03

A storm in a teacup.

 土曜日、二郎はシンジュクにいた。萬屋ヤマダに入った調査依頼の足を使う手伝いを二郎は買って出たのだった。
 昼過ぎには慣れない土地でグーグルマップに頼りっきりだったスマートフォンはその電源を落としていた。てっきりバッテリーをバックパックに放りこんだとばかり思い込んでいたが、それは思い違いであった。そもそも半分くらいしか充電をしていなかったことも含め、二郎は自分の準備不足を悔いた。
 デパートで小休止をしていたところ、観音坂独歩に出くわしたのはラッキーだった。今度は自分の引きのよさに感謝したのは言うまでもない。デパ地下のちょっといいお惣菜を買おうとしていた独歩の会計を待ち──自分の分のローストビーフを買ってもらうことも忘れなかった──独歩と一二三が暮らすマンションへ同行した。
 充電器にスマートフォンを突き刺してテーブルに置いてから、二郎はふとソファに脱ぎ捨てられているスーツに目をやった。ぎらぎらとした一二三のものではない独歩のくたびれたそれを見て、二郎はのことを思い出す。
 20代後半の社会人女性に関する明確な像を二郎はもたなかったが、性別こそ異れど、目の前でビニール袋からプラスチックのケースを取り出している独歩は、それを自分よりはよく知っていることに気が付いた。
 そういうわけで二郎は割り箸を取りながら、独歩にこの夏から今までの話を駆け足ですることになった。

「というわけで、どうしたら、頼ってもらえると思う!?」
「相談相手、間違ってない?」

 独歩はアボカドの入ったサラダを咀嚼しながら困惑の表情を浮かべた。頼られる存在からはほど遠い存在であることを独歩は社内の自分の立ち位置を再確認するまでもなく自覚していた。

「俺の周りのまっとうな社会人は独歩くらいだし、それに独歩なら、ちゃんと話をしてくれると思って」

 あまりにもまっすぐな青臭い感情が突き刺さり独歩はたじろいた。
 イケブクロの社会人女性たちと、二郎はじゅうぶんに交流があるはずだった。でも、彼女たちではなく自分への信頼のほうが厚いのだと理解させられてしまえば、独歩も期待に沿えるかはわからないけど、と前置きをしつつ先輩風をふかせてやってもいいかと思ってしまうのだった。

「その人のこと、すきなんだな」
「す……?」

 ところが、目の前の高校生は最初の最初で躓いた。

「異性として、すきなんだろ?」
「い、す、……え?」

 割り箸から肉を落とす二郎に、独歩はため息をもらさずにはいられなかった。吐いた息と同時に飲み物を出していなかったことに気がつき独歩はテーブルから離れ、冷蔵庫をめざす。
 二郎の表情は見ずとも、想像ができた。一二三によってつくり置いてある麦茶のピッチャーを冷蔵庫から取り出し、乾かしてあったグラスをふたつ両手でテーブルまで運んだ。

「こっちが え? だよ。じゃあなんのチャンスを待ってたっていうんだ」
「や……だから、頼ってもらえる存在になるチャンス?」

 トポトポとグラスを麦茶で埋めて二郎に差し出すと、二郎は一気に飲み干してしまう。返されたグラスに数秒前と同様に液体を注いだ。

「いやほらさ、頭をなでたいとか、手をつなぎたいとか。今何してるかなとか、何を観ても読んでもその人を重ねてしまうとか。ないの?」

 なぜわかるのかと言わんばかりに口をぱくぱくと動かし混乱を示す二郎を放って唐揚げを口に放り込む。そうしているうちに二郎も落ち着きを取り戻す。

「二郎くんの嘘をわかっていながらも、一緒に駅まで歩いてくれるんだよな」
「まあ、以来ショートメールが来て断られることもあるけどな」

 連絡してなんて言わなきゃよかった! とテーブルを叩く二郎。遅くまでを待っていたあの日以降、から『残業』『有給休暇』『用事ある』と短いメッセージが届くようになっていた。

