ヒロイン - 2

 講堂内の端に並べられたパイプ椅子に陣取った吹奏楽部の音出しが聴こえている。不規則で統一性のない音に乗って全校生徒がぞろぞろと講堂に流れ込んでいく。
 六月の壮行会。終業式も兼ねてくれればいいものをさすがに一か月以上先では無理な話ではあるが、空調のない講堂に詰め込まれる生徒の身にもなってもらいたい。もちろん、教師たちも同様の気持ちではあるとは思うが。
「岩ちゃん! 及川!」
 出入り口横で部活動ごとに固まっていたところ振り向けば、野球部らしくない白い肌ですずしい顔して笑っている、そして野球部主将が立っていた。女子って汗とか、かかねえのかな。
「おっ、野球部さんもお揃いで」
 大袈裟に口角を上げた及川は手のひらを突き出す。怪訝そうに小さく首を傾げた主将はしぶしぶ及川とハイタッチを交わす。高々と掲げられた手のひらには届かず、ただ無駄にジャンプをし、及川の腹部に一撃グーパンチを入れた。
 ふたりの背後にはその他野球部のレギュラーとベンチ入りメンバーが揃っているらしかった。なぜなら、バレー部も同様の陣営だからだ。
「バレー部、明日からだろ?」
「そ。練習中に思い出したら念でも送っといてよ」
 主将の問いに及川はピースサインを返し、「野球部は?」どうせこのあと校長だか教頭から紹介がある日程を問いかけあう。
「抽選会が今月22日で、予選は七月からスタートだよ」
 ぴん、と伸ばした腕でこちらも同様のサインをつくっては詳細に回答をした。
「まだ一か月あんだな」
 ねえ、とは顔を傾けて主将を見上げる。
「だからキャプテン、わたし明日お休みして、バレー部の応援に行きたいな?」
 一瞬、心臓がつん、とだれかの人差し指で突かれたように跳ねた。
 もうこうして夏を三回迎えようとしている付き合いだが、がバレー部の試合に顔を見せたことはない。当然だ。にも練習があるからだ。それは現在進行形の状況であり、ここでがこうして主将にお願いをしているのは、冗談だろう。
 それでも、想像した。想像したら、跳ね上がった。
 承諾するか否かの権限を握らされた主将は坊主頭をかいて即答を避けていた。
 ここで、「いいよ、一日くらい」と言えば、は「自分は選手じゃないからいてもいなくてもいいよね! ふん!」とへそを曲げるかもしれない。かといって「絶対ダメです」と言うのも、「俺じゃなくて監督に聞けよ」と判断を遅らせるのも、憚られるのだろう。
 おそらく、が部活を休みたい、などと言ったのは冗談でもはじめてだったのだ。だから主将は、正解の返答を導くのに迷っている。冗談で片付けていいものか、悩んでいる。
、十月末の春高代表決定戦から観に来てよ。野球部は三年生、長くても国体まででしょ? たしか例年十月頭だよね」
 言い淀んだ主将からなぜか及川がその役割を奪い去る。
 主将は声にこそ出さなかったが、及川へ眉を下げた。おい、ふざけんな。ではなく、すまん、助かった。の意だと思われた。
 じっと腕を組んで口をへの字に曲げていたは、目を細めゆっくりと口を開く。
「……まあ、そうだね! 俺がを春高に連れていく! って、岩ちゃん言ってたし」
 しっしっし、と歯を見せて笑うに及川が「その話、詳しくっ!」と絡む。
「ずいぶんとかっこいいことを言ったもんだな?」
 ぬっ、と背後から湧いてきた松川に「言ったけど言ってねえよ!」振り向きざまに反論する。
「それは言ってるやつだな」
 さらに釣られてやって来た花巻に肩を叩かれる。わはは、と盛り上がった集団は、生徒会役員たちの整列を促す冷ややかな声に牽制された。

 部長からの挨拶の場が設けられ、及川は黄色い歓声を一手に担った。あと、半裸になった水泳部もなかなか盛り上がっていた。こっちはほとんど悲鳴だったが。
 ユニフォームを着用した野球部の一列、先頭の主将のすぐ横にすん、と制服姿で姿勢よく立つは目立っていた。各部のマネージャーは整列しない。ただ、は副部長である。それを知らぬ様子の一年生の一部がざわついていた。
 そう、は、格好いいよな。





