締め切られているシャッターを左馬刻がガンガンと握った拳で叩く。がなる鉄と向かいの居酒屋からの酔っ払いの声が重なる。
耳を傾けても聞きたい音は内側からは聞こえず、左馬刻は取り出したスマートフォンのロックを解除して二度タップする。4コールで相手から切られた。そうなることがわかっていて、左馬刻も端末を片耳に添えることはしていない。
液晶が映し出す時刻がまたひとつ数を変えるのをみたのと同時、ガラガラと半分だけ引き上げられた鉄と地面のあいだから間接照明の明かりがこぼれた。
「営業中に来てって、いつも言ってるのに」
部屋着に似合わず化粧が施されたままのが顔を出し、抗議ととれる表情を左馬刻に向ける。
のいうところの営業中とは、月曜日〜火曜日、木曜日〜日曜日の11時から20時のことであるということを、左馬刻は知っていたが、現時刻は日付をまたいで水曜日だ。
「入間くんは仕事抜けて、ちゃんと営業時間に来るよ」
仕事を抜けると言ったって、社用車で管轄外のカワサキまで乗り付けられる自由人はもはや組織に所属している一般の人間とは違うだろう。
引き合いに出された名前に左馬刻は舌を鳴らすが、は気に留める様子もなく背を向ける。気分を害したことをアピールした男もまたおとなしくそれに続いて、後ろ手でシャッターをおろした。
「だから、定休日前に来てやってんだろうが」
遅く来ても次の日休みだろ、と左馬刻は言いたいらしい。
どさり、と紙袋─── 組に置きっぱなしになっていたおそらく質のよい白ワイン(実際、銃兎が欲しがった)舎弟がフクオカ旅行のお土産で買ってきた2〜3人前のモツ鍋セットが入っている────を、レジ横の空いているスペースに左馬刻が置く。
「そういうことじゃないし、そもそも、もう今日が定休日っていうか……」
は袋の中身を軽くつま先を立てて覗くと、まぁいいかと言葉を続けることを放棄した代わりに、いつもありがとう、と目を細めた。
そのまま奥に引っ込んでいくと、蛇口からシンクに水がながれ落ちる音が響く。左馬刻は胸元のボタンに手をかけて、脱いだシャツを籐のカゴに放り込んだ。
の本業は鍼灸師だった。5階建てのビルの1階にの経営する鍼灸院はある。1階だけが店舗で、隣は不動産屋だ。出入り口は1箇所なので、さきほど左馬刻があけさせたシャッターは不動産屋のものでもあった。2階から5階までは住居で、はこの3階に一室借りて自宅としているらしい。ちなみに左馬刻がそこへ出入りしたことはない。
深く考えるまでもなく、もれなく不動産屋のバックにはカワサキのヤクザがついているだろう。なぜここに流れ着いたのかと、わざわざ左馬刻はに聞いたことはない。が古くからそういった界隈と縁があり、懇意にしてもらっているのは明らかだった。
「ついにM&A成立かあ」
タオルで手を拭いながらまた姿をあらわしたはベッドに腰をかけていた左馬刻の横にある、施術用品が並べられているワゴンの前へ足を運ぶ。
「いつからヤクザはイチ企業様になったんだよ」
左馬刻はベッドにうつ伏せになり、鼻で笑った。
カワサキで1・2を争う海川組と、中堅どころの木鳥組が組む。周辺の組や警察内部はその一報に慌ただしくしていたが、火貂組、そして銃兎については例外だった。その初動はほかでもないから、左馬刻と銃兎に伝わっていたからだ。
「大きいの、久々に起きそうだね」
クソガキでも想像できる展開ではあるが、予感ではなくて、ほんとうはある程度の濃い根拠をはもっていて、そう言っているのだろう。
銃兎はわざわざ女・子どもを渦中に巻き込んで情報を引っ張ってこさせるような真似をしない。だからもちろん、銃兎がにそれを依頼することはない。
ただ、は彼女の生活を送っているだけで、小さいことから大きいことまで耳に入ってくるのだ。それをが彼らの不利になる立場の人間たちに口外しないという暗黙の了解があるからこそ成り立つ関係なのだろうから、この情報のやりとりが露見した場合どうなるのか。想像できないことではなかったが、左馬刻や銃兎がなんらかの策を講じてやるようなことでもない。よっぽどのほうが弁えているだろうし、一発アウトな案件には口をつぐんでいるはずだ。
だから、銃兎にとっていい情報源であること───もっともそれは左馬刻にとってもだが───をあれこれ言うつもりはなく、なにより以前、人を選べと文句を垂れたのは左馬刻だった。
が左馬刻の肩をなで、ぐっと力が込められた指先はいくつかの凝りの塊を難なく探し当てる。そのまま、するすると背骨を伝っておりてゆく指先も同様の動きをし続けて、一瞬離れた手がアルコールが染み込んだ綿で首筋を冷やす。つんつんと細い鍼が奥へと進んでゆき、にぶい重みが首元の深くに響いた。
「海川組といえばさぁ」
でた。昔話。バアさんかよ。左馬刻は脳内だけでツッコミを入れながら目を閉じる。
この、いつもの血が通っているようで他人事な、聞いた話をまとめたアルバムをぺらりとめくって、目に止まった事柄について解説するような界隈の話の正誤はわかりゃあしない。
