※『感想戦』と同じ夢主ですが、読んでいなくても読めます。
深夜一時。警戒区域にほど近い雑居ビルの六階にある雀荘に足を運ぶ人間は多くない。メンバーになって一年以上経つが、満席御礼の場面に出会したことはなかった。今日も常連たちが囲む一卓しか稼働していない状態が続いていて、店長は三十分くらい前から外出中。近所のコンビニへ買い出しに行ったには長いが、いつものことなので気にしない。
三つのゴミ箱の中身を移動しながらまとめて袋の口を縛る。非常階段に続くドアノブを右手でまわして、身体の側面を思い切り押し当てた。換気扇では追いつかず室内に充満していた煙草の煙が、我先にと噴き出す。
暖房の熱気とともに吐き出された先、手狭な踊り場に設置されている灰皿の横で、地面にお尻をつけずしゃがんで片手でスマホをいじりながら、もう片方で煙草をつまんでいる男が、顔を上げた。
「店長、戻ったん?」
熱のこもった身体に深夜の空気が染みる。耳障りな音量で閉じた扉の音と、声が重なった。
薄暗闇のなかスマホに下から照らされている顔が不気味にひかり、そしてすぐに手元に戻される視線。ゆるめられたネクタイがだらしなく首元にぶら下がっている。
「まだ。代わりに今、冬島さんたちが来た」
がさりとわたしの手から離された事業系ゴミ袋が鳴る。
ゴミをまとめたのはついでだった。店長不在につきメンバーはわたしと彼だけ。だから二卓が埋まろうとしている今、わたしは休憩に出ていた彼を呼び戻しに来たわけだ。
開発室で、雀荘でバイトをはじめたのだとパソコンのキーボードを叩きながら告げたとき、横で同じようにしていた冬島さんは驚愕の表情をうかべた。声に出さずとも、困惑や心配がみてとれた。もはや冬島さんは先輩とか上司というよりは、父親とか、兄とかだったからだ。
基本的には日中暇なときに入るだけで、夜勤だとしてもだいたい水上もいるし、おたがい住居はボーダー本部内なのだし、シフト一緒の日は帰り道も問題ない。そう、ていねいに教えてやると、いくらか納得した様子をみせた。
そうしてわたしが働き始めて数日後にはさっそく、東さんと諏訪さんと太刀川を連れて来店し、その後も忘れたころに同じ面子でやって来る。
「本部でやったらええのに」
「ここんとこ会議続きで缶詰やったみたいやし、息抜きやん?」
狼煙のようにあがっていく煙がよりいっそう、彼の気だるさを際立たせる。もっとも、彼がそうでないときというのを探すほうが一般的にむずかしそうではあった。
太ももをくっつけてタイトなミニスカートから下着が覗かないよう屈んで、呼び出しに応じる気配を微塵も感じさせない顔面と端末の間に手のひらを広げて伸ばす。スラックスのポケットにもぞもぞと手を突っ込んで取り出された箱が、流れ作業のように落とされた。
蓋を押し上げて一本つまんで唇のあいだに挟み、吸い殻と化してしまい不在になった煙草の本数分あいている隙間に収納されていた使い捨てライターを引っ張り出す。ヤスリとフリントが擦れて火が灯り、吸い込む。煙草に火が移ったのを確認して、口から離し煙をはいた。
「で、ワン欠なんで本走よろしくどうぞ」
ライターを仕舞ってから持ち主の膝に箱を置けば、折り畳まれている脚を伝ってコンクリートに着地した。
不時着した箱を拾い上げる手を追って、ちらりと見えた画面には将棋の盤面が表示されていた。どうやら棋譜を再生しているらしい。そういえば昨晩イタリアンバルで、明日の竜王戦がどうとかこうとか、言っていたっけ。
多少アルコールで溶かされていた会話の記憶をたどりながら中腰でとなりまでにじり寄って、手すりに背中を預ける。
「さんが入ったらええやん。ってか、なんで?」
冬島、東、諏訪、太刀川。ボーダーの麻雀面子として、とりわけここにやって来るリストに名を連ねているのはその四名なのだから、それで完結するはずだろう。なぜひとり不足しているのか。と、彼は言いたいのだ。