「こっからじゃお嬢、よく見えないじゃん」
 市民球場の応援席を最上部から見下ろしながら、及川は張り切っていた。
 宮城県の代表をかけた決勝戦。全校応援として強制こそされなかったが、応援席には多くの生徒がつめかけている。
 メンテのためのオフ日に炎天下に晒されて体調崩したら元も子もないじゃーん。なんて、昨日唇をとがらせていたのはどこのどいつだったか。あと、お嬢ってなんだ。
「野球部のとこ混ぜてもらっちゃおうよ」
「……そこまでして見てどーすんだよ」
 花巻とともに階段を降りていた及川が振り返り、見開かれた瞳で困惑していた。選手じゃねーだろ、という意味が透けていることに。岩ちゃん、それはないんじゃない、と語っている。
 馬鹿にしているわけじゃない。ただ、彼女をここから名指しで応援するのはおかしい。俺らがエールを送るのは、選手だ。監督やマネージャーではない。記録員の彼女こそ、ベンチから彼らを鼓舞するだろう。彼女が彼らを応援する。的確な指示や士気を高める声かけで。
 彼女にとっては日々が本番だ。選手たちが、負けたらおしまいの試合で力を存分に発揮できるように、日々努めることが試合のようなものなのだろうと思う。彼女が培ってきた能力を吐き出すのは、試合中ではないということだ。
 もちろん、今このとき動く戦況に応じて彼女もあれこれと考え、監督とも話をするだろうが、彼女に割れんばかりの声援を送るなら今日ではなく、今日までの過程のあいだ、ずっとであるべきだ。
 だから、のことを軽んじているわけではなかった。めんどくせえから、みなまで説明するつもりは毛頭ない。

 野球部の主将がに近づいて手を差し出す。片手でそれを握ったはぶんぶんと勢いよく何度か振った。その腕を引かれての顔面は主将の上半身に激突する。主将はの背を二度叩き、名残惜しむことなくすぐに離れ、の横に積まれていたふたつのエナメルバッグを両肩にかけた。
 球場の外通路で行われたその熱く、でも清々しい一連の流れに、うっわ、ドラマみてー、と呑気に思った。
「よー、お疲れ」
「……ひ、いっ、い、岩ちゃん!?」
 叫び声混じりに俺の名前を呼んだは、額に手をやって汗でひっついていた前髪を荒っぽく何度もかきわけながら、じりじりと壁際へと後退していった。おい、なんでだ。
 が下がった分の距離を詰めながら、
「行けんじゃねーかよ、甲子園。やったな」
 どこに座ろうともの姿はいまいちよく見えなかったが「ストレートないよ!」「ライナーバックー!」「さっき6ー!」甲高いかと思えば地鳴りでも起こしそうな圧をもった声は、歓声や吹奏楽部の演奏の合間を縫うようにたびたび聞こえることもあった。
 クールに人差し指でも立てて「ま、こっからがスタートだからね」などと、及川ごとく気取って言うもんだと思っていたが、みるみるうちに顔が歪んだ。
 はなにも持たない子どものように、ただ立ったまま涙をぬぐうこともせずに、わあわあと泣きはじめたのだ。驚愕の光景。
「泣いている女の子には、頭でもなでて、やさしくハグしてあげるんだよ、岩ちゃん!」
 自分たちが戦って勝ったのかと思うほどはしゃぐ生徒たちを横目に階段をのぼる俺へ、及川は背後からふざけた調子で声を上げていた。が泣くタマかよ、しかも勝ったんだぞ、と鼻で笑ったばかりなんだが。及川のほうがの解像度が高いっつーのがまたなんか癪だった。
 遠ざかった主将の背中を一瞥する。泣き声は届いているはずだが、その足取りからして助けに来る様子はない。ぞろぞろと背後を通過していく青城生ないし対戦校の生徒たちの目が非常に痛かった。
 うれしくて泣いているんだから、存分に泣けばいい。とはいえ、過呼吸になってもらっても困る。あと、状況的に明らかに俺が詰め寄っているように見える。こちらの言い分は第三者に聞き入れてもらえそうにない。
 ぽすん、と頭に手を置けば、は鼻をすすりながら顔を上げた。親指で額をこすって、「落ち着け、落ち着け」まじないのようにの頭上に言葉を落とす。厚塗りしていたであろう日焼け止めが白く浮いていた。
 そういえば猛がまだ赤ん坊のころ、昼寝して汗ばんだ額に伸ばしたままの前髪がこうして貼り付いていたっけ、と及川ん家でのことを場違いに思い出していた。
「岩ちゃん、今日、練習は?」
「月曜だからな」
「わたし、応援行けなかったし、岩ちゃん、来ると思ってなかったから、びっくりして」
 目の前の女の子のしゃくりあげるような呼吸に反して、俺はゆっくりと深く息を吸い込む。遠慮なしに勢いだけで両腕で絡めとったの身体は想像していたとおり、いや、それ以上に細かった。
「ちょ、折れる、折れる!」
 俺はこいつの彼氏とかじゃねえ。ここで求められるとするなら野郎にするような熱い抱擁だ。
 ばしばしと背中を叩かれてもすぐには離してやらなかった。さっき見たそれよりは、いくらか長く。そう、思ったのだ。



prev   top   next