軽くない、けど大きくはない落下音がして振り返る。灰皿が空を飛び、着地したのだということを楕円型の黒い器と灰がフロアにひっくり返っているのを確認し、理解した。
そうしてほとんど同時にテーブル席についていたふたりの男が椅子を引いて、おたがいに飛びかかる。掴む、殴る、蹴る、投げる。荒々しい言葉や打撃音が店内に流れている有線に加わった。うんざりした。
カワサキ界隈で急遽取引があるらしい。数時間前、電話口で声をひそめていたのは銃兎だった。俺を拾いに来た車に乗り込んで現場へ向かったが、待てど暮らせど待ち人来ず。空振りだった。
情報提供者を見る目を養えや。ジッポー片手に毒づけば、罠じゃなかっただけマシだろ。悪びれる素振りもなく、銃兎は運転席と助手席のドアガラスをボタンを押して数センチだけ開いた。
行き場のない燻るものに苛立っているのは俺だけではない。それ以上は何も言わなかった。今日はいろいろと引っ込められる余裕がある、我ながら比較的めずらしい日だった。
一杯ひっかけていくか。おい、俺は飲めないぞ。
呆れる銃兎にコインパーキングへ駐車させて、下品なあかりが煌めく商店街を歩く。適当に見繕ったビルの二階に入居していたこの店にはやたらと恰幅のよい男たちばかりが集まっていた。
4人掛けのテーブル席が3卓、カウンター席が10席弱。こじんまりとした店内は居酒屋ともスナックとも定食屋とも形容し難く、女の従業員しかいないカウンターの奥にはそれなりな厨房があり、そこでは男も働いているようだった。事務所だらけのこのあたりでヤクザが噛んでいない飲み屋を探すほうが難しいのだからさほど気にはしなかったが、このご時世にしては随分と荒れているというわけだ。
「おい、ビール」
栓抜かねぇで瓶ごと寄越せよ。
おしぼりと一緒にハイスピードで出てきたお通しをつまんでいた箸を皿の上に渡して、片手をカウンターにつき腰を浮かせる。目線は軽く男たちへ向けながら目の前の女に要求すれば、銃兎が俺の腕を掴んで静止するよりも早く、女が顔の前に腕二本でバツ印をつくるのを視界の端に捉える。視線をカウンター内に切り返すと、女の丁寧に縁取られたふたつの目が細く弧を描いた。
「満タンで殴ったら死んじゃいます」
少し飲んで減らしましょう。あと、側頭部ではなく正面からお願いしますね。
女はそう言って背後の冷蔵庫からひょいと引っ張り出した瓶ビールの栓を抜く。未開封の瓶で側頭部から殴ると死ぬ。その条件は女の経験則から来ているのだろうか。
そもそも、殴るなよ。
銃兎は差し出しかけていた手を引っ込ませながら喧嘩への介入を、女と同様に否定した。
流れ作業でコン、コンと並べられた、下に向かって細くなっているビアタンはふたつ。ちら、と女が銃兎に目をやれば銃兎は首を振り、烏龍茶をオーダーする。それでもビールが注がれるであろうグラスはひとつ減らされず、当然の如く女も飲むらしい。
カウンターの端のパイプ椅子に腰掛けて競馬新聞を広げている膨よかな年増の女も、それと比較するからか余計に華奢に見える目の前の女も、他数名の男性客も、動じることも、静止することも、厨房やカウンターに座る男たちに仲裁を求めることもなく、もはや注視すらしていない。ここではよくあること。慣れているのだろう。
女はそう言うかのように、ただ高い位置からグラスにビールを注ぐ。じわじわと真っ白な泡だけが八分目まで到達し、女は瓶を引き上げる。その動作を黙ってながめながら、ふと自分が中途半端な体勢で立ち上がっていることを思い出し、ため息とともに腰を再度落ち着けることにした。
「ここ、オキナワにルーツのある方が多いんですけど」
「……極竜會か」
女は組名にひとつ頷くと、瓶を置く。背後から放りなげられて足元に転がってきていたメニューを銃兎が拾い上げた。ペラ1のPP加工されたそれにはゴーヤーチャンプルーやらラフテーやらといったそれらしい字面は見当たらない。くるり、と手首をひねるが、裏面は真っ白で、ところどころ煙草の火で溶けているだった。
女は背中を向け、寸胴なグラスに氷をひとつ、ふたつと放り込んで2リットルのペットボトルから烏龍茶を注いでいる。
「土地柄、血の気が盛んだと?」
女はこちらをみていないのに、外向けの笑顔を貼り付けながら銃兎が会話を受ける。振り返った女はふふ、と笑みを漏らしていて、肯定も否定もしない。
弁償もしてくれる。従業員と関係者でない人には危害を加えないように配慮してくれますけどね。
そう言って、神さまたちへのフォローを忘れなかった。
「オキナワの高校生は、水産高校の奴には気をつけろって言うんですって」
なんでも、喧嘩に銛を持ってくるんだとか!
