廃棄の弁当や惣菜をコンテナに放り込んで、ひとつ、丼ものだけは別にボロボロの紙袋に突っ込んだ。バックヤードのパイプ椅子に腰掛けている夜勤の交代時間を待つ初老男性が近頃気に入っているものだった。男はそれに気がついて、はにかんでお礼を述べる。かわいらしい男というのはどの世代にも一定数いるものなのだと、水上はその顔を向けられるたびに、同世代のそういう男の顔なども思い浮かべる。
自動ドアの開閉を告げる音が鳴りレジに戻った水上は、出入り口をくぐってすぐ右の端に設置されている冷凍ショーケースを覗き込んでいる女の姿をその目に捉えた。ふと視線をそらした先のレジの液晶に表示されている時刻は午後九時五〇分を表示している。
聞き飽きたという感情すらもはやわいてこないラジオ形式の店内放送がスタートするのに合わせて、すっかり覚えたDJの出だしの挨拶を口だけ動かしてオーバーラッピングした。
警戒区域外とはいえ、その外縁に近い立地のコンビニの利用者数はけっして多くはない。客単価も低い。それでもここはそうそう潰れることはないだろう。売上度外視。オーナーの慈善活動と暇つぶしで成り立っている店舗だからだ。
このあたりには独特な空気感がただよっている。大阪でいうところの西成だといえば関西の人間の理解はスムーズに運びそうだが、厳密にいうとそれとも異なる。殺伐としていないからだ。むしろ、ふつふつとにじみ出るような活力すら感じる。
警戒区域の線に沿った地域一帯は家賃が安い。そして、一般的な社会保障のほか三門市には特別な待遇がいくらか完備されている。もともと生活保護を受けていた世帯はもちろんのこと、とりわけ、なんとかまっとうに社会復帰を叶えたいともがく人間が、再起をかけてそこらに集っているのだった。ただ楽して生きていきたいだけの人間はわざわざリスクをおかしてまでこの場所は選ばない。だからこその、独特の空気感。一歩下がればまた泥に足を取られ。一歩進めばまた少しだけ希望がきらめく。そんなギリギリのライン上を、みなで牽制し合いながら、確かめあいながら、彼・彼女たちは生きていた。
水上はそんなこの地域が。難なくワンオペで回せる店舗が。悪趣味なのか善人なのか甲乙つけ難いオーナーが。まあまあ、気に入っていた。
そんな混沌とした三門市を防衛する組織に、水上ら関西組とほぼ同時期、同じように三門市に移り住み、入隊したという女がいる。それが、ケースの蓋を押し上げて、レジカゴにアイスをそっと移し替えようとしている女だ。
生まれ育った場所が人間の気質すべてを決めるとは到底思わないが、それでも所謂西側の九州で生活していたは大阪や京都出身の水上たちの会話に馴染むのに時間はかからなかった。
なぜ関西の子じゃないのに一緒にいるのかと、差別まがいな問いかけが三門市出身の隊員たちから少なからずあったので───べつに関西人だけで連んどかなあかんこたないやろ───と、反論するのも面倒でその答えを用意していただけで、実際のところは理由をわざわざ考えようともしないほど、自然なことだった。一般的に友人になった理由を思い出せないことと一緒。なにも、めずらしいことはない。
ゆくゆくはこのメンバーで隊を組むのだというのは当時暗黙の了解であり、適性のほか理想とする隊の構成も踏まえてスカウト組のポジションは決定された。
「ここでバイトしとったったい」
自動ドアの向こう側をぼんやりと眺めていた水上が立つレジの前に、プラスチックのカゴが置かれ、水上はの顔を一瞥してから視線を落とす。
雪山の背景に端からひょっこりと棒アイスが飛び出したパッケージが、カゴの底を埋めるほど敷き詰められていた。どんだけ買うねん。
「もう半年くらいしとるけど」
「あっそうなん。だいたい来るんが深夜やけん会わんかったんやろね」
基本的に午後四時から午後十時までのシフトで出勤している水上はその考察に頷き、ぴ、とひとつのバーコードを読み取って、人差し指と中指でふたつずつその個数をカウントする。
現時点では生駒隊に籍を置いていないとはいえ、まさか半年も水上とのあいだに会話がなかったわけではない。もちろん接する時間は目に見えて減ってはいるものの、初めて出会ったころからの関係性はこれといって変化ない。
相変わらず博多弁と関西弁がミックスされた独特なアクセントで物を言うのが、いまだ水上や生駒、隠岐、細井との交流があることを示している。方言が伝染しない南沢が頑固とか、吸収してしまったが流されやすいとか、言い切るつもりはなかった。
は忍田本部長肝入りの人材であった。太刀川慶に並び立てるのは。追随できるのは。迅に風間に小南、そしてくらいではないかとも言われたもので、まさに鳴り物入りの入隊だった。その大きすぎる期待に押しつぶされるどころか、それを追い風にするかのように、の戦闘能力の向上には目を見張るものがあった。
