18
ただいま
木曜日の十九時過ぎ。人事部にはもうわたし以外の人影はなかった。今週はあと一日残ってはいるけどなんとなく、地味に仕事が片付いていなくて、左手で頬杖をつきながら右手でタッチパッドを操作し続けていた。ひとりきりのほうが集中できるから、この時間帯は嫌いではない。自分のスマートフォンから好きな音楽を流して、鼻歌まじりに仕事ができるし。こうして大声で歌ったっていいし。見ておきたい映像が多すぎる。開発室にもらった数字だけで判断してもいいけど、できる限り実際の動きと照らし合わせておきたかった。数字はうそをつかないけれど、それだけで判断されるというのはいい気はしない、ということを特別秀でていない凡人たちならみんな同意してくれるだろう。ほんとうに隊員が増えたものだ。コーヒーでも買いに行こうかしら、と思い立ったところで内線が鳴る。電話口で名乗られた名前はもちろんわたしが呼び立てたわけでもなく、めずらしい人物の来訪に首を傾げつつ、席を立って解錠した。
「風間くん、どうした?」
もう大学の提出物地獄は抜けたでしょう、と先々週あたりの諏訪隊作戦室での数時間を思い返す。わたしが勤勉な大学生でなかったことを差し引いても、卒業してしばらく経過してしまったわたしが手伝ってやれることはほとんどゼロだった。代わりに、語学系のレポートだけはDeepL翻訳を駆使して書き上げてやった。Google翻訳より精度がいいらしいが、そもそも正解がわからないのでその有能さに感動することもできなかった。
風間くんはポケットから缶コーヒーを取り出して、わたしに差し出す。わあ、残業中の女に差し入れですか。これ、ドラマだったら恋がはじまっちゃうけどいいのかな? ありがとう、と受け取ればもう片方のほうのポケットからは、風間くん用のカフェオレが出てきた。わたしとふたりで談笑でもするつもりなのか。立ち話もなんなので、デスクの上のノートパソコンと場違いなバラード曲を流しはじめたスマホをそのまま小脇にかかえて、会議室に手招きする。
立派なソファに腰掛けてから分析データでもほしいのかと問えば、それはそうなんだが、と煮え切らない返答があって、不自然な間が続いた。言い淀む風間くんなんて気味が悪くて、調子が狂うな。
「待つ、というのは実際どうなんだ」
いつからか風間くんはわたしに敬意を払わなくなった──敬語を使わなくなったというだけで、敬意は二刀流していたころより、むしろあるのかもしれない──けど、語尾は同級生以下に向けるそれと同じで、洸太郎の影響を受けてしまったんだろう。いや? でもまだ洸太郎のほうが敬語混じりに喋るよなぁ。やっぱり見下されているのかもしれない。
「質問の意図が不明ですが。とりあえず、わたしは風間くんを待った覚えはないんだけど」
「……遠征に行く人間を見送る側の気持ちだ」
ああ。と、わたしは合点がいく。わたしが待つのではなくて、風間くんの彼女が風間くんのことを待つことについて話がしたいのか。──えっ。恋バナですか? 風間くんが? あとで洸太郎に報告しちゃおうかな。
「……どうぞご安全に?」
「現場監督か」
意図はみえたけど、あくまでも自分の立場としてのお気持ちを表明させていただいた。あんたの彼女の気持ちはわたしには到底わからないし、それは頼むから彼女に聞いてやってくれ。わたしなんかにわざわざ恥を忍んで聞きにくる労力は、彼女へ向けてやってほしい。
「諏訪を待つと考えてみてくれ。そういう仮定の話は得意分野だろう」
「えーっ。洸太郎は彼氏じゃないし、ってかあいつ遠征行かないし、いろいろ無理があるね」
呆れたようなため息をつかれて、こちらもつき返す。
では試しに洸太郎が遠征へ行くと仮定しよう。わたしは一職員として、一友人として、その任務の無事の遂行を、帰還を願う。願うさ。それでも、帰りを“待つ”ことはない。
「まず、わたしが風間くんや洸太郎を待つことはできないわけね?」
「なぜだ」
「そりゃ、当然でしょ。待っててと言われてないから。わたしの元に帰ってくるわけじゃないから」
もちろん勝手に待つことはできる。でも、待つというのはそういうことではないだろう。待っていてほしいと思われていることに意味や価値があるのだ。自分の元をめざして戻る人がいるからだ。だから、風間くんが求めるお話は成り立たない。
「それを彼女には言えるよね。まぁ、直接言われなくても、彼女なら待てるし、彼女の特権だね」
みんなの彼女じゃなくても、わたしは遠征へ行く友人たちのことを心配している。応援している。風間くんも、太刀川も、冬島さんも、東さんも。もちろん仲よくはない隊員のことも等しく。ただ、もし、帰って来られなかったとして、それを嘆き悲しんだりする立場に自分はないとも考える。短期的にはゆるされるかな。でも、それが最後までできるとすれば、身内を除いて彼女くらいだろう。わたしは遠征へ行かないし、防衛任務にもつかない、ただデスクワークをしているだけの、一般職員だ。泣くなど、無責任にもほどがある。立場が違うのだ。
「風間くんは待ってろとは言わなさそうだな」
「そうだな。帰ってくる保証はできない。だめだったら呪いのようになるだろう」
「だったらさ、帰ってきたらいちばんに会いに行ってあげなよ」
「言われなくてもそうするが」
「あれよ? 雑務こなしてからじゃないよ? 上に報告したら、すぐよ」
