沈みかけている太陽が学園を刺すように照らしはじめて、三郎は雲がはれたことに気がついた。昨晩からずっと霧雨が降っていて、明け方には雷蔵がそろそろ冬支度が必要かな、と手のひらをさすっていたほど肌寒い。
 三郎は朝から一人で町に出ていた。これといった用事があったわけではなかったが、定期であり不定期に、三郎は学園外に出る。それは流動的な町に流れる情報といった流行りを取りこぼさないためだった。もちろん授業でたまに外へ出ることはあるし、三郎たちよりも頻繁に外出を余儀なくされる上級生からも話こそ聞くが、生の情報や人間というものに三郎は飢えていた。そして、三郎の特異を活かすためにはかけがえのないものだった。
「そんなの抱えてたってあったまらないだろう」
 そうして夕刻。学園に戻った三郎は薬草園の出入り口の縁に腰掛けているに、塀の上から声をかけていた。のお腹から太腿にかけて、朱色をした蛇がとぐろを巻いて居座っていてじっと動かない。
 小さな頭を上げたは雷蔵の顔をした三郎を一瞥するとすぐにまた手元の蛇(三郎にはその種類はわからない)に視線を落とした。
「人間よりよっぽどあったかいよ」
 三郎は呆れて返事を忘れた。
 蛇は変温動物だ。周囲の温度が低いのだから、蛇にも温度はないだろう。
「もしかして、またわたし、いないことになってる?」
 が思いついたように言って、三郎は塀の上から静かに頷く。
「同室のやつが探していたぞ」
 悪いことしちゃったなあ、とは小さく笑った。しかし、立ち上がろうとはしない。マイペースなものだと三郎は思う。人のことは言えないが。
 は時折、気配を消して自分を空気にしてしまう。本人に自覚がないためかなり厄介だった。
「三郎はよくわたしを見つけられるね」
 くのいちの友人たちも、がそこにいるとは気づかずに通り過ぎていく。上級生や先生たちにはわかるようだが、より探そうとする機会の多い同級生や同じ委員会の後輩が上手に見つけられないのが困るわけだ。
 その点、の指摘は正しい。いつも三郎はを見つけることができる。しかし、コツを教えてほしいと頼まれても難しい。居そうな場所をくまなく探すわけではない。ただ、三郎には消えたものがあることがわかるのだった。その空白を探せば、自ずと見つかる。
「雷蔵は」
「え?」
「雷蔵はお前のことを見つけられないのか」
 は片手を蛇から外して地面に押し置く。
「……見つけるよ」
 でも、見つけない。
 と、はまた訳のわからないことを言う。
 その面であまり変なことをするなよ、と釘を刺されて以来、三郎はの扱いに困っていた。するなと言われたらしたくなる。いたずらっ子の性だ。でもそれをするとなんだか取り返しがつかないのだろうな、と察していた。しかし、それならば、なぜそう思わされるのかを知りたいとも思っていた。
 ただ、そのどちらもを叶えることは非常に難しいことだった。三郎は団体行動を基本的には好まないが、だからといって級友に率先して嫌われたいわけでもなかった。そういった相反する感情をもつことすらも肯定されたいと思うことはあれど。
 のことを苦手だというわけではない。こうしてふらりとを見つけては寄っていくのだから。ただ、喜怒哀楽のポイントがほかの級友たちとくらべると曖昧で掴みどころがなかった。ミステリアスと言い切るほどでもない。噛み合わないというほどでもない。なんとなく、しっくりこないときがある程度だ。むしろそれが居心地をよくすることもあったので、三郎はあまりこの関係性について深刻とは考えていなかった。
「もしかしてだけど、学園内では雷蔵の顔に固定で決定したの?」
「……ああ」
 蛇の聴覚がいかほどかを三郎は知らなかったが、蛇に迷惑をかけないようにしているのかという小さな声量に、三郎は塀から降りることを決め砂利を鳴らした。
「さすがに学内では一つの顔に統一しろとうるさいからな」
 ふうん、とは呟いた。
「じゃあ、雷蔵であることを三郎に強要するのは現実的じゃないか」
 そうだな、と言いかけて三郎は口を閉じ、なにかを言う代わりにの横に腰を下ろした。
 変装術とはなにも外面だけを対象に寄せるわけではなく、内面や所作をもコピーしてこそだ。つまりは、雷蔵の面を被っているのだから雷蔵らしくしろというのは酷だろうと言っている。三郎の能力がそこまで及ばないから、と。
「脱皮しているの。雨がずっと降っていたし、何かあったらいけないと思って見ていた」