センスがあった。感覚的に動くといえばそれこそ生駒も同じようなところがあったが、生駒は幼少期から武道に馴染みがあったからこそなし得たことだろう。ベースがあった。しかしには武道はおろか、学校の体育の授業を除いてはスポーツの経験すらなかったのだ。
「アイスくらい、営業中にラウンジの売店で買いや」
水上たちと同じく、も本部の一室を借り受けて生活をしている。わざわざ通学や遊びに出かけたりするついででもなく、警戒区域に近いコンビニなんかに、それも深夜に足を運ぶなや。まあ今日はまだ午後十時やけど。と、水上は暗に言っているわけだ。
それほど戦闘に長けた女の身を水上が案じるのには当然理由があった。単純明快。には今その力がないからにほかならない。
よくあるようで、よくはない話。入隊から一年どころか半年も経たず、のトリオン量はずるずると下降していった。
わかりやすい曲線を描くグラフに解析班はなす術なしと結論付け、は駄々をこねることもなくそれを受け容れ、防衛隊員から降りた。
それから、三門市立大学に進学したは政策学部で都市開発を専門に履修している。
それがどの程度どのあたりに活かされているのかは水上の知るところではなかったが、ボーダーでは鬼怒田と冬島と連携してトラップの開発にあたっていて、そのストラテジーを鬼怒田が大いに買っているということは認識していた。
が自分の新たな居場所を見つけ、定着させたころ。生駒隊も当初の構想どおりにアタッカー二枚体制をとった。がその地位を確立するまで増員をしなかったのか。たまたまそういうタイミングだったのか。それをだれも生駒には問わなかった。
「いやぁ、これ、ここにしかないっちゃもん」
水上も、九州のソウルフードをついに見つけたと言って、が満足気にそのパッケージを開き、クランチチョコレートがこぼれ落ちないように噛み付いている姿を見たことがあった。品出しをしているときにもその光景を思い出さなかったわけでもなかったが。
「深夜に食べたくなるんよ。もちろん、まとめて毎度買っとるけど、そういうときに限ってストックが切れるんよね」
「あるあるやな」
「それに、警戒区域の近くイコール、ボーダーの近くイコール、安全。やって、わたしは思う派やで」
「まぁ、一理あるなぁ」
水上が口に出さなかった意図をおしはかってか。はからずか。すべて答え切ったに、水上はもっさりとした頭をかいてレジ袋をひっこぬいて、ざくざくとビニール袋にアイスを移動する。
が赤い戦闘服に換装して弧月をふるっていたのなら、今のように、水上のほぼ意図するまま生駒隊は動かないだろうと容易に想像がつく。実際当時の模擬戦などのことを思い返しても、そんな未来しか導かれない。そして当時それを、水上は悪いものだとはまったく思っていなかった。
「あと五分くらいで俺、上がりやし」
「……やし? ……待っとけて?」
「それしかないやろ」
液晶に表示された金額を財布からお札と、小銭もぴったり出し切ったはこれみよがしに息をはく。
「年上への口のきき方は気をつけるに越したことはないで」
「そんなん注意されたんはじめてですわぁ。それに自分、気にするタイプやないやろ」
「はあ。わたしだけがナメられとるわけね」
アイス溶けるわ、とひらひらと袋を握っていないほうの右手をゆらして、は身体を出入り口に向ける。
細井がのためにオペレーターの席を空けると言い出したとき、はしずかに細井を叱責した。
期待されない。期待されなくなる。その恐怖について、細井には心当たりがあったのだろう。
それでも、その心遣いは間違っている。ただそれを水上は頭ではわかっていても、細井がそれを提案したくなる、せざるを得なくなる、焦るようなどうしようもない気持ちは理解できた。
は、そこにいてくれないといけないような。そばにいてもらえることが。がそこにいることを選ぶことが。そこにいてくれるだけのことが、そのまわりの人間のステータスを上げるように思わせる。そういう女だと水上は思っていたからだ。
防衛隊員として働けないという烙印をおされてもなお、ゆるがない。明確なことばでは表現することのむずかしいこと。そんな風にのことを認識しているのが自分だけではないのだとわかったとき、水上はほとんど安堵した。ただ少しの葛藤と、焦燥感とともに。
だから、水上がそんな女を見くびることはない。
会計が終わるまでいちども鳴らなかった自動ドアの開閉音が、直近でそのドアをくぐった女の退店を知らせる。
店先のさびれたベンチに腰掛ける後ろ姿をガラス越しに確認することもなく、水上はカウンターから身を乗り出してレシートが数枚だけ入っているプラスチックの容器に手を伸ばした。
***
「おはよう。二宮隊みたいやね」
深夜三時頃。朝のあいさつにはふさわしくない時間帯。業界人がいつ顔を合わせてもそう発声するのと同じことだった。
白いYシャツにブラックのネクタイ、それにスラックスを着用している水上はコンビニのレジカウンターの前で、いつぞやと同じようにと向かい合っていた。ただし今回は、がカウンターの中にいて、水上が外にいる。立場逆転。
