02
Only interpretations.
頼まれているわけでも、許しをもらっているわけでも、約束をしているわけでもない。それでもこの三か月の積み重ねは、金曜日イコールさんと会える日だということを自分のスケジュールに定着させた。息を切らして追いかけ、何かあったら連絡して欲しいとズボンのポケットからくしゃくしゃになった名刺を差し出したら、受け取る素ぶりを見せることもなく「持ってるよ。お兄さんの」と一蹴された初夏はつい最近のようで遠くのようだ。考えなしの俺は数秒悩んで彼女が右手に掴んでいたスマートフォンを奪い取って自分の携帯番号をタップしてワンコール鳴らした。
当然、さんから連絡はなかった。それもそうだ。ざっと10ほど年下の男に頼ろうなんて考える女性などラノベの世界でもなかなかいないのではないか。
こちらから電話をしてもいいけど知らない番号には出ないだろう。電話番号を登録してくれている可能性を信じる勇気はなかった。
そういうわけで手段を間違えた俺は、兄貴が依頼を受けた際の書類に記載されている住所に押しかけるのは気が引けた──そもそも兄貴がそれを許しはしないだろう──ので、勤務先を調べた。十分怒られそうな話だが、とにかく彼女の生存を確認したかった。
数日で判明したさんの働く会社は幸いなことにイケブクロにあった。
金曜日の学校終わり、スケボーを蹴ってその周辺に向かった。事務職の彼女はほとんど定刻通りに仕事が終わるようで、十八時には正面出入り口の自動ドアが開いて、彼女が生きていることを確認できた。
まさか死んでいるのではないかと本気で心配しているわけではなかった。ただひと目、もういちど、その顔を見たかった。その気持ちを包んで隠す、言い訳だった。
その証拠に、俺は我慢がきかず、結局偶然を装って彼女に声までかけた。金曜はスケートパークでスケボーをしているから、と彼女のオフィスが入っている建物の目と鼻の先の場所を指差し言葉をつなぐ俺に、彼女は最初こそストーカーかと蔑んだ目を向けていたが今は暗黙の了解で金曜日の仕事帰りの彼女と駅まで歩くことができるようになった。
金曜日にイケブクロで寄り道はしないのか、じつは駅から自宅ではないところに向かっているのか、まだ友人と騒ぐ気にならないのか──クラスの女子が失恋したときは騒ぎたい派とそっとしといてほしい派に分かれるもんだと話していた──いずれにしてもそれは俺にとって都合のいいことだった。
どうにかこうにか、「さん」から「さん」と呼ぶまでに至ったことは誰かにほめてもらいたい。逆にいえば、それくらいしかほめられそうなことはない。
三か月という期間はカーディガンが欲しい夜もまれにあるほどに季節を変えた。
ガードレールにもたれかかって飾りのデッキを片足で前後にごろごろしながら今夜も彼女を待っていた。しかし、待てど暮らせど、全然出てこない。もしかして、もう帰ってしまったのだろうか。今日は休みなのだろうか。約束のないふたりに、この状況を責める資格はない。
二軒目に向かうのであろう男女六人組がゲラゲラと笑いながら前を通って行く。グループラインをつくろう、などと聞こえるので合コン帰りなのかもしれない。「あーっ! ばすたーぶろすのー!」「こんなところでなにしてるのー」。過ぎ去って行くと思った集団はめざとく俺をみつけて騒ぎ始める。その声は俺の存在に気が付いていなかった普段交流のない人たちをも呼び寄せた。「握手してくださーい!」「写真撮ってー!」。
キャップのツバを片手で持ちながら次の行動を考えることにする。いつもなら笑顔で対応できるそのリクエストにも曖昧な表情になってしまう自分の不器用さに嫌気がさす。
「帰るよ」
凛とした声が雑音をくぐりぬけて鼓膜に届いた。と同時にまるで母猫が子猫を運ぶかのように道路側からTシャツの首元をつかまれ、後ろに仰け反る。あわてて振り返ればそこにはぶすっとした表情をきめこんださんがいた。
デッキをひっつかんでガードレールを飛び越え彼女の隣に着地すれば、季節のうつろいに合わせてチョイスされたのだろう、少し重めのバニラの香りがした。
彼女は俺の手からデッキをひったくると放り投げて右足を乗せてから左足で何度か地面を蹴った。俺はしばらくその後ろを小走りで追うことになる。彼女の向かう先は最寄りの駅ではないようだった。
「なんでこんなに遅いんですか」
「繁忙期だから」
「はんぼうき……」
人通りが少ない路地に入って、さんはブレーキをかけた流れでピックアップし、俺にデッキを戻した。忙しい時期ってことだと彼女は呆れたように笑った。スケボーできんのかい! と俺が突っ込むより早く、また不機嫌そうな顔で「どうしてこんな遅くまで」と俺に尋ねた。
それはどうとでも答えられる質問だった。スケボーに夢中になっちゃって、とか、今日は寄るところがあったから、とか。言い訳を並べたら、さんは安心するのだろうか。待っていたから、会いたかったから、とか。ひとりで抱えることの難しくなってきた気持ちを具体的にして渡したら、さんは困るのだろうか。
「電話、してくださいよ」
番号登録してくれてるなら、ですけど。
尻すぼみになる声をなんとか負けないように耐える。彼女は俺の手元をぼんやりと見つめながら、
「……今日はいないかもしれないと思ったから」
そしてじっと俺の目を見据えて、
「今日はいないかもって、来週はいないかもって、いつも思ってる」
ふふ、といたずらっぽい笑みを浮かべた。
一歩二歩とまたさんは歩き始める。もうすぐ、いつもとは路線の違う地下鉄の駅につづく出入り口の看板が見えてくる。定期圏外だけどここからでも帰れるからと彼女は控えめに手を振って今日の終わりを告げる。
金曜日の夜を俺に使わせ、新しい出会いの芽、もしくはすでに出会っている人との関係を深める機会を週一日分地道に潰している。そんなわがままにこうして付き合ってくれているのは、俺にもチャンスがあると考えてもいいのだろうか。
「また、来週!」
張った声に振り返る彼女の顔は背後の街灯が逆光になってうかがい知れない。それでも歯切れ悪く返ってきた声は困惑ではなく、恥じらいの色だった。
高校生の俺にはじゅうぶんすぎるほどの夜に、地面に転がしたデッキを思いっきり漕ぎ出した。