04
You can’t cross the sea by staring.
焼肉を食べに行った。社会人は1枚いくら、のような店に行きたいだろうにお寿司のお礼だと食べ放題の店に連れて行ってくれた。さんはタン塩をよく食べた。映画を観に行った。アクション映画は友だちと観に行くものではないだろうかと思ったからちょっと落ち込んだ。でも翌週いっしょにヒューマンドラマも観に行った。ふたりで散々泣いた。ハンカチを貸してくれた。あげるわ、とさんはしかめっ面をしていたけど、翌週に洗って返した。
さんが近所の気になるけど行けていない喫茶店があると言うのでそこへ足を運んだ。静かで、人目を気にしなくていいところがよかった。俺の活動圏内とはえらい違いだった。アイスコーヒーのうまさはまだわからないが、チーズケーキはおいしかった。
サッカーの小さい試合を観に来てくれた。アイドルのライブに持ち込まれるようなうちわをさんと兄貴が掲げていたので、ほんとうに勘弁してほしくて、自分でもびっくりするくらい大きなため息がでた。せめて、せめてラップバトルのときとかにしてくれ。父母参観かよ。父母参観でもそんなことはしないし、そもそも父母ではない。心外だ。でも、すきな人たちが自分を見てくれているというのはしあわせなことだと思った。
お花見をした。兄貴と三郎と、さんの友だちと。金曜の夜にさんとライトアップされた桜を見て歩いて、こうしているのもいいけど、それぞれのすきな人たち、みんなと見られたらもっと最高だと思ってどちらからともなく誘った。さんの友だちは俺のことをなんだと聞いていたのだろうか。酔っ払っている人間になら軽く聞けるのではないかと考えたけど、ついぞ尋ねられなかった。
釣り堀に行った。釣りというものをやったことがないとさんが言ったから、独歩に頼んだ。俺も、なかったからだ。意外と糸を垂らしてじっと待つというのは、いろんなことを整理できる時間が無理やりつくれていいなと思った。その時間を無視して独歩とさんは仕事の話を止めどなくしていた。業種や職種が違っても社会人同士ならわかりあえるのだろうか。さんにはやはり、などと思ったがそれ以上考えることはやめた。
そういうわけで、金曜の夜は一晩の休息を挟み、土曜の昼から夜に延長されることも、多々あった。
今日こそ言おう、と腹をくくっていたわけではなかった。そもそも、言うことが目的になるのは、図々しく、烏滸がましく、相手の都合を考えない、ワガママの極みだと思っていたから。
大きな公園のなかにある美術館の展示を見てから併設されているカフェのテラス席についた。アイスコーヒーでいいですかと確認する俺にハンカチで額の汗を拭いながらさんは肯定と感謝を述べた。白いタオル生地にひとつだけ刺繍されているイルカに、俺は見覚えがあった。映画を観てありとあらゆる水を拭かせてもらった、あの日のそれだった。
カウンターから注文の品が出てくるあいだ、ぼんやりと外に向かって頬杖をついているさんを見ていた。ついさっきまで鑑賞していた絵画のごとく。なんの脈絡もなくふとこちらへ向けられた彼女の視線に、俺はたじろいて、そんな俺をみて、さんはすぐに目をそらした。
それから席に戻ってグラスを渡して。ストローをくわえているさんに「すきです」と言った。やっぱり、ありがとうとか、ごめんなさいとか、返事がほしいとは思っていなくて、なんとなく今、思った気持ちを渡したいと思った。こう、鬼気迫るような感覚とはほど遠い、ふってくる桜のはなびらのひとつくらいの、身軽さだった。そしたらさんは顔色ひとつ変えずに「うん、わたしもすきだよ」と口を離してからそう言った。「え? マジで?」「うん」。なんどか同じように確認したけど、さんはなんども同じ返答をした。
