01
Those who hide can find.
チャイムが鳴り終わるやいなやバタバタと駆け寄ってきた女子たちから順に弁当を受け取る。ただ学校にいてぼうっとしているだけでなぜだかご褒美がもらえる不思議。罪悪感を覚えなくはない。彼女たちが見返りを求めず──そもそも彼女たちの求めるお返しとはなんなのだろう──自主的に行なっていることなのだ。タダでうまくて健康に気を使った弁当を食べられることをもう少し打算的に考えてもいいのかもしれない。弁当のひとつの薄い青の包みを開けようかと結び目に手を伸ばしたところで、視界に影がちらついた。
「二郎くんは、人殺しも請け負ってくれるの?」
「……俺は、仕事を請けないけど」
萬屋ヤマダへの依頼を指していることは察することはできていたが、荒っぽい単語に一線を引いた。顔をあげればクラスメイトではない女性がそこにいて、思わず息をのんだ。女の子とは言い難い。女性だった。
そんな人がなぜ高校の教室にいる? 新任の先生? 誰かの保護者? 明らかに場違いだ。
周囲を見渡せばそこは見慣れた教室ではなく、見慣れた西口公園であった。あれ、と状況を飲み込む前に向かい合って立っている女性が白地に水色のストライプ柄のシャツワンピースを捲り上げるので思わず目をそらす。好奇心から再度顔を戻せば太ももに巻きつけてあった黒いものに手をかけていた。
拳銃だ。
待て待て。どこでそんな物騒なモンを。咄嗟に俺は走り出した。
固い椅子からずり落ちそうになった。ドッと沸く教室の声に我に返る。
そりゃあ、夢だわな。
そうは納得しても念のため背中をさすってしまう程度にはやけにリアリティがあった。それでも一日の授業がすべて終わってしまったあとにはほとんどきれいに忘れてしまっていて、女性の顔などおぼろげにも思い出せない。ただ殺人の依頼についての問いかけの居心地の悪さだけは残っていた。
事務所兼自宅の階段を登りはじめて、事務所のドアが見えたと同時にひらいた。続いてふわりと茶色の長い髪の毛がゆれて水色の初夏らしさの溢れるワンピースが広がる。ふと風鈴にぶらさがっている短冊が連想された。
シャッターを切るように視線があったその女性はゆっくり会釈をする。当然ながら客人優先、踊り場で俺が登り切るのを待とうかという素ぶりを見せる女性に俺はできる限り左に寄って「お先にどうぞ」と声をかけた。「ありがとうございます」。
よく街中でも遭遇する男物の香水の香りがすれ違いにかすって思わず振り返った。その香りと女性の組み合わせの違和感はまるで夢で見たそれのようなものだった。どこかがおかしくて、どこか気になってしまうけど、突き詰めるまでもない、これが夢だったらスルーしてしまうような、ほんの少しの違和感だ。
開け放たれたままの扉の先には兄貴がいて「よお、おかえり」。ドアノブを内側に引っ張って、ドアを閉めた。
「兄貴、あの人」
「なんだ、知り合いか?」
「ひ、人殺しを依頼されなかった?」
ズコー、と効果音が聞こえてきそうな身体的リアクションを取った兄貴は深刻そうな顔でどうしたんだと大口をあけて笑った。
まさか夢で見た──もう顔も忘れてしまった──女性が人殺しについて聞いてきたからだとは言えず濁していれば、「とある男と女を別れさせて欲しいって言ってたぞ」と兄貴は依頼内容を口にした。
兄貴曰くあの女性はさんというらしい。依頼主である彼女は先日、好きな人ができたと言って自分を捨てた男が、その好きな人と晴れて結ばれたという話を風の噂で聞き、どうにも自分がいたたまれないので彼らの関係を壊して欲しいというわけで、この事務所のドアを叩いたという。
「大丈夫なの?」
「まあ、まずは女の素性を調べないとだが、寂雷さんに頼んで伊奘冉さんに協力してもらえれば、なんとかなるんじゃねえかな」
別れさせる方法を確認したわけではないんだけどな。
