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GO TO THE FUTURE

「煙草くれ」
「なに? まさかコンビニ閉まってた?」
もはや朝方が近い、深い夜。ここはわたしの自宅玄関である。コンビニで買え。ここで煙草は売っていない。セブンイレブンの当初の営業時間、朝7時から夜11時に戻ったとでもいうか、東春秋。まあ、煙草はあるけど。……じゃあ、あながち間違った選択でもないか。

舌磨きは喫煙者にとって歯磨きと同等、だいじな作業である。これを怠って寝てしまうと、起床時の口内の不快感はたまったものではない。ただでさえ気だるい寝起きに拍車がかかる。しかし舌にブラシを当てて上から下へとなでれば嗚咽が毎度ともなうもので、これがどうにかならないのか、というのが目下の悩みの種だ。そう言ったら、俺は正月用のもちを何キロ分つくるか悩んでる、と太刀川が真面目な顔をして言った。余ったらちょうだい、と数回前のこの時期におねだりしたら、不満の表情を浮かべられた。彼にもちが余る、なんてことはない。人にあげるなら人にあげる分余計につくらないといけないのである。だからわたしは、10個ちょうだいね、とねだった。そういうわけで、今年ものこり数日で除夜の鐘が鳴り響こうとしていた。

ひたすらにYouTubeがおすすめしてくる動画をクッションチェアを枕に見続けて、洗面所に向かったころにはデジタル時計は深夜3時前を表示していた。そして、恒例行事のごとくえづいていたらインターホンが鳴った。画面にはよく知った顔がうつっていて、わたしはオートロックを解除して東を迎え入れたのだった。

「研究室帰りで、これから本部に戻る」
「これからって……」
玄関で靴も脱がずに突っ立っている東はねむたそう、というよりむしろ気が立っているようにみえた。年末年始、ボーダーの中高生は基本的に家族との時間を大切にするので防衛任務のシフトはおもに成人済みの面々でまわされる。加えて彼は大学院生でもある。忙しいのだろうと、容易に推察される。それに、今月はそれとも違う緊迫感が少なからずあった。実際わたしも小型のトリオン兵の駆除に駆り出されたし、まあまあ何かが起こりそうな気配は察知している。とはいえ防衛隊員から足を洗い、一般的なそれとは多少異なれど一般職員のわたしには関係のないことであり、わたしは休暇に入っていた。

「じゃ、とりあえず、シャワー浴びていったら」
手招きすれば、東はとくに顔色も変えず、反論も示さず、スニーカーを脱ぐ姿勢に腰を曲げたのを目視して、わたしはクローゼットを目指す。もはや本来だれのものであったか思い出せないスウェットを引っ張りだして、脱衣所まで運んだ。シャワーだけ浴びてここを出て行くのなら必要のないものであるが、通って欲しい道にえさを撒かせていただく。ザーザーと水が浴室をたたく音が消えて、部屋へ入って来た東はきちんとその道筋をたどり、くたびれたそれに着替えていた。
「ベッド使っていいよ」
いくらか眉間のしわが落ち着いた東は、「悪い」と、なににかわからぬ謝罪をひとつはいた。べつに、外からマンションを見上げてわたしの部屋の電気が消えていないことを確認して、連絡も寄越さずインターホンを鳴らされたのはこれがはじめてではない。いいよ、とわたしが笑う前に、すでにベッドの端に丸くなる東の背中をながめながら、スマートフォンを手に取った。やっぱり、なにも悪いと思っていないだろ。


「なに?」
液晶画面から顔も視線もあげずに用件を尋ねてはみたものの、わたしにはこの先東が言わんとすることは過去の経験から想定できていた。──正しい睡眠は人のぬくもりあってこそ、ね。布団のぬくもりではだめですかね。
「はいはい、わたしもベッドで寝るから安心してよ」
スマートフォンの側面のボタンを押し込んで、テーブルにそっと置いてからやっと声のほうを向いたけど、東の位置や格好に変化は見受けられなかった。
毛布と羽毛布団を持ち上げ、もぐりこんでから消灯する。しばらくするとシーツの擦れる音がして、うつ伏せ気味の体勢の東の片腕が喉元に被さってくる。ぐえ、と声をもらせばその位置は少しだけ下にずらされた。

数年前にも、こんなことはあった。そのときは、立場が逆だったけど。
だれしも、こんな夜は二日や三日くらい、気まぐれにどうにもこうにも、あるものだ。東が残りの日をだれに頼んでいるのかは知らないが、どうやってやり過ごしているのかは知らないが、今日という日にたまたまその役回りが自分にまわってきただけの話だ。
今更、なにがあっても崩れるような関係ではないと思う。一度くらい、胸を張って友だちだとは言い切れなくなる行為があってもいいとも思う。ただ、致命的にわたしたちはタイミングが噛み合わない。千ウン百回くらい前の夜のころは、たしかにわたしはそれを切望していたはずだけど、そんな気持ちの乱れは煙草の煙のように、どこかへ流れていったように感じている。とてもしずかで、自然なことだった。相手に求められないのに気持ちだけがのこるほど、恋に恋してなどいられるほど未熟な小中高生ではなかったのだから。むしろ、東はそれをわかっているからこそ、こんなことができるのだろう。わたしにも思い当たる節がないことはない。名称がどうであれたがいの好意が前提にある男女の間柄だからこそ、甘えられる無責任な関係というのは存在する。

抱き枕でも買ってやりゃよかったなと、数日後の東の誕生日を思う。──そんな思考もほどほどに、ちょうどよい重みに寝かしつけられてしまっていた。








まだ黒い空間がひろがるベランダで煙草をふかしていれば、内側から、しめていた窓が開けられる。
「おはよ。冬島さんと忍田さんには連絡済みだから安心して」
「頭が上がらんな」
深夜の来訪時に着ていた服に身をつつんでいる東は頭を下げることなく、わたしの得意げな顔をみて困ったように笑った。
[東春秋は預かった。返して欲しければ、朝まで連絡しないこと]。
ボーダー用とプライベート用のどちらにも同じメンバーのメッセージグループを作成して、寝る前に送っておいた。既読2に変わった表示を確認してから、布団に入ったわたしはえらいのだ。もっとほめてもらってもいい。
「煙草は?」
「もういらない」
ベランダ用のサンダルから雑に足を抜きながら問いかけている時点で、この返答は予測済みだ。フローリングにぽつんと置いてあるかばんを東が肩にかける。わたしは数時間前のようにクローゼットの扉を引っ張って、
「これ。ちょっと早いけど誕生日プレゼント」
ラッピングされていない、箱に入った一升瓶を手渡した。
「ありがとな」
「はいよ」

靴紐をほどいて、結び直し、立ち上がって玄関の扉が開閉されれば、すべてはわたしの部屋のなかだけに閉じ込められる。感傷に浸る必要もないのに、中途半端に開いたままになっていた窓から細い音をたてて入る風が部屋を冷やす。まるっきり見当ちがいの、余計なお世話だった。