「あ、すきだと言ったから、言われたからといって、次のステップには自動的に進むわけではないのだ」ということに、しばらくの期間が経ってやっと気が付いた。そのころからさんは仕事が忙しいと言い出して、金曜の夜に歩くこともままならず、そうして過ぎていく時間は「すきにだっていろいろ種類があるではないか」という可能性を見出してしまうにはじゅうぶんだった。そうか、俺はまた約束を忘れたのだと頭を抱えた。
男と女がなにかを求めて出かけるといえば、海。という、なんのひねりもないイメージから遠出を提案すれば、それならエノシマに行きたい、というさんのリクエストに応えることにした。
すっかり日差しは秋めいてきていて、日の高い時間帯でも汗ばむこともほとんどなくなっていた。その分なおさら、海の風がぺたりと肌にくっつくようだった。
「初めて会った日もそのワンピースじゃなかったですか?」
エノシマ駅で落ち合ったさんの水色に白のストライプのシャツワンピースをさせば、
「……そうだったっけ?」
「あれ? あ、無地のワンピースでしたっけ? ──べつに、なんでもかわいいですけど」
思い違いだっただろうか。だれかほかの人と勘違いしていたなら俺のひとめ惚れというのも信用ならない。頭をかけば、さんは俺を責めることもなく、揶揄うこともなく、スマートフォンでグーグルマップを開いて水族館への道をたしかめていた。
せめてなけなしの勇気をふりしぼって出しているほめことばに、照れてみせてくれたっていいんだけど。
チケット代を出すとさんは言ったが、出がけに兄貴にいつぞやの相談料の入った茶封筒を渡されていた。兄貴は二回目のそれを計上していなかったそうだ。それは内緒でカッコつけさせてもらうことにすると、さんは食い下がることなくありがとう、とはにかんだ。……そう、そう、そういう顔。
もうすぐイルカショーがあると館内放送が流れたけれど、「ここのショーは、なんか趣味に合わないんだよなあ」と足を運ぼうとしなかった。来たことがあるのだ。両親が連れて来た水族館でイルカショーを観て「趣味に合わない」という感想をいだく幼児は可愛げのかけらもない。だからきっと、昔の男だろう。あえてそんな言い草をしたのなら、かなり意地の悪い人だ。
代わりに、さんはくらげと、カタクチイワシと、カワウソの展示の前で長く立ち止まっていた。俺は水族館のいきものよりも、さんのうしろ姿ばかりみていた。彼女にこそ鑑賞料をお支払いすべきだったかもしれない。
しらす丼──カタクチイワシの稚魚のたっぷりのった丼──を食べてから浜辺へ向かった。引く波に駆け寄り、寄る波に後退りするさんはさながら子どものようだった。実際、子どもたちもはだしで同じことをくりかえしてきゃっきゃと声を上げている。彼女にはもちろん、そこまでの覇気はなく、いたって単調な動作だった。
波にのるサーファー。渋滞する車。海から流れる風でさびついた自転車。外に干されない洗濯物。このあたりで暮らすのは自由そうにみえて、結構不自由なこともあるのかもしれない。ひとしきり往来をくりかえしてしまって満足したさんは、階段の一番下に腰掛けた。子どもとはちがって、飽きるのは早いのだ。
となりに座って、あたりを見渡せば同じように海に向かって座っているカップルが数組見られたけれど、スマホをいじりながらそうしている男女をみて、なぜそんなにもったいない時間の過ごし方をするのかと、無関係の俺が怒りそうになる。
今このとき、横に大切な人がいるのに、どうしてこの時間を目に、耳に、焼き付けることをしないのだろう。どうしてこのときが無限にあると錯覚するのだろう。努力なくずっと続くものなどない。だから、それでも俺は、さんとこうして過ごす日々を、日常にしたかった。
「俺、高校卒業したら、働くつもりなんです」
高校を卒業したら、兄貴といっしょに萬屋をやる。そりゃ、今だって手伝いをしているけど、本腰をいれて、それ一本でやるつもりだった。
ぼうっときらめく海をながめていたさんは俺のことばに、目線を動かした。その目は笑っているのではないかと一瞬想像したけど、彼女の瞳は懐疑的な色を浮かべていた。
