06

When one door shuts, another opens.

※01-03の夢主視点


 まぶしいな、と思った。
 それは正面から全身に浴びている西日のせいでもあったけれど、額にひっついた大粒の汗が、くたびれた制服が、暑苦しいほどの熱源を物語っていたからだった。
 そして同時に、ああ、わたし、あの人にこうして追いかけてきて欲しかった──────残像がちらつく。それはひどく素直な、奥底においやっていたはずの願望だった。
 目の前で息を切らしているのは違う男───男の子だ。望んでいたそれとは異なる、でも、それは目をつむりたくなるほどきれいな光景。






 山田三兄弟の真ん中は高校生だったはずだ。スマートフォンをふんだくられて履歴に記録された二郎くんの携帯番号は、きっと高値で売れることだろう。使わないものは売る。エコである。それをしなかったのは携帯番号は物体でなく、わたしのひとり住まう部屋を埋めることはないからに過ぎない。人並みの倫理観ではない。そんなものがあれば、わたしは萬屋ヤマダへ足を踏み入れ、金を置くことはなかったのだから。
 ふたたびわたしの目の前に現れた山田二郎に対して、わたしがとるべきだった行動は拒絶だったはずだ。それをしなかったのは、わたしの孤独を如実に表していた。

 正義感の強い子なのだろう。きっと山田一郎はこんな行動───依頼人への干渉───を許してはいない。ような気がする。
 いくつも年下の高校生に心配されている、というのは決していい気分ではなかったが、だからといって不愉快ではなかった。むしろ、有名人といって差し支えのない高校生に付き纏われることはその経緯さえドラマチックなことであったならば自慢できることのひとつである。残念ながらそうではないので、声を大にして公言することはできない。
 二郎くんの気が済むまで、二郎くんがわたしはもう問題がない、と安心してくれるまでこうして週に一度、数十分の歩みをつづけていればいい。高校生の興味を惹くものなどこの世界にはたくさんある。手に触れられない距離にある情報にも簡単にありつけるのだ。目の前にあるものだけが、掴めるものではないということを、彼はすでに知っているはずだった。
 家族のことやラップバトルのことを話す彼の表情は、それはそれは豊かだった。楽しかった、と話す彼の目はますます下がり、腹が立ったと話す彼の口元は突き出している。現役の高校生の男の子を彼しか知らないが、わたしの高校時代の周りの男たちもこんな顔をしていたのだろうか、と思い返そうとするが、案の定うまくはいかなかった。

 金曜日。後輩の発注ミスは後輩だけでは片付けられずに、わたしにまで上がってきた。月末月初の処理に追われていたわたしに厄介ごとが追加された結果、定時退社は当然叶わず、オフィスの壁にかかっている時計はぐるぐる回り続けていたし、パソコンのモニターに表示されている数字も着々と時を刻んでいた。
 ぶう、ぶう、とデスクに放置していたプライベート用のスマートフォンが主張を始めたのは、おろおろしていた後輩が落ち着きを取り戻し、始末書を書き上げ、確認をしている最中だった。盗み見た市外局番からはじまっていたその未登録の番号に安堵、一方でそれは見覚えのある数字でもあり、記憶を手繰り寄せきれないままに通話ボタンをタップした。

「こんばんは。萬屋ヤマダの、山田一郎です」

 聞こえてきた快活な声と名前はわたしの鼓膜を叩き、反射的にわたしを椅子から立ち上がらせる。セキュリティーカードを首に下げているのを確認して、オフィスの出入り口へ向かいながら、こんばんはと場を繋ぐ。

「どうしました? 営業電話?」

 あはは、と電話口の山田一郎はわたしの冗談とも本気とも取れる問いかけに笑い、そうしてから、二郎がそちらにいないかなと思ったんです。と、はっきり続けた。
 わたしはその予測に対して、いたずらが露見した子どものようにシラを切ろうとしたけれど、無駄な抵抗だと一瞬で理解した。
 勘違いだったらすみません。そう、フォローを忘れない山田一郎は勘のよい母親なのか、子どもである二郎くんがあまりにも演技が下手なのか───おそらく後者───いや、どちらもか。
 まさかね、とエレベーターを視界にとらえ、ヒールがカーペットに食い込むのを感じながら小走りで進む。だってもう、いつもの時間からどれだけ過ぎていると思っているんだ。
 昇降機のすぐ隣の階段を通り過ぎて、突き当たりの窓を目指す。この窓から、オフィスの正面出入り口を確認できるということは、この数ヶ月の経験で学んだことだった。毎週やっているのと同じように、ガラス越しに視線を落として、わたしは短く息を吸い込んだ。

 なんてことだろう! 
 ガードレールにもたれかかる見慣れた姿は街頭に照らされている。道路をのちのちと四本の足で闊歩している野良猫を見つけたときと同じような、全身の熱が沸き上がって喉でつっかえるような、そんないじらしさを覚えた。溢れそうな熱っぽい感情を押し殺す。