「そりゃ、二郎くんだって何ヶ月もずっと予定がないなんてことないだろ。その人だって、どっかで飲んで」
「あーーー! 俺、さんにほかの男と飲みに行かれるとかマジでいやだ!」
「うん。だからその可能性が高い金曜日を邪魔するような行動をしてたんだろ?」
「他の人に頼られるのがいやだったんだよ。話してくれるなら、俺がよくて……」

 彼はアニメや漫画に精通しているのに、それが自分の身に起こることを想定していなかったのだろう。クラスメイトの浮ついた話も、自分には関係のないものと決め込んでいたのだろう。なんということだ。
 母親に怒られた子どものようにしゅんと肩をすくめる二郎に、独歩は唐揚げの入ったパックを押しやった。

「なんにしてもその、さ、」
「あっ、さんとか馴れ馴れしく呼ぶなよ!」
「はいはい……その人は、未成年の男子に自分からは何もできないよね。世間体というもんがあるだろ」
「正直、なんでか、年齢について深く考えてなかった」
「かといって、二郎くんからガツガツ行っても、君は有名人だし、人目も気になるだろうし」

 二郎はに信頼してもらうにしろ、好意を寄せてもらうにしろ、どうすればいいかわからなかったのは、自分にそういった経験がないからだと思っていた。違うのだ。ふたりの間の年齢のギャップについて自覚はなかったにしても、感覚的に薄々理解していたのだ。

「その人がそろそろ結婚したいなら、二郎くんだと若すぎるというのが一般的な意見じゃない」
「けっこん」

 厳密な漢字は出てこなかったかもしれないが二郎には血痕という字面が浮かんでいたかもしれない。

「子どもとかも考えると30までにはしたいってのは一般論だし。前の人と別れた理由も、もしかしたら関係しているかもしれないし、そういうところを含めて、その人の考え方……」

 箸の進んでいない二郎に気が付いて、独歩は途中で話を切った。
 独歩は二郎の力になりたいとは思っていたが、話を聞いた限りで勝算については度外視することに決めていた。いくら普通の高校生とは違う二郎であっても、タイミングが悪すぎると考えていたからだった。
 テーブルの上のスマートフォンをタップする二郎に、やっぱりありきたりなことしか言えなかったなと独歩は暗い思考に飲み込まれかけた。

「んなっ! どっぽ! 電話! が!」

 なに、と突き出された画面には不在着信1件のテキストが表示されていた。独歩がそれを確認するまでもなく、その発信元がであることはその慌てようから見て取れた。今かけてもいいかと騒ぐ二郎に許可を出せば二郎はスピーカーのボタンをためらいなくタップした。

『……もしもし』
「どうしたんですか!? 何かありましたか!? 大丈夫ですか!?」
『えっ、いや……大丈夫、何もない』
「何もないって、何!?」
『何かないといけない? わたしは元気だとダメなの?』
「そ、そうじゃない!」
『招待券をもらったからね、美術館へ行かないかと思って電話したの。もう、行ってきてしまったけど』
「なん! 美術館!? 昨日帰りに誘ってくれたらよかった!」
『いやぁ、なんか…………起きてみないと体力が残っているかわからないもので』
「おっれは! さんとデートがしたいですけど!? いや、金曜の夜数十分もデートしていると思ってますけど!?」
『二郎くんはデートをなんだと思っているの……』
「ねえ、さんは、はやく結婚したいと思っている人!?」
『えっ!? まあ、……すでにはやくはないかな』
「わかりました!」
『何がわかっ……』
「あと、前の人とはどうして別れたんですか!?」
『……二郎くんには、言わない』
「えっ なん」
『それじゃ、また金曜日ね』

 ぷっと途切れた通話に二郎はしばらく画面を見つめていた。

「すきです! って叫び出すかと思ったけど、まあ、よかった、よかった」
「俺には話せないって言われたのに、か」
「それは……話したくないんじゃないのかな」
「一緒じゃねーか!」
「違うよ。全然、違うと思う」

