チラシ・勧誘お断りのステッカーを貼っていないポストには、色とりどりの広告が捩じ込まれている。
今日はボリューム満点のアメリカンサイズなハンバーガーがウリらしい店が三門市立大学の目と鼻の先にオープンしたことを知らせるチラシが一枚だけ入っていた。
分厚い肉と今にも溶け出しそうなチーズ。申し訳なさ程度の野菜。バンズに突き刺さる赤いピック。写真を見る限り、バーキンのワッパーなんて比ではない。もちろん、実物はさておき。
「すぐ潰れるあの場所に今度はハンバーガー屋ができたらしい」
隣で突っ立っていた恋人に紙を渡せば、
「へー。前はラーメン屋だったっけ」
「それはパンケーキ屋の前だな」
「あれ、そうだっけ。わたしが卒業したときは、なんかよくわかんないアジアンな雑貨屋さんだったような気がする」
つまみ上げた紙を目の前のダストボックスの上に運んでぴっ、と弾いた。ハンバーガーがひらりと舞う。
さて、今度の店はどれだけあの地で生きていけるだろうか。基本的に三門市立大学の学生は格安でそこそこの味を保証してくれる学食を利用する。パンケーキ屋は一年と保たなかったような記憶がある。
飲食系で出店するなら、少なくとも長居する学生を許容してもらわなければ難しいだろう。ファミレスなら続きそうなものだが、地主と折り合いでも悪いのかもしれない。
「冷やかし行くか?」
「えー……パス」
色よい返事をまったく期待していなかったので、とくに落ち込むこともない。とっくに大学を卒業し、ボーダーの人事部に勤める彼女にとって、学生でごった返している大学付近はわざわざ訪れたいような場所ではないだろう。
ポケットから鍵を取り出して鍵穴に入れる。半回転させれば、エントランスの自動ドアが静かに開いた。
「行ったろ、ハンバーガー屋」
「え?」
きょとん、という効果音のつく表情は、このことを言うのだろう、と感心したくなっていた。それから煙草を右端にくわえたまま、彼女は眉をひそめる。
防衛任務終わりに風間、レイジ、太刀川との立ち話の流れで大学の前のハンバーガー屋の話になった。「そういや、東さんが人事部のおねーさまと行ったとか言ってた。あの人ら、意外とミーハーだよなあ」と情報を寄越したのは太刀川だった。
ちなみに、風間がわずかに渋い顔をしたのと、レイジがこっちに視線を寄越したのはわかっていた。それでも俺は、なにも聞かなかったかのようにその話を深掘りすることはしなかった。結局、こうして本人に問いかけている時点で情けない話なのは承知だ。
ああ、と彼女は思い出したかのように発声する。いったい、なにを今まで忘れていたというのだろうか。その場所へ行ったことなのか、それとも、そこへは俺にも誘われていたことなのか。
「コアラが、東さんがまた研究室に篭りっぱなしみたいだって心配してたから、大学まで行って連れ出したんだよね」
日曜日は学食もやってないしね、と不可抗力だとでも言うように彼女は煙草をふかす。呼応するように喫煙ブースの換気扇がごうごうと鳴る。
「……なに」
「……べつに」
卒業生の女がなぜ簡単に大学構内に侵入できるのか。おそらくはトリガー研究室の鍵を人事部か総務部の権限で所有しているのだろう。
なぜコアラはこの女に頼るのか。それは、彼女と東さんの良好で、一見強固には見えない、でも確かな信頼関係を知っているからだった。きっとコアラだけではない。同じ状況になった東さんと親しい人間であれば、彼女に話をしたくもなるだろう。想像に難くない。
この期に及んで、ふたりのあいだになにかを疑っているわけではなかった。そこまで理解していて、どうしてスルーできないのか。続けることを放棄した会話の間に、すでに煙草の箱を壁に投げつけたいほどの後悔に苛まれていた。
「……だって、ああいう大っきいハンバーガーって、食べにくいんだよ」
彼女は灰皿に煙草の先端をこつこつと当てながら、沈黙を破った。
「かじりついたら口の周りベトベトになるし。じゃあ、ナイフとフォーク使うか、ってなっても、きれいに切れないし。バンズについた歯の跡とか、ちょっと気持ち悪いし」
「……んなもん、誰と行ったっていっしょだろ」
俺とは行かずに、東さんとは行く理由にはならないだろ。
言い切れなかった。そこまで言ったなら言えよ、とここにはいない不特定多数の誰かに脛を蹴られても文句は言えない。
「もー! みなまで言わすな!」
俺は持ち合わせていなかった勢いで、ぐいぐいと両肩を押されて壁に追いやられる。
「だから、そういうの見られたくないの! 洸太郎には!」
あと、コアラもいたし! 三人だし! と壁に押し込もうとするように暴れ続ける彼女とは対照的に、俺は不思議としんしんと降る雪のような静けさを噛み締めていた。
「……たしかに口、小せえよなあ」
彼女の口角に親指を引っかける。ぐ、と口内から頬を突く。なにをいまさら。汚れた口なんて、見慣れている。いつも、この小さな口で────
「……あー……今すぐ抱きてぇ……」
「ちょっ、もっ、ここ、どこだと思ってんの!?」
手首を掴んで口元から引き離したと思えば、彼女は俺の親指と人差し指のあいだに移った淡いピンク色を荒っぽく自分の指先で拭き取る。
撤収、撤収! と地ならしでも起こしそうな足取りで彼女はブースのドアの前に進んだ。そしてすぐにくるり、と振り返り、
「……今日仕事終わったら、また会える?」
小さく首を傾ける彼女に、断わりを入れる言葉なんて選択肢にあるはずがなかった。