 三郎が声を荒げたりして否定する前に、薬草園を一部覆っている木々の下をが指差した。おそらく生物委員会で飼育している蛇のうちの一匹だろう。透き通った小さな瞳がどこかを見ていた。
「そういえば、一年の実習のときだったか。八左ヱ門が脱皮間際のカマキリを濡れないように仕舞っていたな。天候を気にしていなければ雨が降りそうだとは思わないような天気だったが、八左ヱ門には天気が読めるんだなと思ったよ」
 驚いた、とはぽかんと口を開いた。
「三郎はやっぱり、洞察力がすごいんだ」
「……それがないと商売にならないからな」
 知ったように言葉を返しながら、三郎は舌打ちをしそうだった。
 昼時。町の雑踏のなか。三郎は三郎とすれ違った。
 雷蔵が湯たんぽというものがあるらしい、すごく高級らしいけど、と興味を示していたからチェックしてきてやろうかと、雨で駄目になっても構わない、とどこかの町ですれ違った青年の顔を盗んだ面をひさしぶりにつけて歩いていたところだった。
 目の前の角から橙色の毛束を揺らしながら出てきた人影が視界に入ったとき、三郎は文字通り息を呑んだ。
 ――雷蔵。
 菅笠のせいで顔に影がかかっていて不明瞭だが、そんなわけはなかった。雷蔵は今日、図書委員会で図書室の大掃除のはず。雨が降り続きそうなのであれば埃も舞いにくいしちょうどいいですね、と中在家長次先輩たちと今朝にこやかに食堂で話していたではないか。
 口角を上げたそれは戸惑うことなくずんずんと三郎に向かって歩みを進めている。三郎はその面を瞬時によく観察した。
 不破雷蔵を再現したのではなく、三郎が見繕った不破雷蔵の面を忠実に再現している。
 三郎はいまこの瞬間すれ違おうとしている人間が父もしくは一族の者であることを察し、喉の奥に小粒の石ころがいくつも詰め込まれたような息苦しさを感じた。
 着こなされてしまった。傑作の面を。これ見よがしに言いやがった。これは〝雷蔵の面〟であり雷蔵ではないと。過不足があると。まだまだ未熟だと。
 これだ、これなのだ。三郎が日々直面していた意地の悪いお遊びというのは。悪趣味で、気味が悪い。そういったことを三郎はにしてやりたいという気持ちにふつふつ支配されていた。
「三郎みたい」
 白濁した思考のなかでの声が反響した。現実に引き戻されて、三郎はまた皮を脱ぎ捨てようと体をうねらせている蛇に焦点を合わせる。
「蛇も一生ずっと脱皮をするんだよ」
「ずっと仮初の姿ということか」
 透明な筒状の皮から蛇がにじり出てくる様子は、たしかに面を取り替え続ける三郎と類似しているかもしれない。
「そんな意地悪を言いたいわけじゃないよ。わたしたちの怪我が治ったり治らなかったりするのと同じように、生まれ変わっているってことでもあるんだから」
 は膝に乗せていた蛇を片方の肩にかけると、すくっと立ち上がった。それとほとんど同時に地面を這っていた蛇は古い皮を切り離した。新鮮な皮へと生まれ変わった蛇はつやつやとして光っている。
 はその場に屈んだと思ったら姿勢を正し、また数歩、元いた場所へ座り込む。
「ほら、きれいだよ」
 精巧なレースのような皮はひとたび風が吹けば破れてしまいそうだった。は輝きを放っている本体には目もくれず、脱ぎ捨てられた透明な皮を拾い上げ、三郎に見せたのだった。
 愚かなことに、三郎はまるで自身を肯定されたかのように感じてしまった。
 三郎はその皮を引き取り、そしてすぐに地面に置いた。代わりに、その空いた手で、の手のひらをとった。は三郎の目こそ凝視したが露骨に拒絶することはなかったので、三郎はそのままやわらかい小さな手を自分の懐に入れた。まるで宝物を仕舞うかのように。
「……あったかい」
 火にあたっているときのようにはぼんやりとそう呟いた。
 これは〝変なこと〟に当たらないのだろうか、と三郎は思う。雷蔵なら、こんな真似は――まさか、するのか?
 いや、しないだろう、と三郎は否定した。ただ、はきっと、三郎が雷蔵であり続けることを諦めたのだ。それは三郎にとって現状、敗北であると同時に降伏でもあった。
 薬草園など用がなければ目指してわざわざ来ない。欠けたものを探したから、埋めたいと渇望したから、ここにいる。
 木々の葉には落ちるまいと水滴がしがみついていて、小刻みに震えていた。
 二つの体温が混ざり合う。透明な皮が、艶かしい身体が、夕陽をありったけ吸い込んでしまおうとしていた。徐々に闇の占める面積が広がっていくのを二人はただじっと待った。

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