「鉢屋先輩! 見てください、この立派な虫取り網! これなら毒虫も逃げませんよ!」
伊賀崎孫兵が路面店に陳列された道具のひとつを持ち上げて振り返る。
「そうだな、頼むから逃さないでくれ。……だが、その網を出すときは逃げ出した後なんじゃないのか?」
「あ……!」
孫兵に巻きつくマムシも呼応するかのように身体をよじった。置いていきなさい、とたしなめる教師たちに立ち向かい、孫兵はジュンコという名のついたそれを首飾りのように下げている。
逃げ出さないようにするためには虫籠が必要だな、と八左ヱ門が孫兵の肩を叩く。はあい、と孫兵は網を置いて八左ヱ門に続いて店の前から離れる。
そういえば、がかいがいしく世話をしている蛇やその他生物に名はないのだろうか、と三郎は先を歩いているの背中を見ながら思った。その背中も背負っている大きな籠にほとんど隠れてしまっているが。
委員会活動に関わる備品調達のため、生物委員会であると八左ヱ門、それから孫兵は町へ下りていた。それでどうしてその委員会に属していない三郎がどうして彼らの後ろを付かず離れずの距離で歩いているのか。
鼻息荒く先を行く生物委員会の面々を追いかけて、三郎の隣を歩いていた雷蔵が苦笑しながら三郎を見た。
「三郎はどうして着いて来たの? こういうの嫌がりそうなのに。そんなに暇だったんだ?」
「人聞きの悪いことを言うな。友人や先輩後輩同士での買い物は目立つが、それでいて目立たないから好都合だ。それに、八左ヱ門一人に一年生の面倒とを見張らせるのは酷だろう」
よくまわる口だね、と雷蔵は肩をすくめた。
そもそもその八左ヱ門だって信用ならない、と三郎は頭の後ろで腕を組む。道草を食いすぎて帰ってこないという光景はありありと想像できた。というより、前科何犯かわからない。実際のところ、三郎は可能であれば、と控えめではあったものの教師から同行を頼まれていた。
「だからって僕まで連れて行かなくったってよかったのに」
「行きたくなかったのか」
「そういうわけではないけど。まあ僕は暇だったしね」
出店が立ち並んでいる一角の終わりに、茶屋がある。三郎は自分の視線が茶屋の外腰掛けに吸い込まれたことに気がついて、すぐに地面にずらした。
「三郎、疲れたの?」
振り返っていたが三郎の顔を覗き込む。冷やかしているようにも心配しているようにも、そのどちらにも見てとれた。
「まさか」
めざといよな、と三郎は思う。ほんの一瞬だ、赤い布に目を惹かれたのは。もしかすると、も茶屋を見ていたからこそ、その視線に気がついたのかもしれない。
「孫兵が団子でも食っていくかと思ってな」
「えっ、いいんですか!?」
上級生が下級生に甘いのはいまにはじまったことではなく、なにもおかしな提案ではない。いいさいいさ、と八左ヱ門は跳ねるように賛同した。雷蔵はみたらしかあんこか、つぶあんかこしあんか、桜餅も、ああどれにすべきかな、とすでに悩みはじめていた。
八左ヱ門と雷蔵がまとめて会計をしているなか
「僕がお盆を持ちます!」
嬉々として手伝いを買って出た孫兵が意気揚々と人数分のお茶が載せられた盆を運ぶ。〈心配〉と顔にデカデカと書いてあると三郎がその後ろについた。
外の腰掛けへ孫兵が盆を置くと、なにかに気がついてと三郎を振り返る。
「見てください! あ、わっ!」
孫兵の手が盆の上の湯呑みの一つに強く当たった。驚いた孫兵は飛び上がって膝を腰掛けにぶつけた。茶を溢して盆の上で転がっていた湯呑みはそのはずみで縁を乗り越え、地面へと目掛けて落下していく。三人はその様子をスローモーションのように見ながら、それでいて見届けるほかなかった。