「承知しました。不良少年は家に返しますから、ご安心を」

 ご迷惑をおかけします、ときっと端末を片手に頭を下げているであろう山田一郎に、こちらこそ、と文字どおりの返事をして、来た廊下を引き返す。
 約束をしているわけではない。それでも山田二郎は、ただそこにいた。ショートメールの一通も、電話の一本も寄越さず。なんて愚かな子なのだろう。わたしが連絡をしないからといって、連絡をしてはいけないということではないのに。それが、山田二郎の、山田二郎らしさだと痛感した。
 来週はいないかもしれない。明日はいないかもしれない。───そう思いながら過ごす6日間はわたしにあの人のことを忘れさせた。
 その事実が何を表すのかを、わたしはわたしにすら問われたくはなかった。それでも、それが真実だった。






 わたしからどこかへ誘えばいいのではないかと思い当たった。いいのでは、というのは、二郎くんの意図がはっきりするからいいのでは、ということだ。
 そういうつもり───あなたを無償で気にかけているとか、好意とは言わずとも興味を寄せているとか───ではないのだと、わかるのではないか。そしてそれはわたしにとっていいのではないかと思ったのだ。
 たとえば、明日ランチに行かない? なぁんて誘ってみて、ご依頼ですね! と、交通費や食費を請求されれば、御の字。あなたを気にかけているのはあくまでも仕事の延長戦。仕事に繋げるため。そうであれば、彼は将来、いい営業マンになるだろう。
 取引先が気を利かせて2枚くれた美術館のチケットの片方を持て余していた。いらぬ世話を焼くおじさんなのだ。もう以前飲み会で話題に出ていた男との関係は終わっている、とわざわざ伝えることも億劫だった。
 二郎くんがこういった場所に興味があるとは思えなかった。だからこそ、誘ってみるのは名案だ。万が一、彼がわたしに異性としての興味を持っていたとしても、あ、なんだ、こういう趣味なんだ、と、自分とは合わないなと察してくれたらいい。
 ふたり掛けのコーデュロイ素材のソファに寝そべりながら、履歴に残る番号をタップして、発信する。呼び出し音が続くこともなく、電波が届かない場所にいるか、電源が入っていない、という可能性を女性の声が告げた。
 本当に、万が一、春画展を高校生の男の子とふたりで観に行くことになったらどうするつもりだったのか。二郎くんが浮かべる戸惑いの色を想像したら、へへ、と気味の悪い笑い声が出て、ソファから転がり落ちるようにして立ち上がった。






「あの日は連絡してすんませんでした」

 コンビニへと向かう道すがら二郎くんの兄はそう言って頭をかいた。

「いやいや、鼻のきくお兄ちゃんだなとは思ったけど」
「二郎がわかりやすすぎるんですよ」

 デートがしたい、という言葉に、わたしは、そうか、わかった、そういうつもりなんだな。と割とあっさり納得した。すっきりしたのだ。彼のベクトルがわかれば、こちらにも対応の余地がある。
 ところが、またあの事務所に来いと言われた。なんなんだ。わたしとデートしたいのではなかったのか。ぜんぜん二郎くんの言動に一貫性がないことに拍子抜けした。
 二郎くんが開いた事務所の扉の先には彼の兄も弟も在宅であることが確認でき、これはどうしてか、恋人の実家へのご挨拶を想起させられた。

「あんな依頼をした女が自分の弟と仲良くしてると思ったら、いやでしょ」
「正直、雑な感じで遊ばれたら腹立つなとは思ってました」

 それも経験かとは思いますけど、と一郎くんは冗談めかして声を張り上げる。

「あはは。一郎くんが、そういう経験、あるのね?」
「げ、俺のことはほっといてくださいよ!」

 大きくのけ反った一郎くんが、その推察は正しいと証明している。
 そもそもわたしは女だし、兄弟はいない。男兄弟のことは想像することすら難しい。加えて、両親不在の三兄弟の関係性などわかったふりなんてできっこない。それでも、二郎くんの兄である一郎くんが、自分の弟のことをどのように認識し、接していくのか、真摯に、臨機応変に判断しようとしていることだけは伝わった。

「親ならまだしも兄貴がしゃしゃり出てくるなんて気色悪いんで、もう気にしないでください」

 コンビニの自動ドアからわたしの下半身ほどの全長しかない子どもが飛び出した。数歩遅れて出てきた母親らしい女性がその手を掴み、並んで歩いていく。

 気にしないから、どうとでもしてください。───そういうことなのだろうが、そう言われてもなあ。
 さすがにわたしの年齢で高校生の息子がいる計算には到底ならない。ならないけれど、わたしと二郎くんが手を繋いで歩いていたなら、その関係性にどんなラベルが貼り付けられるだろうか。H歴になり、年収のよい年上女性と婚姻を結ぶ若い男も増加傾向であると、ネットニュースで目にしたこともある。ただそれは、あくまでもマイノリティなお話だ。
 それでもわたしは、背後に近づく滑走するスケートボードのウィールの音に、弾かれたように振り返る。照れと不満がありありと噴出しているその色は、彼の気持ちを詮索する必要性がないことを示していて笑えてくる。
 青くさくて、その青さが目にしみるよう。