先週は、学生の体育祭の日を狙って山中で仕入れた銃の試し撃ちをしていた、なんて話だった。競争開始を告げるスターターピストルに合わせれば誤魔化しがきくとかなんとか。ときにはお試しではなく本番なこともあったとかなんとか。今はなんだ、合唱コンクールにでも照準を合わせてラップか? そんな呆けたことを言って、ふたつの笑い声が転がっていた。
「組員が目立つことやらかすと、熱り冷めるまでニイガタに逃げてたんだよ」
1本刺すごとに紡がれる言葉はリズミカルだ。
それこそ渦中の木鳥組の支部がニイガタにあったという話は聞いたことがあったが、海川組もだったとは。
海の近くは悪事・悪人の吹き溜まりだ。船という輸送手段がそうさせるのか、人も物も流れ着くのだ。この島の部外者である海を渡って来た人間は、内陸には来られず、押しやられ続けてそこで群れをつくるしかない。中華街はまさにそれで、あぶれた奴らが集っている。
「でも、床屋は行きつけがいいって、こっちに戻ってくる人がいたの」
「ヤクザが床屋に戻るなんて都市伝説じゃねぇのか」
救いようがねぇバカだな。
ハッ、と口から息がもれる。ベッドに敷かれているタオルに息が染み込んで、口と布の隙間が生ぬるい湿気をはらむ。
「止めたわ。バカなんじゃないのかって」
でも、行ってしまった。
ぽつりとつぶやかれた言葉はその先を紡がなかったが、床屋でしょっ引かれたとでも言うのだろうか。
そんな間抜けな光景を思い描いてはた、と違和感を覚えた左馬刻はまぶたを開く。の口から発せられた彼女自身の存在に気がついたのだ。は今、自身の影が昔話のなかに登場したことに気がついていないかもしれない。
てっきり、はずっとヨコハマ周辺で暮らしているのだとばかり考えていたが、今の文脈を正とすれば、はニイガタにいたことになる。左馬刻はのことをすべて知っているわけではないという至極当然なことを、思い出した。
「習慣なんて、つくるべきじゃない」
にはことば選びを誤った自覚も、それを左馬刻が聞き漏らさなかったという確信もあったらしい。強引な軌道修正をすることを放棄し、はその前提で話をすすめた。
この場所のこと。定休日前のこの時間のこと。左馬刻くんの小さな、だけど確実な足枷になる。はそう言って、また1本鍼を刺した。
ヨコハマはどう贔屓目にみても平穏な街ではない。しかし、がきらびやかに、軽やかに、そしてしたたかに生きた過去と比較すれば、現在のこの世界はずいぶんとゆるやかに思えるのだろう。
そう、こんな堅気かのような習慣をもつ左馬刻のことも。
「もう来んなって言いてぇのか」
空調がにぶく部屋を振動させている音だけが束の間、店内をふるわせる。
曖昧にひかれたボーダーラインをこえたいと思ってしまったら、その踏み出した足先からなにかが崩れていくという可能性を、左馬刻も心に留めていたはずだった。ただ、実際にそれを思い起こして引っ張り出して、はっきりと自制する機会が今まで訪れていなかったというだけで。
の失った、手の中にあったものを、大きさを、重さを、左馬刻には想像することしかできない。
それは同時ににも言えることだった。左馬刻にだって、自分の手を否応なく離れていったものくらいあったが、に左馬刻のすべては理解しようもない。
関係の短さや浅さとかそんなことではなく、ふたりがひとりになれない限りしかたのないことであるのに、どうしてもその現実はかなしさをはらむ。
首筋や背の鍼に構わず、左馬刻はその色をかき消すように腕に力をこめて施術台を押した。
「来てほしいよ」
ごめん。来てほしいと、思うの。
先刻の忠告と矛盾する希求を謝罪する声に左馬刻は耳を疑った。売りことばに買いことばを返し、この場を去る展開を思い描いていた。意表をつかれた。
左馬刻はうんともすんとも言えず、突っ張っていた腕をゆるめてまた身体を沈める。出しかけた手を引っ込めるしかなかった。
まったく候補にあがっていなかった返答ではない。左馬刻はできることならばに自分のことばを否定をしてほしかったからだ。
可能性の極めて低いことではあったが、まったく期待していなかったわけでもない。ワイン1本と2〜3人前の鍋を差し入れする男。部屋着に着替えているのに化粧を落としていなかった女。それが渇求を起こさせても、なにも不思議なことではなかったからだ。
ぱたり、ぱたり。スリッパが床を鳴らす音が遠ざかっていく。
これまでいつだって鍼を刺して放置する時間はベッドの横にスツールを転がしてきて座り、気の向くままに話をしていただろう。頼むからそんなにわかりやすく動揺して、それを隠し切ろうとして、戻ってきたらはい、元どおり。なんて茶番に付き合わせないでくれ。
この腕は今日に限っては、否、に対してだけは、抱きしめるためにあるのではないか。左馬刻はまた、緊迫感の足りないことを考えていた。
だからなんだと言うのだろうか。一時の安穏に身をゆだねて、永遠の安寧を望んで、なにが悪い。