しとしと小雨が降る早朝、三郎は幾分遠回りをして忍術学園へ向っていた。ある程度、学園周辺がどのような場所なのかを早急に確認しておきたかった。つねに状況を把握しろ、というのは三郎の父の口癖だった。
 間者としての地位を確立している鉢屋一族の子、つまり幼少より英才教育を施されているといえど、たかだか十才の少年にとって山奥の学園への道は険しい。
 今日から忍を志す者たちとの長屋での共同生活がはじまることをまったく感じさせない荷物の少なさは、三郎の自身への自信のあらわれともいえたし、反面自信のなさだともいえた。
 雨傘など、道中一泊させてくれた初老の夫婦の家から出る時に手渡されなければ持たなかったことだろう。こんな高級なものをこれ見よがしに持つなどという発想はもとよりなかった。
 三郎はおのれが演じることに長けている自覚はあったが、つまり彼らが自分を助けることは想定内であったが、それでも心やさしいことと無警戒であることは紙一重だと、三郎は哀れに思った。それでもその傘を手に握りしめて雨を避けていることに関して三郎は目を瞑っていたかった。
 そうして土砂降りではないがやはり止むことはない小ぶりの雨に三郎は腹を立てていた。衣服が濡れると身体が重たく動きが鈍くなるのは避けられず、面の型もずれてしまう。
「歩くのはやいよ」
「ほら、手」
 その声を鼓膜が受け取った瞬間、どくん、と心臓が波打った。
 七寸ばかり前方を、三郎と背丈のあまり変わらない少年と少女が歩いていることにはずっと気がついていた。兄妹のようにも友人のようにも感じる二人の目的地が十中八九三郎と同じであることも。
「まだ着かないのかな」
「もうすぐ。そんなんでほんとに忍者になるつもりなの」
「大丈夫、迷惑かけないよ」
「いまかかっているよ」
「……今日までは、ブレイコウ!」
 会話がはっきりと聞こえるほど近づいてしまっていたことに気がつかないほど、不快感に先を急いでしまっていた自分を三郎は恥じた。
 しかし三郎が動揺したのは、そのせいだけではなかった。三郎はその声をよく覚えていた。
 なにせあの日三郎が盗んだ顔がいま目の前にいるのだから。
 傘を閉じ荷物と背中の間に突き刺す。手近な柏の木に飛び上がり、木を伝って移動して二人を追い越した。
 三郎が見下げていることにも気がつかず、二人は手を繋いで前へ進んでいる。どちらの手にも当然ながら傘はなく、その代わりに風呂敷がある。菅笠も被っておらず、前髪が水分を含みぴったりと額にくっついていた。
 三郎は二年ほど前に、いまは行方知れずとなっている二番目の兄と立ち寄った茶屋で出会った、三郎と同い年くらいであろう少年の面をしていた。
 観察対象として他人に興味は寄せるものの、三郎は同世代に関心が薄かった。無理に近づこうとせずとも、自らの経験があれば真似ることは容易いと考えていたからだった。ではなぜ、三郎は化けの皮を制作できる程度にその少年の顔を見たのか。
 茶屋の外腰掛けに座っていた三郎は、がしゃん、という甲高い音に彼らを視界に入れることになる。少女が握っていた湯呑をするりと落としてしまい、粉々に砕けたのだ。
 少女は顔を真っ青にして素手でその破片を拾い集めた。愚かなことだ、と三郎は思い、案の定、少女の指先は切れ、赤い血が滲んだ。馬鹿げたことをやめさせるために少年は少女の肩をそっと引き寄せた。少女は少年の顔を見ると、はっとしたようにひとつ息をつく。少年は少女の指先を持っていた手拭いで包んで、その指を壊れ物のように丁寧に扱っていた。
 三郎は兄の表情(それはもちろん他人の顔なのだが)を盗み見たが、ただみたらし団子を口に含んで噛んでいるだけだった。
 まさかあんな腑抜けた二人が私と同じように忍びの道を志すなんて――。
 三郎は自分の頬を両手で挟んで、その顔を追いかける。ああ、やっぱりそれなりに以前の記憶。三郎がしている顔と、いまの少年の顔はいくらか雰囲気が異なっているようだ。
 忙しなく動く心臓を落ちつけようと、普段より大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。三郎は彼らを置き去りに木々を揺らし、そうして川にかかる橋を見つけると、三郎は木から降りた。そっと木製の手すりに傘を立てかける。
 汗のように光る水の玉を拭うこともせずただ前に進む姿に感銘を受けたわけではない。いまさら雨粒から逃れたところで衣服や髪が乾くこともない。ただ、三郎は自分の荷物を減らしたいだけだ。
 受け取らないのであればそれまで。
 三郎は先を急いだ。

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