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海岸通り

今年は暦がよくて、なかなかの連休だった。もはや三連休など連休に換算したくもない。競走馬が次のレースに出られるくらい休んだ。すっかり鈍った体が重たく、馬なら調教失敗だ。クッションチェアを背もたれにもう何時間触りっぱなしかわからないスマートフォンは22:53を表示していて、着実にこの休暇最終日の終わりが近づいてきていた。
ほとんど昼夜逆転に近い生活をしてしまったわたしがこれからちゃんと希望するだけの睡眠時間をとり、所定の時間に起床できるかどうかはあやしかった。しかし、最悪寝つきは悪かろうと寝坊したということは社会人になってからいちどもないので、今回も起きられはするだろう。
とにもかくにも、まずは風呂だ。スマホ片手にぐっと上半身をのばしてのけ反れば、リアルでは聞いたことのない黒電話の着信音が端末からけたたましく鳴り響く。声にならない声が出て、反射的に握り直した拍子に通話ボタンをタップしてしまったらしく、大音量の音がやむ。画面を眼前に運べば、諏訪洸太郎の文字と一秒ごとに加算されていく数字。いそいでスピーカーホンに切り替え、
『今時間あります?』
すこしの雑音とともに洸太郎の問いかけが聞こえてくる。
「時間があるから、電話を取れたね」
うん、厳密に言えばちがうけど、まあいいか。
『じゃあ、あと30分後、家出れます?』
可能か不可能かで答えるなら可能である。5秒後に玄関のドアを開けることすらできる。ここでいう問題は、もう23時であるということと、明日わたしは年始一発目のお勤めである、ということだった。








[ちょっと遅れる]のメッセージから[ついた]と連絡が入るまでのあいだで、日付が変わろうとしていた。30分はちょっとじゃないだろ。と、ひとりぶつぶつ唱えながらエントランスまで降りれば、霧雨が街灯の光をあびてきらりと光り、黒塗りのセダンに水滴をくっつけている。小ぶりだけれど、雨がふっていた。カーテンをしめていたからまったく気がつかなかったな。
少しひらいていた運転席のドアがさらに下がってゆき、顔が見える前に白い煙がぶわ、と外へともれて、それが待っていた人物だとわかる。

「免許持ってたの?」 
「11月に取った」

小走りで反対側にまわって、ドアを引っ張り頭を下げて乗り込む。ばたん、と閉まる音に合わせてコートから腕を抜こうとすれば、後ろ置いていいぜと洸太郎が後部座席を親指で示した。体をねじって辛子色とブラックのツートンカラーのダウンジャケットを放って、シートベルトをしめてから、煙草を忘れたなということに思い当たった。まあいいか、喫煙者がひとりいればニコチンには困らない。ダッシュボードに転がっている箱を勝手に拾い上げた。

「よくもまあ、忙しいのに教習所に通えたね」
「営業とかなら、あったほうがいいだろ」
「なるほど」

履歴書に書き込む最低限の資格としての普通免許というわけか。
手元のスイッチでパワーウィンドウを数センチひらいて、火をつける。
まわりこんだときにみえたナンバープレートには「わ」ではないひらがなが表記されていた。この時間から友人から車をかりるということもないだろうし、これは洸太郎の実家に駐車されているものなのだろう。

「どこ行くつもり?」
「まあ、ちょっと走ろうぜ」

かけなおされたエンジンと連動してカーステレオからラジオが流れる。ケーブルはついていたのでスマートフォンをつなげてなにか音楽を流してもよかったけれど、景気のいいクラブで流れているような音楽とDJの声色がどこか居心地よくて、そのままにすることにした。一ミリも聴いたことのない洋楽に合わせた洸太郎の鼻歌に「なに、この曲知ってんの?」「いや、知らねー」。でたらめな英語にもならないことばを並べてリズムにのせ、かろうじて聞き取れる英単語で歌詞の意味を予測するゲームに興じた。

「てか、遅れて悪かったな。遅い時間だったし、雨の日の運転はやめとけとか言われてよ」
「よく言いくるめられたね」
「そりゃ、たくあ……」
続くことばに検討がまったくつかない音の羅列に、
「なんて?」
眉をひそめれば、
「……たくあんちゃんのために出すから貸せって言ったらばーちゃんが援護してくれた」

回答が提示されたようだが、それでも理解が追いつかず、しばしラジオの音と空調の音だけが混じる。
そうだ、わたしは洸太郎に結婚式の引き出物のたくあんを数本、実家に持っていけと押し付けたことがあった。たしかに、ばーちゃんがよろこんで食ってた、と報告をうけた。
わたしは車を出せと頼んだ覚えはないが、たくあんちゃんはわたしにちがいなかった。

「ばーちゃんがそう呼んでる」

呼んでる、ということは諏訪が実家へ出向くたびに、少なくともいちど以上わたしの話題が出たということか。たくあんを何本かお譲りしただけで、たくあんちゃんなどというあだ名をいただくことになろうとは。いや、むしろそれくらいしかわたしを識別する要素はないということか。まあいいか。

