ヒロイン - 1

「岩ちゃん! を甲子園に連れてって!」
 まだ陽が昇りきらぬ薄暗い通学路に凛とした声が反響した。びくついた肩を誤魔化すように、鼻で息を吸い込めば喉の奥が凍結しそうだった。天気予報くらい見て来なよ、と呆れる及川の顔が浮かんで舌打ちをする。半端に開いていたジャージのファスナーを引き上げた。
 わっさわっさとベンチコートがこすれる音とともに、近づいてくるローファーの硬い靴音を足を止めて待つ。
「それはタッちゃんだかカッちゃんだかの役割だろ」
「もはや誤差でしょ。岩ちゃんでも問題ない」
 際まで上げたコートが口元を隠す裏で、んっふふ、と誇らしげに頬を持ち上げ、「おはよう、岩ちゃん」「はよー」真横に並んだは、改めて挨拶のことばを寄越した。
 コートのポケットに両手を突っ込み、身体の半分くらいあるエナメルバッグを揺らしては俺の隣を歩きはじめる。
「岩ちゃんがを連れて行けるのは春高だな」
 間違えた。いや、セリフとか設定をもじるなら正しいんだろうが。
 俺はのことをとは呼ばない。俺はタッちゃんでもカッちゃんでもねーから。俺の幼馴染は残念ながら及川だけだし、及川は双子の兄だか弟ではないし、及川はとうぶん死にそうにない。
「場所は違えど、連れてってはくれるんだ」
 は下の名前で呼ばれたことを気にも留めずに笑っている。安堵。
 はっきりと覚えている。一年の夏休み前に行われた球技大会の後だった。「岩泉くん、野球部においでよ」と、が声をかけてきたのは。
 勧誘自体に、というよりはどちらかと言うと、他のクラスの女子に声をかけられたのがはじめてだったので、たじろいた。クソ暑い中、日焼け対策として肩からジャージをかけて腕を組んでいたに、隣にいた及川はまるで猫のようにわかりやすく威嚇した。およそいつもの女子に対する態度ではなく、明らかになにかを本能的に警戒していた。
 それも最初のうちだけで今や親しくしており、及川の影響では俺のことを岩ちゃんと呼ぶようにもなってしまったわけで。いまさらが本気で俺を引き抜こうとしているわけではないことは周知のことだ。野球部への誘い文句がお決まりな挨拶と化しているというだけで。
「交通費および宿泊費は自己負担だぞ」
「いいよー。夏には兵庫、冬には東京。なんて贅沢!」
 ちなみに来年のインハイは富山だが、それこそは着いて来られないだろう。
 高校二年の冬に足をかけた現在、という同級生は、青葉城西高等学校野球部のマネージャーであり、副主将である。わりと衝撃的なことなのでもう一度言おう。副主将である。
 この女、試合には出ないといっても連れてって、などと他力本願なことを言ってる場合ではない。それに、毎年のように甲子園の地を踏んでいる野球部の目標は出場ではなく、優勝だ。
 三年生が引退してからすぐに主将は決まったが、しばらく副主将は不在だったらしく、秋大後しばらくしてからが就任した。部長会議が行われる教室で顔を合わせたときには驚いたというよりは、腑に落ちていた。
 監督と主将の推薦だった、とクラスメイトの野球部員から聞いた。そいつも、ほかの部員も不服で一悶着あった、ということはまったくなく「ま、しかいねーだろ?」と笑っていた。不自然なブランクができてしまったのは、やはり世間体というのもあったのかもしれない。現場を知らないOBが茶々を入れてくることもあるらしい。
 そもそも青城野球部は長らく女子のマネージャーを取っていなかった。は入学前に監督に手紙を書いて、秋の地区大会で見た選手たちのレポートもつけて寄越したとかなんとか。直談判に来たとかなんとか。どこまで事実かは知らないが、とにかく、俺や及川がバレー馬鹿だというなら、は紛れもなく野球馬鹿だった。
 自身、昔は男子に混じって軟式野球をしていたらしいが、外から戦況を把握して戦術を考えるのが楽しいことに気がついたらしい。
 よって、のマネージャーの仕事というのは水分を用意したり道具を準備したりといった雑務に留まらず、監督・コーチとの戦術的な話し合いや敵情視察などに及んでいると聞いていた。そんな彼女が副主将をつとめることは、なんらおかしなことでもない。
「小遣い貯めとけ。あと、学力もな。俺が言うまでもねーだろうけど」
「岩ちゃんも進学って及川から聞いたけど。早稲田のスポ科だっけ。学部は違うけどわたしも第一志望だよ」
「お、マジか。てか、こないだの模試、リスニング満点とってたろ。今度英語教えろ」
 てっきり二つ返事でオーケーしてくれるものだと思っていたが、はううーん、と喉の奥で唸った。