「太刀川、卒論ひと文字も書いとらんから忍田さんとこ置いてきたって」
「置いてきたとてあの人、やらんやろ」
「まあ、それはそう」
ストーブの灯りに雪がひっついているような煙草の先端をぼんやりながめながら、そういうわけでわたしと交代。はやく行って。と、片手で肩を押すが、となりの男は頑として動かない。
あきれてひとつ煙にため息を混ぜたとき、ドアノブがまわされる音がする。視界の右端に明かりと、数分前に来店していた諏訪さんがうつって、くわえられている煙草が上下した。
「なにふたりして油売ってんだよ」
「身内なんやし、ちょっとくらい待っといてくださいよ」
となりでコンクリートに煙草の先端を押しつけながら彼が言うことはメンバーとして正しくはないだろうが、実際、融通がきくのは確かだ。それでも諏訪さんがわざわざ席を立ったということは、なにかあったということ。まあ、そのへんも臨機応変にそっちで対応してくれや、という意図も彼の発言には含まれていたんだろうけれど。
案の定、代走お願いしたいってよ。と諏訪さんが親指を背後にくいくい、と二度指し示す。
「あー、俺、代走いややねんなあ」
「いやとかないだろ、仕事しろ」
「ちなみに、誰ですか?」
「窓際のにいちゃん」
「あ、彼女との電話やん! 長くなるやつ!」
だらだらと各々所感を述べながら職務放棄を続けるわたしたちに仕事だろと、諏訪さんが同じことばをリピートする。
「諏訪さん、代走の代走、お願いします!」
「んだよそれ」
「あとで煙草一本あげます! 水上が!」
「せめて一箱だろ」
「なんとっ! 本日は特別にもう一本ついてくるっ!」
「朝方の通販番組には数時間早い」
しっかりとツッコミを入れてくれた諏訪さんは、いいけどそれ吸ったらさっさと戻れよ。と言い残しふたたび重たいドアを引く。
諏訪さんはべつに煙草が一本から二本に増量したから依頼を請けたのではなくて、ゼロ本だったとしても馴染みの面子以外と卓を囲んでくれたはずだ。
不法投棄されたままの吸殻を拾い上げ、ハイヒールの接地面を意識しながら立ちあがる。こうなれば必然的に冬島さんと東さんと麻雀をうつのは取り急ぎわたしたちだ。
手すりから身を乗り出して三門市を見下ろした。遠くにミニチュア模型のように繁華街のライトがちらちら瞬いていて、視界がぼんやりとにじむ。このビルから反対側がみえたのならば、一面真っ暗闇のなか、警戒区域にそびえ立つボーダー本部基地しか確認できないだろう。
「敏志も、行こ」
吸殻を灰皿に放りこみ、口から離した自分の煙草を灰皿にぐりぐりと押し付けていれば、長い腕が伸びてきて手首をつかまれる。ぐ、とにぎる手に立ちあがろうとする意志を感じ、ひしゃげた煙草から指を離す。つんのめらないようにコンクリートを踏みなおし、手のひらをにぎりこんだ。
腕にのった他人の重みと引っ張りあってネクタイが視界に入った矢先、すぐにその景色は変わった。頬に冷えた鼻先がかすめて、唇に同じ温度がほんのわずか落とされる。
まぶたを落とす時間すらなかった。余韻など皆無。目の前にいた男はすでに手も離してドアへ向かって一歩、進んでいる。
「東さんが抜けてくれたほうがよかったよな」
「……まあ、諏訪さんも神がかっとるときはすごいけども」
べつにこんなんいつもやっとることやん、場所がちゃうだけで。とでも言いたげな猫背気味の背中がわたしを否応なく浮き上がらせる。敏志の左脚がストッパーとなって開け放たれているドアの向こうの明かりが眩しくてぎゅっと目をとじた。
ネクタイを締め直そうと動く手の甲に浮き出る骨や筋が、わたしの手指にからみつくその手の感覚を呼び起こす。今日も本部の小さな自室でひとり眠りたくはないという心算と、いささかな嫉妬の色だけが、唇にはっきりと移って、残っていた。