屋と湯呑みがセットである必要はなく、学園の食堂で湯呑みが割れた時にも同じような反応が見られたことがあった。
「襲われた時に持っていたからね。お使いの帰りだったんだよ。もちろん、僕が見た時には割れていたってわけなんだけど」
「無事だったのか」
「なにをもってして無事と言うのかわからないけど。はみなまで僕に話したわけじゃないんだ。いま考えれば、状況的には物取りというよりは……」
 雷蔵は言い淀んだ。三郎もわざわざ口に出して確認したいとも思わなかった。
「その山賊は、僕がを見つけた時には死んでた。殺したのは毒蛇だよ。御伽話みたいな本当の話」
 が飼育していたわけではないんだから本当に偶然さ、と雷蔵は付け足した。
「それからだ、の僕を見る目が変わったのは。は僕のことを目印みたいに思っていたはずだ。何か、そういった過去のせいで戸惑うことがあったとき、僕を見ればいったん大丈夫になる、というふうになった。それでいうと、蛇もそうかもね。まあそれこそいまは、僕をきっかけにするのは誰かさんのせいで厳しいようだけど」
 雷蔵なのに三郎であることはの精神安定に悪い影響を与えていたということだ。
「合点がいくな」
 一拍おいて、雷蔵が重い口を開いた。
「三郎。君はどう思う。は忍びとして生きていけるのかな」
「生きていけるさ。雷蔵も見ているだろう。適性は十分すぎるほどある」
 三郎の声は冷ややかだった。だからといってのことを慮っていないわけではない。本人の素質を活かせる生き方を選べる人間はそう多くはないのだから。
「でも、それじゃあ……」
 雷蔵は一度言葉を切った。
「それは、幸せなことなのかな」
「幸せ?」
 雷蔵の問いに、三郎は鼻で笑った。三郎は立ち上がり、扉を開けて夜気を取り込む。
「心が壊れる前に心が閉じて、かつ仕事は完璧に遂行する。そんな生存本能は救いようがないほど忍び向きだろ。向き不向きでいうのなら、雷蔵はの心配より、自分の心配をしたほうがいいな」
 ざあざあと風の流れに乗って葉が擦れる音が部屋の中を駆け回る。くるりと一枚の葉が三郎の鼻先を舞った。
「……三郎はさ、が見つけてほしくないときも見つけに行くだろう」
 雷蔵は三郎の嫌味には取り合わず、布団に身を委ねながら言った。
「そういう強引さが僕にも必要だったのかもしれないね」

 くのいち長屋の一室に忍び込んだ三郎は、そこにの姿がないことを見て理解した。ああ、どこかに消えてしまった、と三郎が認識した瞬間、長屋の屋根に意識が飛んだ。
「なんだ、また三郎か」
 屋根の上でぷらぷらと両脚をぶら下げて座っていたは三郎の影をみとめてそう言った。
「そんなに嫌そうにしなくたっていいだろう」
「嫌というわけではないけど面白みには欠けると思った」
「そこにいないはずの人間を演じるのが私の役目だ。だからこそ、ないものがあればすぐにわかる」
 有無を言わさず三郎はの隣に腰を下ろす。の膝の上にはずんぐりとした蛇が静かに乗っていた。
「やっぱり覚えていないみたい」
 は自嘲気味に言うと自分の右手のひらを月光に透かした。
「三郎、今日のわたしはどうだった」
「どうも何も、いつも通り鮮やかなもんだったよ。姿を見せないと意味のない私とは違って、見応えがある」 
 三郎は思い出す。敵の首筋を這うようにが配合した毒を縫い込んだ糸が通り過ぎた。物理的に首を断つには至らぬが、鋭利な糸は容易く頸動脈を裂き、染み込ませた猛毒が瞬時にまわる。その様子を。
「これは、わたしがくのいちとして最適化されてるってことなんだ。忘れることの何が悪いんだろう。わたしはこれを武器にすることで生き永らえるんだ」
 悟り、腹を括った声色だった。父と祖父に呼ばれた兄たちを襖の隙間から盗み見た日のことが思い出されて、三郎はが強がりを言っているわけではないことがわかった。
 誰かの顔を借りて生きている三郎はどこかで野垂れ死んだとしても「鉢屋三郎としての死」を見届けてもらえる可能性は僅かにもない。それは、これからもに殺められて忘れられ続けるまだ見ぬそれらと大差ないのかもしれない。
 たとえばが三郎を殺したのなら、はその時を覚えていないなんて。そんな馬鹿なことがあるのか、と三郎は絶望的な風景を思う。そうだとしても、三郎はに殺される瞬間を間違いなくその目で見ることができる。それならば。
「問題ない。隣にいる限り私が覚えている」
 は困ったように笑った。
 果たして自分のため忍務のために他者を殺めることは罪なのだろうか。しかし、が罪滅ぼしというのだからそれは罪なのだった。
 ならば、この空っぽの器に、彼女の罪をすべて詰め込めばいい。誰の記憶にも残らない三郎は記憶を増やしたところで、たいした荷物にはならない。
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