したり顔から一変、苦い顔をする風間くん。そう、わたしは知っている。遠征から戻ってきたその日すら、あなたが本部に残っていろいろとやっちゃうってことくらい。たのしい遠足のあとだって疲れてさっさと帰りたいのに、命がけの任務帰りにそうしないなんて、狂ってるとしか思えない。けど、風間くんの彼女はそんな風間くんのことが好きなのだ。だからこそ、そんな人がすぐさま自分の元へ駆けつけてくれたなら、どれだけうれしいと思うか。
「それで、仕事の話ですが」
ちゃんとお仕事の話もあったのね、とほっと胸をなでおろす。彼女に関する相談をわざわざほかの女にする時間をとられるのは、彼女なら愉快ではないだろう。
わたしなんかの仕事が、A級さまのお役に立てるなんて願ったり叶ったりである。給料も役職も上がらないけど、必要とされるためであれば時間も労力も惜しまない。わたしの自己肯定感は他人によって保たれているのだ。きみたちあってこその、わたしの居場所だよ。どうぞ、ご安全に。
「帰るのか?」
怪訝そうな忍田の表情は上層部への遠征報告が済み、作戦室にもラウンジにも訓練室にも向かわず本部の出入り口へと向かって来るという動きをした風間に向けられていた。おかしなことではないが、風間の行動としては意外にうつったのだった。
「はい」
しずかにまばたきをする風間に、
「送ろうか」
忍田は乗用車での送りを申し出た。かくいう忍田も外出をしようとしていたからこそ、ここにいた。
「弓手町支部へお願いしたいのですが、構いませんか」
「問題ない」
なるほどな、と忍田はうっすらと考えていたことが確信に変わって、ほんの少し口元がゆるむ。隊員の恋愛事情については口を挟まないが、まったく預かり知らないこと、というわけではないのだった。
助手席のドアを開けた風間はシートベルトをしめて数分も経たないうちにまぶたが落ちてしまった。そんな姿にまた忍田は軽く喉の奥を鳴らさずにはいられない。二十歳そこそこ、ボーダーという組織に限らず大人ではあるが、それでも忍田からみればじゅうぶんに子どもである。高校生からずっと前線で競い、闘い続けた風間がふと油断する、という場面に忍田はこれまで遭遇したことがなかった。自分が上の立場であるから尚更だった。上司の運転する車に運ばれながら、眠ってしまう。かなり疲労がたまっているというのもあるのだろうが、こんな隙間を風間にもたらしたのはきっと、これから向かう先にいる女なのだ。
サイドブレーキを引っ張ってから忍田が声をかけようかとしたところで、ぱちりと風間は目をひらいた。
「……すいません」
忍田は寝てしまったことについて風間が謝罪を述べたと認識したが、次の瞬間に風間は運転席のほうへ身を乗り出していた。すいません、前失礼します、の意であったのだ。パーッパーッパーッパーッパーッとハンドルの中心で連打されたそれを、忍田は止めることもできず、ただ仰け反って驚愕のまなざしを眼前の頭頂部に向けた。
呼び出しの合図であったのなら成功である。見知った弓手町支部の防衛隊員が、忍田が今していたであろう表情を模したような顔で飛び出して来た。社用車の運転席の忍田に気がついた女は二度頭を下げたので、片手を上げる。揶揄うつもりも邪魔するつもりもなかった忍田は、助手席からのお礼の言葉と閉まるドアの音を聞き終わってから、レバーの位置を変えてアクセルをゆっくりと踏み込んだ。
“遠征艇”が戻って来たことはからのメッセージですでに知っていた。それを頼んだのは自分だった。
『帰って来ても、メッセージすらすぐ寄越さなかったんですよ』。忙しいのはわかるんですけどねえ。まあ、数時間後には会いには来てくれたんですけども。──付き合いをはじめてから、はじめて風間が遠征へ行ったあとの話をに愚痴れば、『べつにあんたも防衛隊員なんだから、本部にいれば?』『いやなんですよ、公私混同だと思われるのが』。少しの間のあと『じゃあ、遠征艇帰還したら連絡入れてあげる』とはグーサインを見せてくれた。
次の遠征時には宣言通りから[遠征艇帰還]とメッセージが入った。その文字をみて、背筋がすっと冷えるようだった。は、自分がこう思うことを最初から予想していたのかもしれなかった。遠征艇は戻った。でも、乗員がどのような状態なのか、人数は行ったときと変わりがないのか、自分の恋人はそこにいるのか、五体満足なのか、息をしているのか──。会わないと、触れないと、たしかめられない。もけっしていじわるでそれだけを書いたのではない。風間のことは自分でたしかめたいでしょ? 風間からの連絡や訪問で知りたいんじゃないのか? そういう気遣いにちがいなかった。
「さっき、戻った。本当に、さっきだぞ」
「あはは、すぐ来てくれたんだ。うれしい」
いくら人通りが少なく、弓手町支部の敷地内だからと言っても騒音を撒き散らした張本人であろうなぜだかやたらと誇らしげな恋人に、笑い声を出すしかなかった。
こんなこと、待つ側でない風間は考えたことがないだろう。それでもこうして、すぐに顔を見せに来てくれた。それはに何か耳打ちされて起こした行動でもよかったし、自分のことを慮ってのことであってもよかったし、風間がすぐにでも自分に会いたいと思ってのことであれば、よっぽどうれしいことだった。
「でもさ、ひとつ言ってもいい?」
「なんだ」
「ブレーキランプを5回、点滅させるんだよ」
「……そうだったか?」
「そうだよ。クラクション5回連打なんて近所迷惑な歌、ドリカムは書かないよ」
遠征艇の中って、音楽とかかけてるのかな? それとも車で流れてた? まぁ、なんでもいいや。
風間の手をとってその回数分、ぎゅっと握り込めば、リズムよく同じだけ握り返された。待ってたよ、おかえりなさい。