「いや、なんでおんねん」
「はあ。生贄にしたくせによく言うわ」
「やから、そんなんちゃうって。それに、」
「あ、かわいいおっちゃんは裏おるで。呼んでくる?」
くるりと背を向けて指差すに、いや、ええわ。と水上は手を口元の前でふる。
ここでのアルバイトに誘ったのはほかでもない水上だった。
数か月前のコンビニからの帰り道。別にお金に困っとらん。と一蹴するに食い下がり、夕方の時間帯の人手不足を伝える水上に、がしぶしぶ了承したのだ。
「よんじゅーろく、みっつ」
「……未成年は煙草をご購入いただけませんけど」
「ええやん。もーすぐ成人やし。おつかいやねん」
「はあ……。ええんかな?」
「店長は目ぇつぶってくれとる。暗黙の了解ってやつやん」
水上はここからほど近い雑居ビルに入っている雀荘でアルバイトをはじめた。と、同時にコンビニのアルバイトをやめていた。
三門市に競馬場や競艇場といった人の集まる公営ギャンブル施設はないが、繁華街には雀荘だけはあった。そして、この界隈にもついにできてしまった。
水上の働く雀荘のオーナーはこのコンビニのオーナーと同じだ。更生するにしたってたまには息抜きだって必要だろ。それに話し相手だって必要さ。とかなんとか。そういう理由でつくってしまったらしい。金持ちの道楽である。
というわけで、そちらのバイトに移らないかと打診があったのは、を誘い入れたことを店長に告げたときだった。
雀荘の客も多くはないので結構な頻度で本走に入ることもあり、運の要素の大きなゲームだとしても身体だけでなく頭もそれなりに使う時間が金に変換されることは、悪くないと水上は思っている。だから、水上が否定したとおり、を自身の身代わりに据えたわけではけっしてなかった。結果としては、そうなったが。
「あ。ねー、立ち読みしてるおにーさん! 代わりに買ってくれないですー?」
が懇願する声に後ろを振り返ると、冷凍ショーケースのとなりのマガジンラックで立ち読みをしていた男が目線をこちらへと向ける。
なにをー。たばこー。いいよー。
ジーンズの後ろのポケットに手を突っ込んで、お兄さんと呼称するには少し歳のいっている出立の男は、そのあいだにスキャンされたバーコードのためにポップアップされた年齢確認のボタンをもう一方の指でタップする。
それはええんかい。と水上はつっこむ代わりに握っていたお札をに手渡し、手間をかけた礼を男に述べた。
お礼に今度デートしてねー。ちゃんと仕事決まったら考えたげるー。
ふたたび分厚い少年誌ではなく薄い雑誌の元へ戻ってゆく男の背中を水上は追う。
「五時までやんな」
「そ」
「終わったら、ちょお待っとってや」
俺もそんくらいには上がれるし。水上はに向き直り、お釣りの小銭をポケットに仕舞い、カウンターに無造作に置かれた三つの箱を重ねて片手でつかみ上げる。
「はあ……。まあ、いいけどね。いつも説明が足りんのよ」
忍田が。ボーダーが。を見つけ出さなければよかった。本来する必要のなかった挫折を、は味わうことになったけだ。
のトリオン量を示すグラフを見たときに、どうしてだか水上は喉の奥がじわりと熱をもつのを感じた。
繁華街のガラス張りの建物の1階、カフェのカウンター席にとなり同士に座り、アイスコーヒーをストローからすすって。なんらかの形でボーダーに残ると告げたの表情を見ても、水上の考えはとくに変わらなかった。ただ、自分の所感を無責任に本人に告げてしまいたいと思った。のためではなく水上自身のために。
澄んでいるとは言い難い感情を少しでも濾過してしまいたかった。それでも、水上は言わなかった。否、言えなかった。そのわずかなためらいの間。水上の寄せられた眉間に人差し指を押し当て、が困ったように笑ったからだ。
そのままその細い手首をつかみ顔を少しだけ倒して距離をつめれば。肩を引き寄せて近づければ。すべては変わるような気配もしたし、なんら変わらないような予感もした。だからただ、陽光が細くの頬をレーザーポインターのように照らしているのを、水上は黙ってみていた。
「それはよう言われますけどね。いちいち言わんでも、自分はわかるやろ」
───俺は、そういうところが。
今にも舌打ちでもしそうな水上の様子には小さく口をあけて、はは、と眉を下げる。
「わからんよ」
は言い終わって、へらりと口元を緩めることなく、唇をすぼめる。
泣くことしかできない乳幼児ではなくて、口が達者になり、機微を感覚的に理解し、どうすれば自分の望むものが手に入るかと、目的達成までの道のりを考えられるようになった女児が、すねているようだった。
「……ほな、ちゃん。初手から説明するし、アイスでも食べて待っといてな」
まずは投了しないことには、感想戦ははじまらないとわかっている。返事を待たずに、水上は踵を返した。