05

Guns are too quick.

 明け方、夢の中で出会ったさんの影をぼんやりと追うのをやめ、ベッドからにじり出て洗面所を経由して冷蔵庫へ向かう。ミネラルウォーターのペットボトルを引っこ抜いて部屋に戻り、開きっぱなしのノートパソコンのキーボードを叩き、英数字のパスワードを入力した。寝不足か二日酔いか、頭と胃が普段と違う痛みをアピールしていた。
 焼けたアスファルトに水を撒いても、一瞬で乾く。それくらいのスピード感で専門学生一年目の夏休みが半分以上過ぎた。さんはこの夏を日本以外で満喫していて、今朝───あっちは夜だけど───赴任地に戻っているはずだ。
 てっきり、出国後すぐの年末年始にいちど帰ってくるのだとばかり思っていたが、そんなにお休みが長くないのよねぇとさんは画面越し、眠たげな目をぱちぱちとさせながらマグカップを口につけていた。夏は帰国しようと思うけど、とカレンダーをめくっていたのに、せっかくだからと、近場を旅行することにしたらしい。

 バイトばっか入れて学業がおろそかになったら意味がねぇ。勉強は何も学校にいる間だけにするもんじゃねーんだと、兄貴は大学はおろか専門にも行ったことがないのに知ったような口をきいた。

「それをさんも望んでないと思う」

 それ、というのは俺が学業ではなく、さんに会いに行くための小銭稼ぎに躍起になることだ。
 それは、そのとおりだと思った。なんか兄貴に代弁されるのは癪だったけど。けど、まぁ同じように思ったので、学校でパソコンや参考書に向かっていない時間も学ぶことをやめなかった。つまり、アルバイトに精を出す時間はないということだ。
 勉強をしたからといって、知識を得たからといって、かならずしも仕事にありつけ、さらには仕事が”できる”わけでもないのだと、情けない顔をしていたのは独歩だった。
 身につけたことを現場で発揮できるようにする必要があるという。先生のツテと俺自身のコネを使って、インターンシップのような形でいくつかの会社にお世話になることができている。専門学生に与えられた就職活動までの時間はひどく短い。大学生が三年生まで遊べるとして、二年しか学校に通わない俺らは一年目から、常に未来への不安と覚悟と隣り合わせだ。

 そんなわけで理由は異なれど、再会の日を先延ばしにしてきた俺たちは、どちらも会いたいなどと無責任なことばを口にすることはなく、ほとんど一年が経過していた。 
 アプリを起動して通話ボタンをクリックすれば、デスクライトがさんの左頬を夕焼けのように照らしている。いつもと同じ景色なのにどきりとする。それを気取られないように、おはよう、こんばんは、とたがいに真逆の挨拶を交わせば、なんだかいつもに増して気怠げねと笑うさんがいた。そんなことねぇとかなんとか欠伸を噛み殺しながら誤魔化した。さんは首を傾げながらも、朝が弱いのはいつものことかと、それ以上なんの確証もないことを追及することはしなかった。

「ところで、サンクスギビングに帰ることにしたよ」










 さて、昨晩の話をしたいと思う。
 勉学や仕事に励む間、俺は女と遊ばないということもない。男女という性別でくくるなんて時代錯誤だろうが、ここではあえて異性であること───さんと同じ性別であること───を強調したく、人類を男女の二種類にわけるとする。
 そもそも俺は女性を毛嫌いしていたわけでもなく、よくわからない生き物だとは思っていたが極端に避けていたわけでもないので、人並みに時間をともにできる女友だちはいるのだ。それで、昨日の夜は古くからの女友だち───俺とさんの関係を”恋人同士”だと認めて話をしてくれる数少ない友人のひとり───とチェーン店の居酒屋で焼き鳥を頬張っていた。

「マジで童貞のまま、その時を迎えんの?」

 そう言って友人は深刻な表情で、二、三杯目のレモンサワーを飲んでいた(未成年の飲酒は法律で禁じられている)。
 その時というのは、さんと会えた時を指し、それは即ち男女の関係になる時とイコールではないだろうか、歳上の経験豊富なお姉さんに対しておまえはどう挑むのか、大丈夫なのか、ということらしかった。
 兄貴や独歩への慣れた対応。贔屓目はつぶっても清潔感ある容姿。確実に、ひとりはいる元カレが、ひとりであると考えるのは現実味がなさすぎる。だから、それはまあ、俺も考えないこともなかった。比べられるのは癪に触る。
 俺がコークハイの入ったジョッキを五、六杯分空にしたあと、俺の手を黙って引っ張る友人に、行先を尋ねることなく着いて行った。俺もバカではないからだ!