銃兎にグラスを手渡しながら、水産高校ならではの武器ですよねと目を細めた女は、もう一度瓶を手に取る。一切の武器は禁じられているが、銛は漁師の商売道具だ。規制範囲ではない。
いつのまにかグラス内には黄色の割合が増えていて、女は細くビールを足してゆく。きめの細かい泡がグラスの口から盛り上がって、ゆるゆると少量あふれた。女はカウンターに用意されていたハンカチで底を拭って、黄金比のビールグラスをひとつ俺の手元に置いた。
「名前は」
「です」
「ここ、長いのか」
「いえ。たまにヘルプで入ってるだけですね」
じゃあ、かんぱーい。間伸びしたの声に3人はグラスを突き出した。
もう水商売も稼げる仕事じゃないですから、人手が足りないんですよ。
は上唇にうっすらとくっついた泡を舌で拭う。昔はここに限らずとも水商売をやっていたということかもしれない。改めてまじまじとその姿を確認するが、20代と言われても30代と言われても、へえ、という感想しか出てこない、年齢不詳の容姿をしていた。
カウンターにそのまま引き取られていたメニューをが指差す。なにか召し上がりますか、と問われる前に、ピザ。さっき見た文字の羅列で覚えていて、そそられた単語を、銃兎に確認もせず告げた。
では、わたしはナポリタンで。なんでだよ、一緒にピザ食えや。別に違うものをオーダーしたっていいだろ。てか、がっつりメシ食うのかよ。飲酒運転はできないのでね、食事くらい楽しませてください。
「昔ね、どんな争いごともすっとおさめてしまう人がいたんです」
オーダーを記載した日めくりカレンダーの裏紙を厨房に渡して、ふたたびカウンターに向き直ったは、突然昔話を始めるらしい。少なくとも俺たちは急なことだと感じたが、には自然な流れだったのかもしれない。そう思わせるくらいに、の所作には無駄がなかった。
飲んでて連絡が入ったら、ちょっと席外すわと出て行って、2時間くらいしたら本当に戻って来る。身体に傷をつけて帰ってくることもない。昔のヤクザは目ん玉だって平然と指で潰して、片腕だって関節から器用に切り落とした。それが普通だったのに、彼は手を出さなかった。それを信条としていたのだと思う。
まだひと口しか飲んでねえのによく喋る女だな。喉まで出かかった揶揄いの言葉をビールと共に流し込む。この手の───同業の───話に興味があるか、といえばそれはノーだ。
ただ、この女が、おそらくは俺が足を踏み入れる前からこの世界に浸からずとも、飛沫を浴び続けている女の話すことには、多少なり惹かれるところがあったからだ。口を挟まず、小皿に手をつけている銃兎もおそらく同意見だ。
「その人がある日、人を殺めてしまったの」
仕方のないことだったと、その場にいた人はのちにわたしに話して聞かせた。手を出さないからといって武闘派でないということではない。素手で殺した。殺すつもりは、もちろんなかった。4年刑務所に入って出て来たが、人殺しになった事実を悔いていた。そうして、まともに握ったこともなかっただろう拳銃をこめかみに当てて、自殺した。
「なんでそんな話を俺らにすンだよ」
なんでもなにも、俺らがヤクザであったり警官であったりすることを知っているからだろう。聞くまでもないことだった。ただ、がわざわざ一見の客に、わたしは普通の子とは違って結構精通してるのよ、とお門違いなアピールをして、特別視されたがったり、同等に扱ってもらいたがるそのへんの嬢と同じだとは到底思えなかったのだ。
なんとなくタイミングを掴みきれずに、放置したままだった箱に手をかけようとして重ねていたジッポーが乾いた音を立ててテーブルに落ちた。銃兎もその音で習慣を思い出したのか、ポケットの膨らみに触れる。
「少しその人と、似ていると思ったの」
「それはそれは。わたしですか? 彼ですか?」
「まあ……」
役割的に、碧棺さんかなあ。
このあたりの人間が俺の名を知っていることになどいまさら驚かない。ビールを飲み込むの喉が上下する。顔面の話じゃなかったんだな、と思った。指名されなかったならもう俺はいいだろう、とでもいうように銃兎はケースをこんこんとテーブルに数回落として煙草を一本つまみあげた。
「意味わかんねぇこと言うんじゃねえよ。俺は手も口も出すぞ」
「そうかもしれないですけど」
人と違う道を歩むのは大変ってことですよ。
がカウンターから身を乗り出して、真鍮の塊を掴む。いつのまにか平穏を取り戻していた店内では、が擦ったフリントの音がやけに響いた。