ペースメーカーのような役割を担っていたが急ブレーキをかけると、後ろを走っていた数人のくのいちたちがつんのめる。将棋倒しのようになり、あわや大惨事というところであった。
 もーっ! と怒りながらも笑っている同級生たちに、ごめんごめん、とは頭に手をあてて申し訳なさそうな表情をつくると、みなを先に行かせた。それからさっと山道の端へ寄り、腰を屈める。
「八左ヱ門くん」
 たちの少し後ろを走っていた竹谷八左ヱ門が通りかかろうというところで、は名前を呼んだ。呼び止められた八左ヱ門は、なになに、ととは対照的にスムーズに列を外れることができた。
「見て、いい鎌を持っている」
「おおっ、立派な雌だな!」
 脱皮直前か? と八左ヱ門は身を乗り出す。
 枝にぶら下がった褐色のオオカマキリの前脚はきりっと持ち上げられ、その力を鼓舞しようとしているように見える。はこのカマキリを見つけて足を止めたのだ。
 嫌々、いたしかたがなく生物委員会に属しているくのたまが大多数であるなか、一年生のは率先してその委員会への所属を希望した変わり者、という扱いだった。その評価はさほど変わってはいないが、総じて忍術学園の子どもたちは個性豊かであるため、悪目立ちをしているというわけでもなかった。
「生物委員。そういうことは帰りにしなよ」
 追いついた久々知兵助が声をかけるが二人には聞こえていない。それどころか地面にお尻をつけて鑑賞大会がはじまろうとしている。
「あっちの朽木はいい湿り気だぞ」
「本当だ。きっとハサミムシがいるね」
 しんがりを務めていた鉢屋三郎はまたか、と大袈裟にため息をつく。
 課外授業などで外へ出るたびに二人は昆虫や爬虫類、猛禽類といったありとあらゆる生き物に吸い寄せられてしまう(いや、学園内でも同じだ)。
 今日は一年生のみで山頂にある古い狼煙台跡に到達、そこで学園に届くようになんらかの合図を送ることができればゴールだ。これは二年生への進級テストともいえた。かなりぬるいな、と三郎は出立前からあまりやる気はない。
「お前たち、置いていくぞ」
「三郎くん、そんなに怖がらなくても噛まないよ」
 今日の三郎は不破雷蔵の面をしているが、丸い瞳がそう言って疑いなく三郎を見上げる。八左ヱ門の前にいたはずの本物の雷蔵が遅れをとっているたちのほうへ引き返すべきか、進むべきかを迷いその場で足踏みを続けていた。
「……進めと言っているんだ」
 三郎は二人の襟を掴んで持ち上げる素振りをすると、はあい、とは観念したように言って、八左ヱ門がオオカマキリを装束の内側に忍ばせたのを三郎は見逃さなかったが放っておいた。毒を持っているわけでもないからだ。

 急勾配の道に差し掛かる頃には、元気だった一年生たちもだんだんと口数が減っていた。登り切ってから休息を、という手筈だったが、尾浜勘右衛門がいったん全員で休むことを提案し、兵助を筆頭に三郎もそれを嫌がったが(珍しくも)、最終的には折れた。
「高タンパクな非常食として豆腐は重宝されるべきだと思うんだ」
 兵助は大事そうに懐から包みを取り出す。
「すぐ傷むよ」
 の正論に、兵助が大袈裟だと思うほどにショックを受けている。
「気温に左右されない、持ち運びしやすい、手に入りやすいものにしないと」
 そう言ってが差し出したのは、自ら採取して干したという橙色の実だった。
「なにそれ、なんていう名前なの」
 と勘右衛門が寝そべったまま問う。わたしも知らなーい、とくのいちの一人も初見であることをアピールした。
 は隣にいた雷蔵の顔を見ると、竹筒に口をつける。雷蔵が代わりに知らない単語を口にした。
「小さいころよく食べていたよ。疲れたときはこれに限るって」
 ぽい、と三郎がその実を口に放り込む。三郎にしては不用心だな、と誰かが言った。雷蔵ももこの状況下で悪質ないたずらをするような級友ではない。
 三郎は乾燥した実を何度か噛み締めたところでぎゅっと顔を歪める。梅干しとはまた種類の異なる酸味だけが口のなかを駆け巡ったのだ。
「……あはは、三郎、かわいい」
 が笑い、三郎はどうにか表情を繕おうとする。
 かわいい。それはなんだ、雷蔵の顔がきゅっと縮まったことに対してか。それとも酸味に顔を歪める味覚をもった私のことか。
 口の中で唾液が海をつくるので三郎はそれを問うことができなかった。
「あ」
 ぽつり、との鼻先に雫が落ちた。
「雨だ」
 慌ただしく一年生は広げていたものを仕舞い、簡単にストレッチをして難所に再度挑む支度をする。
「やっぱり降ってきたな」
「勘ちゃん、わかってて休もうって言ったの」
 はお尻についた砂をぱんぱん、と手のひらで落としながら呆れたように言った。
「あのまま進んでてもどうせ途中で降られてたろ。降りはじめるまでに上には辿り着けなかった。それなら士気を極端に下げないためにも休むべきだよ」
 それはそうだけどね、とが眉を下げる。
「なんだ、みんなわかっていて休むことを選んだのか」
 雨が降るのではないかと感じていたのは私だけではなかったのだな、と明るく三郎が続ける。
 そんな三郎を横目に兵助と雷蔵がまさか、と頭を振り、朽木のそばから戻ってきたばかりの八左ヱ門とはじっと押し黙った。雷蔵は本当に頭の片隅にもなかったであろうが、兵助は机上であればあらゆる情報をして気がついていたはずだった。現場に出ると判断力が極端に低下するのが兵助の弱点だといえた。

