乾燥した小枝がぱきぱきと鳴る音がして目を開ける。
「雷蔵なら知らないよ」
 そうか。心底つまらなさそうにつぶやいて雷蔵の顔をした三郎は鏢刀を真上に回転させながら投げて、落下してきたそれを掴むことをくり返す。
 ――存在を限りなく消していたつもりだったんだけど。
 無意識にしていたことを意識的に行うようになると綻びが目立つな、とは思った。特技を伸ばせと言われてもね。
 朝食後、食堂の裏手の渡り廊下に覆い被さっている木の下、は木にもたれて座っていた。教員長屋のほうの井戸のあたりで下級生の子たちが騒いでいる様子が伝わってくる。
 ここ数日でめっきり暖かくなった。毎朝布団から出られず二度寝三度寝し寝坊して山本シナにこっぴどく叱られる冬が過ぎ、もうすぐ桜が咲くのだろう。
「危ないからやめな。下級生だっている」
 廊下が軋む音や喋り声が頭の上の渡り廊下からひっきりなしにしている。
「私が誰かに怪我をさせるヘマをするとでも言いたいのか」
「……忍びの三禁」
 へいへい。三郎は武器を仕舞い観念したように両手を顔の高さまで挙げてため息を吐く。
 手遊びを禁じられ、すっかり手持無沙汰になってしまった三郎はさも当たり前のようにの横に寝転んだ。
「どうするんだ」
「……何が」
「ここを卒業するつもりなのか」
 三郎が言う〝ここ〟は忍術学園を指すのだろう。今朝早くに、同学年の女が縁談を理由に学園を出ていった。くのたまの同学年はいなくなり、くのいちの四年生はだけになってしまった。
 どうするもこうするも、それを決めるのは。
「いまのところ結婚する予定も、逃げ出す予定もないから」
 ふうん。一刻前、雷蔵の居場所を問うてきて返答した時の反応と同じ音程で言う。文句の一つでも言ってやろうかとが横を向くと、雷蔵が無表情でこちらを見上げていたので出鼻を挫かれた。
 ――これは三郎。
 入園初日から、幼なじみの雷蔵にそっくりな顔を引っ提げていた三郎は、にとって恐怖そのものだった。は雷蔵の後ろに隠れて、雷蔵のような人を遠ざけた。あれは雷蔵ではない、じゃあ雷蔵の兄弟か、でも雷蔵には兄弟はいないはず、わたしの知らない雷蔵の事情なのか――。
 三郎の口から「私は変装が得意なんだ」という台詞が出てくるまでの数秒間、十才のは十才なりに葛藤することになった。あの日から、時折違う面を拝借してくるにしろ、基本的に三郎は雷蔵の顔に落ち着いている。
 一年生の頃から、三郎とはテストをくり返してきた。
 毎度は飽きずに雷蔵と寸分違わぬその顔を、じっと値踏みするように見つめ、 それから、あれが違う、これがもう少し――とはコメントを入れ三郎は手を入れてきた。
 三郎にとって、変装を見破られることは最悪死を意味する。としては、雷蔵の無惨な姿を見ることを避けたかった。三郎がどうとかではないところがまた恐ろしい動機ではあったが、それはさすがにきっかけに過ぎない。
「……もう、すっかり本物と区別がつかない」
 は感慨深いものを感じていた。しかしそれはなんだかやりすぎなような気がして、三郎の二つの鼻の穴からずっと先を見ようとして思考を誤魔化す。
「あくまでも面としてだけど。生まれてから十年以上一緒にいる雷蔵と、さすがに四年そこらの三郎とでは目をつぶれば違いがわかるから」
 はあ。は大きなため息をつくと、また体勢を戻す。わたしは何を言っているんだ。
 同時に三郎が起き上がるのが見えたので、は瞼を閉じた。が闘争心を煽ったりプライドを傷つけようとしたりすることを三郎は嫌がる。身体的ないし精神的な暴力に訴えずに逃げの一択を取る三郎は偉い。
 そうやって春先の空気を吸い込んでいて、は覆いかぶさる気配に気が付くのが遅れた。
 瞼を開けた時にはすでに雷蔵の顔が目の前にあって、唇にはやわらかい自分の物ではないものが重なる感触があった。
「隙アリ」
 離れた三郎の唇が、そう言ってわずかに吊り上がる。
 いろんな感情がない混ぜになり、はそのすべてが双眼から溢れそうになるのをぐっと堪えた。
「お前、避けないのな」
 屈んでいた三郎が立ち上がって眼前の光量が戻る。
 三郎は笑っているはずなのに、その瞳はの反応を一つも逃すまいと、ひどく冷徹にを射抜いていた。
「いや……間に合わなかっただけだよ」
「よく言う」
 三郎は大根役者のような意図的な間を設けてから
「目をつぶっていたんだから、違いがわかっただろう」
 最悪だ、としかは言いようがなかった。
 心臓が祭囃子のように鳴っている。いっぽうで脳内は冬の朝のようにすっきりと凍てついていた。
「……なぜ」
「なぜって言われても。隙があったからさ」
「隙があったら誰かれ構わず口を吸うの」
「そうらしい」
 他人事のように三郎は言って、は耳朶が赤く染まっていくのを感じた。
「雷蔵の顔でならどこまで近寄れるんだろうかと思ったんだ。お前は雷蔵のすることならどこまでも許すんだな」
 近寄り続けた結果、唇が重なっただけ。そう言いたいらしい。
 異性との接触も、その先にある婚姻も、すべては忍務や家の存続のための道具に過ぎない。それを机上で理解していながらも、浮ついた話をみなやめなかったくのいちの長屋の夜を思い出した。縁談を理由に学園を去ったくのいちのなかに理想を叶えた者はいなかった。
 そう、わかっていた。こんなことも三郎のテストの延長線上にあるのだ。わたしが悪い。
 「……呆れた」
 はまたゆっくりと瞼を落とした。

<<      >>