そうは思ったけれど、余計なことは発さずに自室へと引き上げることにした。
「それは、なかなか難しそう」
立ち聞きしていた依頼内容から思わず口をついて出てきてしまった一感想に俺は口を手で覆った。
「これが達成されたら、さんは幸せになるんすか?」
俺への牽制ののち、兄貴はひどくまっすぐな目を彼女に向けた。
男女の仲を引き裂くという依頼は遂行された。計算通りとても順調に、女は伊奘冉一二三に陥落し恋人を捨てた。それはそれは鮮やかな結果であった。
後始末が大変ではと危惧したが、当然彼はその女に付き合おうとか好きだとか言っているわけではないので始末も何もない。女はあくまでもただの客である。報告を受けたさんは安堵の表情を浮かべていたと兄貴は言っていたのだが「やっぱりよりを戻させてやって欲しい」と茶封筒を机に置きに来たのはそれから間も無くのことだった。
彼女は白いコーヒーカップに口をつけてから、
「別れてくれたら、なれると思った。でも、なれなかった。それなら、元に戻してあげようかと思って」
負けず劣らずの強い視線を兄貴に送る。
残酷なことを言う人だなと思った。今、兄貴と彼女の間にある紙幣を破いてテープでつなげたって、はい元通りとはならないだろう。それが、この人には想像できないらしい。白いカップの淵に赤い跡がじんわりにじむ。
「引き止めはしないんですね?」
「自分で決めねーと、意味ないと思うんで」
穏やかだけど熱のこもった声を兄貴は彼女に向けた。
「そうだね」
彼女はソファに両手をついてすくっと立ち上がった。机には茶封筒が置かれたままで兄貴が呼び止めるが「相談料よ」と片手を上げ、振り返らなかった。俺の前を横切る彼女からは紅茶のような香りがした。これはこの間とはちがって、彼女によく似合っていると感じた。
がちゃりとドアの閉まる音は何かを区切る象徴のようにも思うが、彼女に区切りがついたとは俺にはどうしても思えなかった。
ひとりで考えひとりで決めること、その決断を他人にゆだねないことが大事だと兄貴は言いたかったのだろう。でも本当にそれがすべてなのだろうか?
結論を出すためだけでなく、ただただ話を聞いてやれる人だって必要だろう。萬屋なんだ、話相手になる、という仕事内容でもいいではないか。そんなことは兄貴にならわかっているはずなのに、なぜそうしなかった? いや、それでも兄貴は自分で考えてもらうことに重きを置いたのだろう。きっと最初の依頼時にも同様に確認をしたのだ。そして彼女はその場で結論を出した。だから兄貴はその仕事を受けた。でも本当は、そのときから、彼女は誰かに引き止めて欲しかったのではないのだろうか。
動けば動くほど虚しくなることが、彼女にはわかっているのだろう。まさに今、そんな状態なんだと思う。でも、今の彼女は何もかも空をつかむような、手探りの状態でも、動かないと、止まっていると、怖いんだろう。何かに置いていかれる恐怖。誰にも必要とされていないのではという不安。自分の心のうちと闘って、疲れ、でももがいて、ひとつの解決策として彼らの不幸を願って行動し、自責の念にかられ、また動く。それを馬鹿げたことだと、俺にはどうしたって馬鹿にすることはできない。
泣かずに、喚かずに、ゆっくり、落ち着いて喋ることができるからといって、そこに混乱がないことにはならない。そもそも依頼の動機なんて言わなくったってよかったんだ。嘘だっていいんだ。それなのにきっと彼女は事実を箇条書きするみたいに話したんだ。もしかしたら、もっとひどいことがあったのかもしれない。そりゃ、そもそもこの話が嘘かもよと三郎なんかは茶化してくるかもしれない。でも、さわやかな洋服と香りを身にまとった彼女の上げた手は、かすかに震えていた。
俺に恋愛はわからない。なんでそんなことであんなに苦しんでしまうのかなんて、想像つかない。わからないことだらけだ。それでもはっきりしていることがある。咄嗟に俺は走り出した。