 山道はぬかるみ、脚は前へと進まない。もうまもなく、のはずなのだが。
 回復傾向にあったはずの一年生たちの間に、一気に緊張と疲労が広がる。勘右衛門はたしかに雨が降るリスクを考慮していた。三郎も八左ヱ門もそうだ(八左ヱ門に関しては楽観的だったかもしれない)。しかし、ここまで激しい雨になるというのは誰もが想定外だった。井戸をひっくり返したような水量は道に川すらつくっている。合図に狼煙を使うのはほぼ不可能だろうな、と三郎は頭巾の端を握った。
 三郎の面を固定する糊はふやけ、面の端が顎のあたりから浮いている感覚があった。まずいな、と三郎は思う。ここで三郎の面が変わることはつまり、過剰な水は弱点になることを示すということだ。想像に難くなく、面白みもないことだった。
 三郎に集団行動は向いていない。そして、この集団とこのまま山頂へ向かう流れでさして愉快なことは起こり得ないだろう。真面目に遠足などこなさずとも、ここから外れてしまってもいいのだが――。
 そんなことを考えていた三郎は、ずるずると後退してくる見知った少女の後ろ姿を捉える。
 は無言で三郎の横に並んだ。疲れたと言っても助けられないぞ、と三郎はに声をかけようとしたが、は懐から頭巾を取り出して、三郎と視線を交わらせることなくそれを三郎の眼前に晒した。まるで三郎を外界から遮断するように。
「……下にもう一枚、つけている」
 三郎が可愛げなく暗に不要であることを示す。雨音は激しく声が届いたかどうかはわからない。
 雷蔵の面が剥がれたところで、その下にはもう一枚、別の面を仕込んでいる。その下にも。
「知ってるよ」
 は無機質にそう返し、上げた腕を下ろそうとはしなかった。ただ、そのまま、歩いている。
 ――面を剥がそうとするだろう、普通は。同級生は。忍たまは。
 いつもそうだった。
 外で騒ぐ同級生たちを三郎は渡り廊下から雷蔵ではない誰かの顔で眺める。 勘右衛門や兵助が三郎に声をかけようとするが、一瞬の躊躇いを覚えると結局声をかけそびれてしまう。三郎ではなく、本当に知らない人なのかもしれない。そう思うのだ。
 そんななかでだけが「三郎くん、そこにいるなら手伝って」と、明確に変装の向こう側にいる三郎を指名する。
 違ったときは違ったときだ。そうは豪語する。ちゃんは毒ヘビだって怖がらないからね、とまわりのくのたまは笑う。
 一族の大人たちは現状がどうあれ「次の一手」を評価する。けれど、は。
 三郎は熱を失った指先でそれをひったくるように受け取った。
「三郎くん」
 は片腕の振動を気に留めることなく、前をずっと見据えたまま隣を歩く級友の名前を呼んだ。
 鼓膜を叩いていた雨音が急速に静まり遠くで鳥が長く鳴くのを聞いた。霧ですぐそこに迫っているはずの山頂はよく見えない。
「その顔のまま、あまり変なことをしないでね」

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