 先週、大学受験を前に突如廊下に貼り出されるようになった模試の結果によれば、はなんならリーディングも満点に近かった。国語、世界史の点数も7割にのっていたと思う。私立文系クラスのなかで上位にいたから、こうして俺も覚えているわけだ。
「英語は感覚でやってるところがあるから、上手に教えられないかも」
「なんだそれ。天才かよ」
「いや……。小3くらいでこっちに来たとはいえ、根拠とかなくベースが染みついてるっぽいんだよね」
「は? ……帰国子女ってやつ?」
 青城で帰国子女はめずらしいものでもない。各クラスにひとりかふたりはいるのだが、がそのうちのひとりだったのは初耳だった。
 もしかしたら、あまり大っぴらには言ってこなかったのかもしれない。ただ、模試や定期試験の結果が露骨に公開されるようになることで、それはまたたくまに広がっていくだろう。人の目は突出しているものに引き寄せられる。
「まあ、当てはめるならそういう部類になるんだろうけど。帰国子女カーストでは最下層でしょ。両親日本人だし、インターも通ってないし、もう英語の喋り方なんて忘れちゃったよ」
「設定盛りすぎじゃね? なんかの漫画のキャラみてえだな」
 それこそ、アサクラミナミなのかもしれない。そのミナミちゃんですら帰国子女ではなかったはずだが。
 思えば、スペイン語を話す外国人のプロ野球選手が多いのだから、といったい将来なにを目指しているのかは知らないが、部活前のに遭遇すれば、スペイン語のラジオ講座を聞いていたりする。
 いつだったか「なんなら、俺らがあの子を引き抜きたいところだよね」としみじみつぶやいたのは松川だった。彼女の熱心さというのは興味のあるものにしか注がれないだろうというのは、当然俺らもわかっている。のような存在という、たとえ話に過ぎない。
 街灯に照らされながら「岩ちゃん、お疲れ!」と笑うその体力は男子顔負け。プレーはしなくても、東大や京大へ行けるだけの学力はなくても、文武両道とはのことと言って差し支えないだろう。
「岩ちゃんにはそういうこと言われたくなかったなあ」
 はっ、と足先から弾かれたように顔を上げた。唾でも吐き捨てたかと思うほど、棘のある声色だった。
「わたしだって、そのへんによくいる女の子と、なんら変わりはないよ」
 たどり着いていた野球部のグラウンドのゲートを引くの背中に下げられているエナメルバッグを見た。重たい扉がじりじり引きずられ、砂利を飛ばしている。
「じゃーね、岩ちゃん!」
 こちらへ向き直ったは、眉を下げ片手を振っている。気のせいだったか? と、向かれた背に思わず首をかしげる。
 はそのへんの女とは、決定的になにかが違う。────誰だってそう思うだろう?





「岩ちゃん、松川くん、花巻くん、お疲れさま!」
 校門前にぞろぞろと連なる野球部の列からひょっこりとが顔を出す。「さんお疲れー」と口々に返せば、当然のように野球部の面々も「、またあした!」「先輩、お疲れっす!」それに続く。
 ひとり分呼ぶ名前が足りないことに気がついたは、「あれ、及川は?」とあたりを見渡す。
「監督に呼ばれてる」
「ふーん」
 さして興味なさそうにはそう言うと、肩からずり落ちたエナメルバッグを引き上げながら、通り過ぎて行ったばかりの野球部の背中を振り返った。
「待てるか?」
「あ、うん。待つよ」
 学校銘板のついたコンクリートの壁に背中を預けたの横に並ぶ。
 野球部員たちはこうしてバレー部一行と遭遇すると、を置いていく。すぐにバスに乗るとはいえ女子をひとりで帰すとはどういうつもりか、嫌われてんのか、と本人に聞いたことがあるが、いつもはタツヤたちと帰ってる、と主将の名をあげていた。そういや、主将こそタッちゃんじゃねえか。しかも、それこそウエスギタツヤから名前取られてるだろ。
 そういうわけで、今日は俺がを引き取るしかない。松川と花巻は電車とバスの乗り継ぎの関係上時間に追われている。俺も「すぐ終わると思うから待っててよね」と言っていた男を置いて帰っても構わないわけだが、今日の俺には都合がよかった。
「なんか、怒らせたか。今朝」
 じっ、と視線がこちらに移されてすぐにまた足元に落ちる。
 気のせい! で済ませてもよかったわけだが、どっかでやっぱり引っかかっていた。
 周囲に当たり散らしたり、場の空気を引っ掻き回したり。と同じクラスになったことはねえから知らない面もあるかもしれないが、俺の知る限りはそういったことをする人間ではない。その女が一瞬でもわずかでも声を荒げたというのなら、大問題だった。少なくとも俺にとっては。
「思い当たる節、あるの?」
「わかんねえ。けど、不快にさせたらまずは謝るもんだろ」
「岩ちゃんらしいね」
