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苦渋アウトサイダー
話があると応接室から手招きされ、露骨に眉をひそめたわたしに水沼さんは悪い話じゃないから安心しなさい、と目をほそめた。ふかふかのソファに浅めに腰掛けたわたしにむかって、水沼さんは【辞令】とトップに記載されている紙をテーブルの上にすべらせた。二日前の話だった。「昇進か。それはおめでとう」
「肩書きは増え、給料は地味に変わった」
昼休み、東隊作戦室で東さんとふたり、持っていた缶コーヒーを軽くぶつける。
人事部 プロジェクトスペシャリスト。……カタカナが無駄に仰々しい。この一、二年、水沼さんや上層部にプレゼンをしてひとりで勝手にはじめた仕事(これがプロジェクトか?)をおもにやっていたわけだが、その仕事ぶりが評価されたと水沼さんは言った。業務内容も変化ないし、部下がつくわけでもない。新入隊員のあれやこれやを嵐山隊がやってくれているにしても、人員を増やしてくれてもいいとは思う。
「うれしそうじゃないんだな」
「責任が増えるだけじゃん」
マネージャーやディレクターになったわけではないのでわたしのヘマはこれからも変わらず水沼さんが責任に問われるけれど、わたしももうただ仕事をしていればいい平社員ではないということだ。わたしがするすべての業務において、結果を出すことを求められる。
「いや、でも、うれしいよ」
「そうか」
自分が自分のことをどれだけがんばっている、と認識していても、その評価をくだすのはいつだって他人なのだ。それをよく理解しているからこそ、こうして昇進というかたちをとってくれたことはうれしかった。わたしがやっていることは、無駄ではないのだなと、定期的に感謝を述べられるよりずっと安心できた。
「ボーダーに入れてくれてありがとう」
「いやいや、そこから先はの努力だろ」
「それはそうなんですが! まぁ、そうですね!」
仕事に励む場所を用意してくれたのは今目の前にいる東だ。わたしはだれよりも先に、彼に報告したかった。それでも、内示が出てから二日あけてしまった。
「昇進祝いしないとなぁ」
「いいよ、忙しいでしょ」
今は入隊時期であり、東さんたちに限らずわたしも忙しいので取るに足らない報告をするのは気が引けたのだ。ここを過ぎればランク戦の時期。なかなか予定を合わせるのはむずかしいのが現実だった。
「諏訪には言ったか」
「……いや」
「言わなくていいと思ってるだろ」
「そうだね、東さんと冬島さんにしか自分からは言うつもりなかった」
防衛隊員たちは知ろうとしなければ一般職員の昇進などの情報は目に入らない。だから、こうして自分から言わなくては伝わらないわけだけど、そんな小っ恥ずかしいことはない。
東さんはもちろん、冬島さんと響子にはわたしが正式に入職する前のぼやぼやしていたときから、ずっと助けてもらっていた。彼らなくして今のわたしはありえないのだ。その感謝を示すためにも、わたしはこの作戦室を出たその足で、冬島隊作戦室──不在なら開発室──に向かうつもりだった。
洸太郎に言い渋っているのは、恥ずかしいからだけではなかった。
──なくていいほうがいい組織に、俺は就職してーとは思わねーよ。
数ヶ月前の洸太郎の横顔がよみがえる。まあ、それはそうなんですが、諏訪くん。わかるんですが。そう言われてしまった手前、そんな組織に入職しているわたしはきみにどんな顔をして報告すればいいのか、ちょっとばかし悩ましいのですよ。
作戦室を出て、スマートフォンをポケットから引っこ抜く。メッセージアプリの履歴をスクロールして、[昇進しました~]。五秒のフリック入力で送信した。東さんがわざわざ念をおしたとおり、この昇進は洸太郎という存在があったことも大きいことは間違いない。現時点からみればわたしは努力の方向性を取りちがえることなく進めている。その軌道修正をはかってくれたのは、洸太郎だったといえる。
冬島さんとグーパンチを決めて人事部へ戻るあいだに端末の画面をつければ、[今日19時以降あいてますか]。メッセージ通知がポップアップされた。──急だな。女の子の金曜日の夜はもっとはやく予約しなくてはならないものだぜ。とも思うが、これはお祝いがしたいので飲みに行きましょうというお誘いなのだろう。時間の隙間をぬって入れようとしている予定だ。ありがたくお受けする以外の選択肢はない。
「おめでとーございまーす」
ジョッキがにぶい音とともにぶつけて液体を飲み込むあいだ、店内の声が大きく聞こえる。テーブルの端には煙草が転がっていて、灰皿はまるでメインディッシュかのごとく中央に置かれている。ぷは、と口を離せば洸太郎は片肘をついてメニュー表を広げていた。
「……おめでとうと思う?」
「は? 思うだろ」
何杯も飲んだあとでは、引き際がわからなくなるかもしれない。そんなわけでビールの一口目からさっそく喧嘩を売ろうとしているわたしに、洸太郎は顔をあげて、怪訝そうな表情をむける。いや、そういう心持ちだというだけで、喧嘩したいわけではない。
「わたしは、洸太郎が勤めたくない場所に、これからもい続けようとしてる感じなんですが」