「いろいろやばそうなんだって、迅が言ってた」

近いうちに近界民がこちらへ攻め込んでくるということだろう。わたしにも覚えがあった。小型トリオン兵駆除に駆り出された日、玉狛の予知男に挨拶がわりにケツをまさぐられ、取り立ててリアクションもせず振り向けば、1月中旬の行動予定について問われた。気分が悪かった。この男がそういった調査をするというのは、そういうことなのだ。
普段とちがう動きをする予定をおそらく伝えればいいのだろう。有給を取ろうと思っている週を伝えれば、
「どーりで、おかしいと思ったんですよ」
「ちょっと日帰りで温泉でもいこうと思ってさ」
「年末年始に行ってくださいよ」
「年末年始、高いじゃん」
「いやー、さんって回避能力が……もはや、副作用なんじゃないですか?」
「だから、なによ」
「悪いけどそれ、とりあえず取り下げてくれません?」
というやりとりが行われることになったのだった。おそらくわたしが本来休暇をとろうとしていた週があやしいということだろう。


「こないださぁ、面倒事起こしたメガネいたじゃん?」
「おう」
「あれ、ほんとは人事部は切ってたんだよね」

ついでにそのとき、迅はわたしに、人事部をぞんざいに扱ったわけじゃない。むしろ落としてくれたからこそなんとかかんとかうんぬん、と、弁解をした。あっそう。としかわたしは返さなかった。完全にふてくされていた。当然だ。

「おまえが予知予知歩きして採用するやつ全員決めろよって感じ」
「面倒事を起こしたっつーことは、ボーダーに縁があるってことだろーな」
「そういうことになっちゃうのがまたなんともねぇ」

問題を起こせる人間というのは多くない。だいたいの人間はひっそりと任務を遂行するだけなのだ。目立つということは、迅の暗躍がみちびいた、なにかのきっかけとなる人物のひとりに違いないのだった。
ぽちぽちとまばらに水玉模様がついている窓に目をやれば、
「おっ、海だ!」
国道に沿ってひろがる海面がみえる。雨雲からのぞく月が、かろうじて水面であることをアピールしていた。

「海でテンション上がるタイプだったのかよ」
「夜の海はすきなの」
「水着できゃっきゃするタイプではねーわな」
「まだ長袖着てバーベキューのほうがいいな」

海を見下ろす駐車場にはいれば、二台離れた場所に駐車されていた。冬の、しかも夜中の海に来る人間といえば、地元のヤンキーくらいではなかろうか。
いつのまにか窓をつたっていた雨が小さく雪にかわって、桜のはなびらのように舞っている。張り付いても、すぐに水に変わってしまう。粉雪だった。
サイドブレーキをひいて、エンジンを切れば音もやむ。

「ちょっと歩こうぜ」

洸太郎が後部座席から自分のブラックのダウンジャケットと、わたしのそれを掴んだ。あら、きみもノースフェイス派でしたか。カナダグースとわたしは迷ったけどね。
羽織ったジャケットに雪がおりて、水滴になる。フードをかぶれば、洸太郎も同じように背中に手を回してそれを引っ張った。

「さっむ」
「こう、さみーとよ、おでんでも食いたくなるな」
「……なに? かまかけてる?」
「べっつに」
「あんた、行ったんでしょ。聞いたよ」
「やっぱ話しできる間柄なんじゃねーか」
「木崎くんから聞いた線はハナから除外なわけ?」

外に出たはいいものの、海岸沿いに街灯はない。待ち受けるのは暗闇である。やっぱり浜辺を歩くなら、夕日がさしている時間帯かな。
それでもふたり、ポケットに両手をつっこんで階段をおりる。半分ほどおりたところで、視界のはしにぱちぱちときらめく光がみえた。手持ち花火だ。そのうち、打ち上げ花火もあがるだろうか。ヤンキーというのは、派手なものがすきだからな。
最後の段差から足をはずせば、固いそれからじゃり、と細かいものが連なった感触に変わる。

「就職で県外出たいとか、ウソ。──いや、まるきりウソじゃないけどよ、行かないでーとか、さみしいー、とか、言われたかったってのもあったんだよ」

それは、さみしいに決まっていた。もちろん同僚として、友人として「さみしくなるね」と言えばよかった。でも、わたしは全力でその立場にいるわけではない。一方的に大切な人、そばにいてもらいたい人、そばにいたい人に、そのことばを発してしまったら、取り繕えないと思ったのだ。わたしにそれだけの演技力があれば、役者にでもなっていただろう。

「でもさ、仮にそう思ってくれたとしても、さんは手放しで言えるような人じゃないよな」

そのとおりだった。わかっているじゃないか。
片方のポケットからスマートフォンを取り出してライトをつけるが、洸太郎の手がのびてきて、手首をつかまれる。もう片方の手で消灯のボタンがタップされ、そのまま端末は洸太郎のポケットに連れ去られた。足元がよくみえなくて──といってもあるのは砂だけだが──頼りは月と花火集団が持ち込んだ、遠くの数個のライトだけだ。
手首をにぎった手がするするとすこし下におりて、指先をつつまれる。

「寒いから、来たかったんだ。手、握っても、自然かなーってな」
「自然なわけあるかい。恋人じゃあるまいし」

じゃあそうなろうか、と言える、自然な流れをお膳立てしてやっても決定的なことばはない。それがないと、甘えられないだろう。離れて行かないでと言えないだろう。でもわかる。洸太郎は今、あえて明言を避けたのだ。自分のためではない、わたしのために。
同時に、べつに、そんなことばはなくてもいいではないか、とも思った。あれもない、これもないと穴ばかりさがして、隠れようとしてもしかたがない。目に見えているものが、感じていることがすべてだ。

──明日、ってか今日、起きれるかな。