――がしゃん。
小気味よく乾いた音が響いた。
は喉を両手で誰かにねじられたような感覚に囚われた。
会計を終え、団子の置かれた盆を持ってすでに半身を外へと出していた雷蔵は弾かれたように、孫兵ではなくのほうへ顔を向けた。条件反射だといってよかった。音が鳴った瞬間、がどうなるか、雷蔵には想像できていたからだ。雷蔵は一歩を踏み出したが、しかしすぐに考えを改めた。
雷蔵には、が三郎へと手を伸ばすのが見えたからだ。
「先輩方、ごめんなさい、いま片付け」
「触るな、孫兵」
冷静な三郎の声が地面に這いつくばった孫兵の頭上に落とされ、びくり、と孫兵は肩を振るわせた。三郎は声色を誤ったことに気がついた。
「孫兵、怪我はないか!」
籠を下ろしながら店内から飛び出してきた八左ヱ門が孫兵に駆け寄る。
「僕は謝罪を」
雷蔵はふたたび店内へと身体を向けて、八左ヱ門に向かって小さく頷いた。ああ頼む、と八左ヱ門も同じように返す。
「大丈夫だぞ、孫兵。気にするな」
そう言って孫兵の頭をなでる級友を三郎は突っ立ったまま見下ろす。
三郎は孫兵に駆け寄るべきだっただろう。後輩に大丈夫だと言ってフォローするべきだった。しかし、三郎は咄嗟に動けなかった。
動かねば、と思ったときにはすでにが三郎の上衣の袖を握っていたからだった。
三郎はの指先を逆の手で取り、上から重ねるように握った。冷え切った指先は凶器にすらなりそうだった。
「……」
名を呼んだ瞬間、三郎の手の中での指先が三郎の指先を掻いた。それは威嚇するようなものではなくて、どこか艶かしさすらあり、三郎はただ、赤い布が濡れて染みになっているのを見ることに集中した。
しかし次の瞬間には息を吹き返したかのようには自分の手を三郎から引き離すと、余った勢いで三郎の胸を突き放した。籠の中の鯉の餌や渋紙が囃し立てるように音を立てる。
「自分から懐に飛び込んでおいて失礼なやつだな」
三郎は心底傷ついた、といった表情をつくり、いましがたに乱暴に触られた襟元を払う。
「……ごめん」
重力に負ける湯呑みを見ながら、破片を見ながら、は冷静に雷蔵の顔を探していた。それはすぐ隣に見つかった。
「雷蔵の顔を見たから安心したの」
は負い紐を握りしめながら言った。
「でも、雷蔵じゃなかったから混乱しちゃった。……雷蔵じゃない誰かは、三郎だったから」
もう一度ごめんなさい、とくり返しては孫兵と八左ヱ門の元へと歩き出す。
三郎だったから、なんなのか。雷蔵に見える誰かはよほどのことがない限り三郎だ。いまにはじまったことではない。
誰かが雷蔵のふりをしていることに混乱しているのではなく、それが三郎であること、雷蔵ではない誰かのうちの三郎でも代替可能な可能性には困惑しているといえた。三郎を嗅ぎ分けているのに、それでいて寄りかかりそうになって、怖くなる。
――あのとき、私が彼らに声をかけていたら。
三郎は後悔ともまた違う、仮定の話をしたくなる。
あのときつけていた自分の面がなんだったのかを三郎は覚えてすらいないが。つまりそれはやはり三郎ではないということなのかもしれないが。
震えるを、血の滲む指先を、ただ消費せず、見て見ぬふりをしなかったら。
「茶柱が立っていたから……」
背負っていた籠を地面に置いて屈んだに、孫兵は消え入りそうな声で言った。
「ありがとう、孫兵。教えてくれてうれしい」
だから、泣かないで。
は孫兵の頬を伝う涙を人差し指でなでる。それはさっきまで三郎の手の中にあったものだ。