 ふふ、と小さい笑い声がして空気が振動する。手に握っていた、及川からひったくってきたチェックのマフラーを思い出して首に巻きつける。
「あれだ、八つ当たりってやつはしたかも」
「おい、タチ悪りぃな」
 ごめんね! とは俺のエナメルバッグを叩く。ゆらゆらとキーホルダーがゆれる。
「今からめんどくさいことを言おうと思うんだけど、聞いてくれる?」
「……おう」
 聞いてくれる? なんて顔を傾けてお願いされて、無下にできる男は果たしてどれだけいるのか。
 日課みてえに野球部への勧誘なんつうめんどくせえ挨拶をかましてきといて、なにをいまさら。と笑うのは、小石をいじるローファーの先を見て、やめておくことにした。
「みんな言うんだ。アメリカにいたときは、日本人だって。日本に来てからは、帰国子女だって。野球してたときは、男子に混じってやってる女子だって。高校では、強引にマネになった子とか。わたしが集団に属すと浮き彫りになるわたしの特徴と、わたしはセットなんだよね」
 意味わかる? とでも言いたげには俺の顔を下から覗き込む。
「まあ、わからんでもない。俺もいつも及川とセット扱いだし。及川あっての岩泉、ってな。逆もまた然りだと俺は思ってるけど」
「岩ちゃん、お強いですね」
が俺に話しかけてきたとき、でた、俺経由の及川へのアピール、って思ったしな。まあまあ今も思ってる節はある。及川のこと好きだとか言い出しても驚かねえよ」
「ひっどいな。及川は野球ヘタクソだから好きになんないわ」
 思い切りよく蹴り飛ばされた石が跳ねて、俺のスニーカーの上に着地する。
 野球がうまかったら好きになんのかよ。とは思ったが、ややこしいことになるので口には出さない。
「でもさ、そういうことだろ。こっちにそういう意図がなくても、受け手は今までの経験から勝手に解釈する」
 小石を掬うように蹴り上げる。リフティングしようと脚を伸ばしたが、あざ笑うように遠くへと飛んでいった。
「だから、俺は茶化したつもりとかはねえよ。シンプルにかっこいいべ、肩書きいっぱいあんの」
「子どもっぽいことを言う……」
 呆れたようには肩をすくめてから、「岩ちゃんに悪気がなかったのはわかったよ」ぱちん、と両の手を顔の前で合わせる。
「ごめんね、八つ当たりして。許して!」
「おう。許す」
 さっすが岩ちゃん! とまたエナメルバッグが揺さぶられる。八つ当たりっつったけど〝俺に悪気がなかったのはわかった〟と言うのだから、俺に言われたことも嫌だったのだろうと察する。俺に文句もあったわけだ。
「わたしって、それだけじゃないし。と、言いたいんだけどさ、でもそれしかない気もするし。かといってそこばかりフューチャーされても、そんなにわたしって特別な人間じゃないっていうか。自分が認識している自分と、周りから見た自分のギャップとうまく付き合えないときがあるの」
 またしおらしく地面を凝視するつむじしか見えなくなる。今日のは緩急つきすぎてて、風邪引きそうだ。
 こいつも、表に出していない葛藤っつーのがあんだな、と物めずらしく、俺も勝手に像を作り上げてた周囲の人間のひとりか、と思い直す。
「その差分を埋める努力をするしかねえんじゃねえの。してっと思うけど」
「それでも埋まらないときは? いつまでがんばったらいいのかな!」
「それは……」
 語尾が消えないように意識して強調された問いかけに、どう答えるべきか悩んだ。もはや開き直っているようでもあり、俺の回答は重要ではないのかもしれなかった。
「……そういう自分を肯定できるまで、だべ」
 明確な日付としての期限がほしかっただろうと思う。ハタチまで、とかてきとうなことを言っとけばよかったのかもしれない。がんばらずともいい、と無責任に努力を放棄させるべきだったかもしれない。
 うんともすんともリアクションはなく、見せてもらえない表情からもなにも汲み取れないままに、びゅう、とふたりのあいだを風が通り抜けていく。
 小走りにアスファルトを踏み締める音が近づいてくる。そのことに、すでに俺は安心してしまっていた。
「お待たせ岩ちゃん──って、も待っててくれたのね。どーもどーも!」
 ぱちぱちと弾ける声が一気に空気を掻っ攫った。釣られるようにぱっ、とは顔を上げて月明かりの空に場違いな太陽みたいに笑う。
「ふふん。徹ちゃんに会いたかったからね!」
 反射的に手刀を頭上に落とせば、いたっ、とは自分の頭を抱える。
 バカなことを言うな。及川徹に野球センスはない。今のところは。そしてこれからも。



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