語尾に近くにつれて目線が下がり、そのまま横の椅子に置いていたかばんに手をつっこんで、煙草ケースをさぐる。チャックを開いて煙草を取り出し、横車をまわした。が、その間、洸太郎は右斜め上をにらみつけたまま、無言であった。
「……」
そのまま泳がせて煙を吐けば、
「ああ~……違う、違う。そんなつもりじゃなかった」
洸太郎はメニュー表を両手で持ち上げながら椅子の背にもたれかかった。思い出したらしい。店員の女の子がめざとくそれを見つけ、よばれたと思って駆け寄ってくる。引き返させるのも悪いので、焼き鳥と刺し盛りを追加注文しておいた。
わかっている。
わたしは今この瞬間をみているけれど、洸太郎はボーダーが解体される未来をみている。ただ、それだけの話で、わたしを卑下したわけではないことを。ボーダーは永遠の居場所にはなり得ない(ことを願うべき)場所なのだ。
「風間とかゴリラにも同じように言ってんだよ。そのノリで言っちまった」
「でしょうね。洸太郎にだって幹部候補の話は来ているはず。それを躱すために言ってるんでしょ」
「まーな。いや、さんはあいつらとは立場が違うよな、申し訳ない」
そうなのだ。
防衛隊員から転属したならいざしらず、大卒で「近界民滅殺!!」などという野望もなく「居場所を探したい」なんてほうけたことを言ってボーダーに入るなんて少々おかしなことなのだ。現に、一般職員にわたし世代の人間はほとんどいない。一つの企業に定年までつとめあげるなんて時代は終わったとはいえ、貴重な新卒ブランドをここで消化してしまうなんて、もったいないからだ。
防衛隊員たちが戦えば戦うほど、一般的にわたしが職を失う未来は近づいているはずだ。そしてわたしはそれを全力で後押ししている。その日が来ても、ボーダーで勤めていた人間たちの再就職先はちゃんと準備されるだろうし、その費やした時間が無駄になるわけではない。それでもわたしたちは終わりを近づけるために働いている。最終的になくなることが求められる組織にわざわざ就職する必要は、洸太郎の言うとおり、ないと思う。
「それでもわたしは今この場所で全力をつくすのみよ」
ぐい、と煙草を灰皿におしつければ、想定外の位置で曲がった。
本心だった。だとしても、もう乗りかかった船。わたしは終わりのときを目指して走り抜けると決めたのだ。目的が、ひとつ達成したことで変わったのだ。自分が納得している選択。だれになにを言われようとも曲げるつもりはない。わたしが辞めますと言えば引き止められることもなく解放してくれるだろうけど、記憶は封印されるだろう。全部ではないけど、機密情報、とりわけ防衛任務についていたことなんかは、持ち越せそうにない。それはいやだった。目の前の男に感じている感情が、おそらくなんなのかわからなくなるだろうから。──そんなモチベーションのひとつやふたつ、笑って見逃してもらいたい。
「で、就活はどーよ?」
並べられたスピードメニューのひとつの枝豆をくわえる。
「あー、結構副業禁止のとこも多くてよー」
そうか、防衛任務は副業か。三門市の平和を守ってやってるんだから、それくらいは融通をきかせてくれてもよさそうなものだ。
「実際問題フルで働きながら任務出るとか現実的か?」
「唐沢さんにどっか斡旋してもらったら? そこなら理解あるでしょ」
自分で提案しておきながら、苦笑いがもれる。唐沢さんは結構洸太郎のこと気に入ってるからな。なんなら外務営業部へ! とか言い出しそうな勢いだった。
「それもいいけどよ、三門市出ちゃうのもありじゃねーかとかも思うわけ」
関西出れば甲子園行き放題だしな。洸太郎がジョッキを持ち上げる。
関西弁の洸太郎……悪くない。が、そうなればこの人も特定の記憶を取り上げられるのではないだろうか。洸太郎はいろんなことを知っている。それでもいいというのだろうか? そりゃ、封印されると決まっているわけではないけれど。
「三門市をほっぽり出して行きてーとまでは思ってねーのもまた本音だな」
「そっか」
「まだわかんねーけどな! いろいろ考えたいからはやめに動いたわけで」
ジョッキと煙草を持ち替えて、火がともされる。
──再来年は、こうしていられないかもしれない。ひとり、喫煙所で煙草をふかす自分の姿がうかぶ。当然ずっとこうしていられると思っていた。洸太郎のことを見られなくなる日がくる可能性があることを考えたことがなかった。最初に就活をしていると聞いたときも、彼は防衛隊員をやめるつもりはないと言っていたし、どんな関係であろうと、いやでも洸太郎は目に入る場所にいるものなのだとばかり。
洸太郎がここへ残る、残りたいと考える理由のひとつにわたしの存在はなっていないのだ。無意識に自惚れていたことに気がつかされて、煙草を飲み込んだかのように気持ち悪い。
「ま、わたしは就活しなかったからなにも言えないわ!」
今洸太郎の近くにいるべきは、ともに合同説明会やESの荒波にもまれている同級生や、真面目にやってきた人生の諸先輩方であろう。
ひと口、ふた口とビールを流し込む。昇進を祝ってくれるんじゃなかったのか。わたしは今、美酒ではなく苦汁をのんでいるぞ。疲労の色をにじませながらもそれに負けない希望に満ちあふれている青年よ、気がついてるか?