 どうせ脱ぐなら着なくていいのでは、とふたたび袖を通そうとしたシャツを握って脱衣所の鏡の前にうつる自分の上半身を数刻ながめてから、引き戸に手をかけた。べつにこれくらい、見られたことがあったはずだ。プールの授業とか。制服とジャージを着替えるときとか。あったかなかったか記憶にないくらい、小さなこと。
 それなのにベッドサイドの電球色だけが照らす小さなワンルームの部屋は、それを意味あり気で仰々しいもののようにする。頬が湯のせいかアルコールのせいか、どちらもか、上気していることがわかる距離で、友人の手が俺の腕を撫ぜる。俺の顔を真下からうるむ瞳が見上げるのをみていた。
 促されるように彼女の肩に両手を置く。キャミソールのワンピースの胸元にはぽつんとふたつの突起が触って欲しそうに突き出していたが、代わりに細い二本の紐をそっとつまみ上げて、肩をなぞる。それぞれ二の腕を通過していき、露わになるふくらみから目をそらすようにして床に向けながら確認した、程よい肉付きの太腿ときゅっと引き締まった足首はスローモーションのようにみえた。






「そういうの、いちばん女子のプライドが傷つくやつじゃんか」

 青白い顔でアパートの扉を叩いた俺をなだめる高校の同級生は、呆れているのだということを、惜しみないため息と眉間に寄せる皺で示していた。
 気がついたときには、文字どおり俺は逃げ出していた。床に放っていた洋服一式とカバンを引っ掴んでスニーカーに足を突っ込んだ勢いで扉をあけ、エレベーターを降り路地を走り抜け、信号で止まって、そこでやっと踏みつけたままだった踵を正した。

「あいつはずっと、二郎のことすきだったろ」

 ホラー映画よりよっぽど怖いことのように思えた。開いた口がだらしなく塞がらなかった。訂正しよう、俺はとんだバカだったんだ。









 で、サンクスギビングって、何だ? 
 また日程がはっきりしたら連絡するね、と通話を終えたあとに、聞き慣れない単語をスマートフォンで検索しながらリビングへ向かう。
 朝食をテーブルに並べていた兄貴と三郎に、11月あたりにさんがこっち来るらしいから泊めていいかと確認すれば、

「いや……ダメだろ」
「二郎、バカなの?」

 上と下の兄弟は口を揃えて俺の要望に対して否定的なことばを述べた。トーストにのせられている目玉焼きの黄身すらも、俺をバカにする目をしているようにみえてきて、うんざりとした。

「やっぱり……なんか、反対なのか? 会いたくない?」
「……そうじゃない」
「………………そりゃ、おまえは海外に行くだけの金はないかもしれないけど、それなりにいいホテル取ってやるくらいの金はあるだろ」

 たっぷりの間をもってして否定の理由を述べる三郎は数時間前にも見た芝居がかった呆れた様子の同級生と重なる。

「だな。もう二郎だって、高校生じゃねぇんだ」
「どっちでもいいけどさ。ま、うちに来るってならまた寿司でも頼もうよ」




 さんから、コート持ってくるの忘れたと搭乗する飛行機の離陸予定時刻の一時間前にメッセージが入っていた。
 三郎は新しいの買ってやれよとキレていたが、三郎が昔着ていたショートコートを拝借することにした。生憎、さんの趣味がわからないのだ。三郎には窮屈すぎるそれも、さんには大きすぎるだろう。
 空港で黄色いコートを手渡したならロングコートのように彼女をつつんで、さんはゆっくりと微笑む。なにも、素肌なんてみる必要はない。その姿を想像するだけで、今にも走り出したいような気持ちになるんだ。