 独歩は食い気味に否定をした。

「何でもあけすけに話すことが信頼でも、愛情でも、ないんだよ」

 二郎の腑に落ちる表現だとは思わなかったが、独歩は思ったことをそのまま述べた。
 だいたい、「また金曜日」と、彼女も当然のように言ってくれているではないか。それこそが君の求めている言葉のひとつなのではと独歩は二郎の肩を揺さぶりたくなる気持ちを抑えた。

「俺は、がんばっていいのか? 何も持っていない、高校生だけど」
「年齢なんて関係ない」
「それが問題だって言ったじゃねーか!」
「悪い悪い。変えられないものを課題に上げるのはナシだな。それに、二郎くんはたくさんのものを持っているよ」

 どんなときも、どんなところにもぶつかっていけるのが二郎くんの持ち味だろ。
 そう独歩が笑えば二郎は曖昧に笑い返して、やけにきれいに揃えられていた割り箸を取った。







 とりあえず食事でも誘ってみれば、と独歩にアドバイスをされた二郎は考えた。社会人はどこでご飯を食べるのだろうか? それに、独歩の言うとおり、多少目立つ高校生の自分と夜にふたりでが出歩いてくれるとは二郎にも思えなかった。

「来週の金曜日、うちでご飯食べませんか?」

 食事をするというミッションに気を取られ、それではもはやデートではなくないということに二郎が気がつくのはもう少し後の話である。
 一郎と三郎は依頼人であった女の来訪予定を聞き、目を見合わせた。三郎は「何で二郎はこんなにバカなんだろう」と天を仰ぎ、一郎は「んじゃあ、出前でも取ろうか」との好きな食べ物を二郎に問うた。二郎は「寿司!」と張り切って答えた。

 どうせ二郎くんの家に行くのだから迎えは結構だとは断りを入れたがそれでも二郎はデッキを転がした。だってふたりでいられるのは帰り道だけだから、と思ってから、自分の失敗に行き当たった。時すでにお寿──失礼、遅し。二郎は諦めてと自宅へと向かった。
 まだ出前の寿司は届いていないと一郎は告げて、への挨拶もそこそこに酒は飲むのかと尋ねた。がビールがすきですよと笑えば、酒、買ってくるわと片手を上げて二郎にを二階に上げるように促した。

「俺が買ってくるよ!」
「いや、無理じゃん。未成年」

 事務所のソファでふんぞり返っていた三郎の声が飛んできて、ぐう、と二郎がうなる。

「一郎くん、わたしも行くよ」
「客は座ってろよ!」

 が再度外へ出ようと体をひるがえすのを二郎が止めるが「ま、すきな銘柄もあるだろーし、一緒に行ってくるわ」。一郎とは連れ立って出て行った。

「……寿司、まだかな」

 そう唱えるようにつぶやきながら、二郎はデッキを立てかけて三郎の向かいのソファーにどさりと腰掛ける。顎をあげてしばらくそれを見ていた三郎は心底愉快な様子で、

「あのさあ、そんな顔するくらいなら、追いかければ」

と、提案をした。

「お前が買えなくてもふたりが買えるんだから、そもそもさんと行けばよかったんだよ」

 少しの間のあと、「つまみ食いすんなよ!」との捨て台詞を吐いて、二郎は再度デッキを握った。
 おそらくはいちばん近いコンビニに向かっただろうと二郎はその道を行き、想定通り、コンビニの自動ドアをくぐる前にふたりの背中を捉えた。ガーガーとうるさいウィールがまわる音にふたりが振り返ったのも、ほとんど同時だった。
 ふたりの前にブレーキをかけて止まるやいなや、

「べっつに! 俺が買わなきゃ着いてってもいいだろ!」

 叫ぶ二郎にバカだなと一郎が鼻を鳴らした。