ヒロイン - 3

 仙台市体育館の正面玄関すぐ横、奇妙なモニュメントのかかる壁に腕を組んで寄りかかっているに気がつき身を翻したくなった俺より一手早く、「あ、トイレ」と機械的に発声し、及川は来た廊下を引き返していった。
 その後ろに続いていた松川と花巻はうんともすんとも言わず、ただ足早に俺を追い越し、に会釈をして出て行った。そうなれば、俺が露骨に姿を消すわけにもいかない。
「……甲子園行ったんだし、べつにいいだろうが」
 皮肉ではない、と自分が善人であることを信じたかった。俺が春高なんぞに連れて行かずとも、はちゃんと行きたかった場所へ行っただろう、という事実を述べただけだ。
 ただ、今年の夏も頑なに優勝旗は白川の関を越えたがらなかった。
 気がつけば2か月以上、とはひと言も話すことはなかった。夏休みが明けてから「ぜひ野球部へ」やら「甲子園に連れて行け」やらと、が声をかけて来ることはなくなった。朝練前の早朝も練習終わりの夜も会うことがなくなった。彼女が引退したからだ。
 いつもあったものがなくなれば、それで繋がっていた関係とはその程度か、とがっかりもする。そうして、不思議なことにきっかけを求めれば求めるほど廊下ですれ違ったり、購買で遭遇したりすることもなくなる。
 春高の予選を前にしても、は「がんばってね」のひと言すら寄越しに来なかった。まあ、当然だ。インハイ予選の前にだって言われていない。がんばれ、なんておたがいにこの三年間、言い合ったことはなかった。
 そんなもん、わかりきっていることだったからだ。おたがい、がんばっていることなど。ときにはがんばることを、がんばっていることなど。
「まだなんも言ってないのに。岩ちゃんかっこよかったね、とか、言おうと思ってたのにさ」
「……かっこいいわけがあるかよ」
 右手の感触は新鮮で生々しく、スパイクを強引に打ち込むようにつぶやいた。じんじんと痛む。
「ふーん、それはそうだね! 岩ちゃんにはどこにも連れてってもらってないし!」
 なぐさめのひとつでも提示してくれるのかと思えば、渾身の暴言に胸ぐらをつかまれた。コイツ、敗戦後の選手への接し方には慣れてたりすんじゃねえのかよ。
「岩ちゃんの彼女でもないのに恥ずかしいよ、出待ちなんかして。でも、なにか、言いたかった。負けたときのことは考えてなかったから、今ちょっと、なにを言えばいいか、わかんないけど」
 両親が晩酌しながら横目に見ていた夜の高校野球の特番を、風呂上がりに頭を覆ったフェイスタオルの隙間から見た。試合の結果は、体育館の鍵を返却しに行った職員室での会話を聞いてすでに知っていた。
 の特殊さはテレビや雑誌で特集を組まれたっておかしくなかっただろう。それでもはあの手この手で固辞したと聞いた。ヤクザのように一方的なメディアを退けられる、その気概が恐ろしくもある。わたしはあくまでも、マネージャーで、プレイヤーじゃないから、と。
 一記録員にしか見えないであろうの高揚した頬につう、と一筋流れた涙を横からカメラがとらえていた。BGMとともに過剰なほどドラマチックに仕立て上げられたその一瞬が、あまりにも悔しく、どうしてもきれいだった。
 いつも隣でけらけらと笑い声を立てている女の子に、目の前でアホみたいに泣いた女の子に、はっきりと、なにかを伝えなくてはならないという衝動に駆られた。
 それができないなら、まだ輪郭が朧げならば、それより先に、格好つけて今日、俺は言いたかった。「春高、着いてこい」と。それが歪な静寂を切り裂き、ふたりをもう一度繋ぐきっかけになるだろう、と。
 喉から手が出るほどほしかった切符はもう二度と手に入らない。連れて行くと宣言した場所には二度と連れて行けない。あらゆる要素を賭けて時間を費やして目指していた場所への道はあっけなく断たれた。
「どこでもいいか? 俺が連れて行くなら」
 それでも、その場所以外へなら、どこへでも行けるのだ、という当然のことに思い当たった。
 はぱたぱたと忙しなくまばたきをくり返していた。そしてなにかを思い出したように眉を上げて、そっとリノリウムの床に視線を落とした。
 キュッキュ、とバレーボールシューズの靴底が遠くで小気味よく鳴っている。
「……いいよ。岩ちゃんが連れてってくれるなら、どこでも」
 ふたたびしっかりと合わせられた瞳の奥は読めない。どこへ連れて行ってくれるの、とでも問うかのように無言の圧が続いた。
「なら、とりあえず……バッセンとか行くか」
「はあ……。岩ちゃんのバッティングフォームはまた見たいし、まあ、いいか」
「おい、どこでもいいんじゃなかったのかよ」
 これみよがしに吐かれたため息だった。はっきりと落胆を感じたが、それでもすぐにはそれは幻だったのではないかと思わされるように、いつも通りの声で話す。
「じゃあ、予備校とか行く? 早慶対策コース、まだ空きあるらしいよ」
「そういうの求めてんのかよ? 予備校にはさすがに親の財力なしには連れてけねーよ」
「一応受験生だし、そういうほうが岩ちゃんも罪悪感ないかなー、って」
 小さく口角を上げた彼女の、諦めきったような顔をいつか見たことがあった。覚えていた。自分も、その顔を彼女にさせたうちのひとりだったことを。きっと、物心ついてからなんどもつくらされたのであろう、その表情を。
「……ひとつに絞る必要はねえ。なぜなら、来年でも5年後でも、もっと先までかかっても俺は構わねえし、連れてくとこリスト消してるあいだに、もっと増えろ、と俺は思ってるに違いねーからだ」
 日本人の子。男子に混ざって野球をしている子。海外から引っ越してきた子。野球部に入った数十年ぶりの女子マネの子。マネなのに野球部の副主将してる子。帰国子女の子。
 相手はいつもわたしのステータスを通してわたしを見ている。それだけでわたしを理解してしまう。だからそれ以上、踏み込まれない。
 刷り込まれた意識は、彼女に予防線を張らせるのだろう。引き結ばれていた、薄く色づいている唇が小刻みに震えている。
 だったら俺までそうして、どうする。
「どういう意味か、わかるか? わかるな?」
 気がつけばは糸が切れたように笑っている。両腕をめいっぱいに広げて。
 これはフィクションじゃねえし、世間一般から見た、のバックグラウンドの特異性のせいで、誰もが定義したそれとも違う。ほかの誰でもなく俺の日常において、はまぶしくきらめく、唯一無二の圧倒的なヒロインだ。
 ただの、ただひとりの女の子に向かって一歩、踏み出す。


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