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鳩も発つ
「落としたはずの子の書類が入ってますけど~!」書類のファイリングをしながら少し遠くのデスクに座って湯呑みを口に運んでいる水沼さんに対して叫ぶ。
水沼さんが説得に苦労したとめずらしく漏らしていたから、よく覚えている。このメガネの中学生は防衛隊員になるにはトリオン量が少なすぎてお払い箱に入れたはずだった。かわいそうに、わたしの無駄にそこそこまだあるトリオンを分け与えてやりたいと、わりと切実に思ったもの。
「忍田さんに入れといてって頼まれたんだ」
「かーっ! すぐそういうことするんですから!」
上層部ならなんでもしていいってか? なら人事部の、水沼さんの、あの時間はなんだったというのか。馬鹿馬鹿しい。わたしたち一般職員への敬意や感謝はどこへやら。ぜひとも給料で示していただきたいところである。とはいえ本部長たちも無価値の人間をねじこむほど愚かではないだろう。なにか訳あってのこと──直近のトラブルといえば、あれか。そのへんに関わりがあるのかもしれない。
完全に集中力が切れた。コーヒー買いに行って、ついでに一服しよう。自席に戻って、財布と煙草の入った小ぶりなケースをつかんだ。
「なんかひさしぶり。さいきん忙しいの?」
喫煙所には先客がいた。しばらく姿をみていなかった諏訪洸太郎。姿はみていたか。ただ、ゆっくり会話をしたり、お酒を飲んだりという時間がとれていなかっただけだ。
洸太郎は煙草を口から離して、小さくふって、
「シューカツとかな」
しゅーかつ。シュー・カツ。シュークリームとカツカレー? 加古ちゃんの新しい炒飯の具材か? いやいや、ちがうちがう、そうじゃない。
「就活!? ボーダー就職じゃないの?」
そうだ、洸太郎はもう大学三年生。就職活動を水面下ですすめていてもおかしくはない。ただ、てっきり彼はこのままこの組織に身を捧げるのだとばかり思い込んでいた。
「仕事しながら隊員は続けるつもりだけどな」
「ああ、そう。じゃあ支部転属か」
おどろいたなあ、と缶コーヒーを洸太郎に手渡す。
「なくていいほうがいい組織に、俺は就職してーとは思わねーよ」
それもそうだ。よその惑星と争うための組織など、なければないほうがいいのだ。諏訪によってプルタブが引っ張りあげられた缶コーヒーを再度受け取って、壁にもたれかかった。
「……聞いたか?」
こちらを伺うように尋ねる声色に、さっきまで自分が考えていたことがもういちど顔を出す。この時期に隊員が声をひそめるといえば、やはり鳩ちゃんの密航の件しかない。ただの一般職員、人事部の女とはいえこいつは聞いただろう、という洸太郎の推察は正しい。
「まあ……そうね、ざっくりとは」
「二宮がめちゃくちゃへこんでた」
へこんでいる、といっても二宮くんのことだからうなだれているとか、泣いて喚いているとか、そんな風ではなかったのだろう。平然を保とうとしつつ、苦虫を噛み殺したような顔でぼそぼそつぶやいてでもいたと想像する。
「見てたつもりだった。人が撃てるようにしておけばよかったか。なにがやさしさだったか。誰かに唆されたにちがいない、とか」
「……それわたしに言っていいわけ? 洸太郎に心開いて言ってくれたんでしょうが」
煙草を一本取り出してくわえ、ライターをまわす。
「いや、さんもへこんでるかと思って」
「まあ……鳩ちゃんに泣かれたことも…あったっけかなあ……」
すう、と息をすいこんで、煙にかえた。
そもそも、わたしもこの件に関しては聴取対象になった。訓練生時代に交流があっただろう、何かおかしなことを言っていなかったか、と。今後そういうことにも注意して君も見といてくれんかね、なーんて、根付さんに八つ当たりもされた。預かり知らんわ。隊にも所属している子なのだから、隊員の監視をしろというのなら隊長の仕事だ。もちろん、C級のうちに芽をつんどけという話なのだろうが、無茶がすぎる。ほんと、こっちが落としても入れてくるくせに。
「あのとき辞めてもらっていればと思うか?」
「いやー、結果論だしなあ」
二宮くんの言う通り追随しただけだというのならほんとにどうかと思うけど、人を切らずに、撃たずに勝ちます。そう宣言したあの子は意志の強い女だ。とはいえ、それでは達成できないとわかったから、正式でない道をのぞんだのだろうけど。そしてその判断をした上層部もおかしなことを言ったわけではない。ただ、それなら先に言っといてやれや。とは思った。かわいそうだ。努力の方向性をまちがった先は、闇しか広がっていない。
「当時知らなかったとはいえ、あそこで辞めさせてたらもっと悪い結果もあったかもしれないよ」
「いや、その通り。悪い、見当ちがいな質問をした」
「玉狛の予知に“止められなかった”ならあれだけど、“止めなかった”んでしょ、きっと」
「……意外と大丈夫そうだな」
自分にむかって露骨にふりかかってこない、でもわりと近くで起こるトラブルはわたしの人生においてはちょっとしたイベントなのだ。心配よりも、ちょっとわくわくする気持ちのほうが大きい。こればっかりは、もうそういうもんだと割り切るしかない。軽めの悲劇のヒロインを演じられる可能性があることが、楽しいのだと思う。
「憔悴してればよかった?」
そしたら、洸太郎があの手(飲み会)この手(飲み会二回目)でも使って、わたしを励まそうとしてくれただろうか。それはそれでうれしかったと思うけど、他人の悲劇を自分のために使うことも、自分からすすんで悲劇を手に入れようとするのは、もうやめたのだ。意識して、やめているのだ。
「いんや、元気そうでなによりです」
「……もう、わたしを監視下に置かなくていいかもよ」
『俺がいつも、さんを見てる』──そう言われたのはもう二年くらい前の話だ。いかんせんメンヘラがすぎたわたしを心配してのことだったのだと、思う。他意があったかもしれないが、今そういった関係に至っていないことが答えであろう。
洸太郎はそんな、それでもわたしは額縁に入れて飾っておきたいと思ったことばを、自分が言ったことを覚えているんだろうか。
「いや? 俺はただ見てたいから見てんだよ。それに、」
「に?」
「今日は大丈夫でも明日は大丈夫かわかんねーだろ」
「はは、言えてる」
まだまだ信用されていないらしい。情けなく思うべきところだっただろうが、やっぱりくすぐったくて口元がゆるんでしまう。
「わたしも洸太郎のこと、ちゃーんと見てるよ。就活がんばってね」
口にしたことがなかっただけで、わたしだって同じ気持ちだ。わたしは洸太郎が見ていてくれるから、がんばれているのだ。もし洸太郎のことをわたしも見ていることで、洸太郎が張り切れるというなら、そうしてあげたかった。思い違いだろうか? でも、照れたように頭をかくとなりの男は、それを望んでいると思うのだ。その目線が同僚か友人か、恋人か。それはひとまず問題ではない。
「あっそうだ、DAZNの運営会社にでも入ってよ! 球団職員でもいいけど関西だとボーダーやめなきゃだもんね」
「さん、ろくに就活してねーくせによく言うよ」
「やかましいわ」