「二郎くんはなにか、勉強したいことっていうか、やりたいことが、あるのだと思っていた」
「……あるよ? さんに釣り合う男になることが、やりたいことだ」
そう、そのために俺は、学生であることをはやくやめたかった。社会人としてすぐにでもお金を稼げるようになりたかった。社会的な地位と信頼がほしかった。
「あのね、わたし、転勤が決まったの」
返ってきたことばは、俺が想定していたものの一覧のなかにはないものだった。
「えっ、事務員でしょ!?」
独歩やその他の社会人、ネットの情報。そういったものから得た知識のひとつとして、一般的な事務員には転勤はない、という事項があったはずだった。ふうん、じゃあさんは転職でもしない限り、イケブクロのあのオフィスで働いているんだな、となんとなく安堵したことをおぼえている。
「最近忙しいと言ったでしょ。ずっと研修で、営業に正式に転属したの。去年出してた異動願いが今更通った形でね」
ふと思い出す。だからあの釣りの日も、独歩と話がいろいろとあったのか。
「それにびっくり、新設される海外支社へ飛ばされることになった」
「か、海外!?」
いつから、どこに、いつまで、なんで、どうして。
子どものころですらそんなにわめいたことはないのではないかというほど、矢継ぎ早に質問をした。さんは母親でもそんなにていねいには説明しないのではないかというほど、一つひとつ答えた。彼女のなかでは、とっくに整理のついた話のようだった。俺になんの相談もなしで。
約束のないふたりに、それを強請る権利はないのだろう。
「ねえ、確かにね、今でないとできないことってそんなになくてさ。落ち着いたらやろうとか、後回しにすることって、たしかにできるんだけど。若いうちのパワーをね、自分のためにしっかり使うことをやっぱりわたしはおすすめしたいんだよ」
オバサンみたいなこと言って恥ずかしいけど、とその羞恥をかき消そうとするかのようにさんは足をぱたぱたと動かし、「もしも、したいことがあるのなら、わたしに教えてほしいなあ」。そう言って顔をかたむけた。
「……本当は、デザイン系の勉強を、したい気持ちが、あるんだ」
「うん」
「今から芸大は考えられないし専門かな、って」
「そう? 浪人してもいいかもよ?」
「でも、あと二年、四年、学生をするなんて」
それでは、あなたのことを正々堂々、一方的にただすきだと伝えるのではなく、そばにいたいと、いてほしいと、そう言える権利を俺がもてるのはいつになる?
「いつでも全力な二郎くんでなくなってしまったら、そんなの二郎くんじゃないよ」
「さん、おれ、さんがすきなんだ、本当に、一目惚れだった、知れば知るほどすきになった、どうしても、すきなんだよ、伝わってる?」
「うん。わたしも、すきだよ」
そのすきは、俺がほしい、すきなんだろうか? すき、だけど、すき、だけじゃ、だめなのだろうか。
勢いよく立ち上がったさんの湿った手のひらが俺の手首をにぎって、引く。その答えを示しているようにも思える彼女の手の熱さが自分の体内にも侵食してくるようで、のぼせそうだった。
そうだとして、その答えを今もらって、俺は、どうするべきなのだろうか。いや、どうしたいのだろうか。さんは、どうしてほしいのだろうか。
さんの細い腕では俺の体は持ち上がらなくて、引かれた腕が、ただいっぱいに伸びる。考えても、優等生のような回答は思いつかなかった。
どれくらい黙っていたかわからない、でも、そのあいださんの手は汗ばんだまま、俺の手首から甲をとおって、そうして手のひらをつつんでいた。
「……待っててほしいんです」
近づくほどに遠くになって、遠くなるほどに近づく波はさながら自分たちのようではないか。俺がさんへと向けたことばが、潮風にまじってべたつく。貝殻を片耳に当てたときのような、ざわめきが頭から離れない。