にとって同期を避けることは、それほど難しくはなかった。
皆がどこに現れ、どのルートを通るかは、長い付き合いの中で身体に染み付いている。授業には出ているし、委員会活動もする。食堂にも行く。ただ、長時間接することはない。
いつまでも避けたところで、が学園を辞めるなどしない限り接触は避けられない。そして何より避けることで尚更詮索され、もうとっくに彼らは、の身に何が起こったのかを少なからず把握しているだろう。
宿屋から逃げ帰りながら意識の端っこで、理性が【行くな】と警鐘を鳴らしていた。それでも薬で乱された感覚に抗うことは叶わず、気がついたときには忍たま長屋にいた。三郎と雷蔵の相部屋に雪崩れ込んで畳に膝をつく。この部屋へ来て何を誰にどうしてもらいたかったのか。
もうそれを考える必要はなくなっていた。その部屋には誰もいなかったからだ。
ここまでの全てのことを、三郎が笑ってくれるのならまだいいのだ。でも、三郎はそうしないのではないかとには想像ができた。きっと三郎は、怒ってしまうだろうと。に対しても、や三郎たちを取り巻くものに対しても、だ。
思い上がりだろうか。だとしてもそれくらいの自己評価は生ぬるい目で見守ってほしい。三郎はに降りかかった出来事に目を瞑ることができないだろう。ただ、その理由を三郎は正確に掴むことはなく、に直接的な言葉で表すこともない。ひとり抱える。
そんな顔をした三郎を、は見たくなかった。否、隠すのだから見ることはないのだが、そんな顔を三郎に一人きりでさせたくはなかった。
は無傷だった。生きている。
「いいえ、傷ついている」
と山本シナは真剣な目でそうに言ったが、そんな生半可なことを教師が生徒に言ってもいいものなのだろうか。貴方はできる限り大量に使える忍者を育て、出荷しなくてはならないのではないか。
三郎に事情を悟られる状況になった時、心の整理がついていない状態のでは何かを言ってしまいそうだった。これまでの二人の巫山戯た関係に決定的な何かが下されてしまうようなことを。だから、同期を丸ごと避けた。
生物委員会の道具を保管している一室の床を拭き、虫籠の中の土を入れ替えて、ふう、と小さく息を吐いた瞬間。
「早朝から熱心なことだな」
真後ろから響いた凛とした声に、の心臓が跳ね上がった。振り返れば、そこには生物委員会から借りていたらしい木箱を小脇に抱えた立花仙蔵が、至極当然といった風に佇んでいた。
「立花仙蔵先輩。……いつからそこに」
「お前が部屋の四隅をせっせと拭き掃除し始めた頃からだ」
さすがに六年とはレベルが違うのだ。はまたため息をついていた。
貸し出していた毒虫を返却しに来たらしい。箱を受け取ると仙蔵は静かに一つ瞬きをしてから
「器の中の茶が揺れないように持ち運ぶことは不可能だ。揺らさないためには茶を捨てるしかない。そうだな?」
「……本末転倒ですが」
「そう。不可能なことをいつまでも悩んでも仕方がなかろう」
は首を縦に振ったものの、だからこそ延々と悩んでしまうのではないか、と反抗したくもなっていた。
「悩むなと言っているわけではない。揺れるのは大前提だ。しかしそこをどう最小限に抑え込むか。器の形状を変えてみるとか、そういったことを考えろ」
「中身があることを忘れることもそのうちの一手と言えますか」
「それは捨てることと何が違うのかとも思うが。お前が手放そうとしたものを持とうとしてくれている奴もいるな?」
あの夜、忍務で雷蔵がいないことをは知っていた。つまり、あの時は、三郎を求めてただ走ったのだ。
「……荷物を増やしてしまって、彼は、大事ないんでしょうか」
「あれは、錘が必要だっただろう」
「錘?」
「中身をいたずらに揺らさないために足元を見るようになる。環境を知ろうとするようになる。気を使う。ある程度の重さがあることで地に足がつく」
「それは……我々にとって必要なものなんでしょうか」
我々は身軽であるべきではないのですか、とは言った。仙蔵は態とらしく肩をすくめる。
「言ったろう。より周囲を気にすることはつまり身を助くんだ。生き延びることを前提にすれば、それはあるほうがよい場合も多い。茶がもう入っているなら、大切にすべきだ」
さらりと仙蔵の髪が風に揺れた。そうですね、とは小さく呟いて
「わたしも後輩たちへ必要な時に必要な言葉をかけられるでしょうか」
「少なくとも同期に必要な対応はそれなりにできているだろう」
無責任に不用意なことを言わないのが仙蔵のいいところなのだ、とは改めて思う。
「ところで、その同期を見たか」
仙蔵が問いかけると、は慎重に首を振る。振ってから、どの同期なのかを問わずに回答したことに気がついた。
「見ていないよな、避けているんだから」
食堂であれこれ相談されるのは食事が不味くなるのでやめてほしいのだ、と仙蔵は文句を言った。
「昨日の夕刻から戻っていないらしい」
心当たりなんてない。
「後悔するなよ」
でも、それは動かない理由にはならない。
周囲の光を全て吸い込んだような艶やかな髪の毛をなびかせて仙蔵は部屋を後にした。
遠くに橋が見えているはずだ。霧がかかっていてその輪郭ははっきりしない。
忍術学園に初めて登園したあの日。朝から降り続いていた小雨で全身を浸しながら、誰かに見られているような気配がしていた。でも、それを言ったら雷蔵に心配をかけると思い黙っていた。気持ちの悪い視線ではなかったから、自分の胸の内に留めたのだ。
もちろんその後すぐに顔を合わせた、雷蔵の顔をした三郎を見て、は何も思わなかったわけではなかった。
雨が目に入り眉間にしわを寄せていると、橋の端に人影のようなものが確認できた。横たわっている人だ。そして、はその人をよく知っていたので、覚悟を決めてその影まで寄った。
何をしているのかと三郎に問いかければ
「見ればわかるだろう、寝そべっている」
とかすれた声が返ってくる。
横になっている三郎を立ったまま見下げながら観察する。雷蔵の面は顎の下あたりからずれていた。先ほどから降り出した雨の所為もあるのだろうか、縒れている箇所も目立つ。
何故こんなことになっているのかとは問わない。それを三郎も望んではいないだろうし、なんとなく、これはのために三郎が起こした何らかの結末なのだろうと思った。そうであれば鼠を仕留めて来て見せびらかす猫にするように褒めてみたらいいだろうか。
目に見える身体的な損傷で最も大きいのはそれこそ面が剥がれかけていることだが、毒くらいはもらっているかもしれない。骨の一つや二つ折れているかもしれない。
追っ手はない。おそらく、撒いたから学園に三郎は近づいたはずだ。
遅かれ早かれ、三郎は教師陣には大目玉を喰らうようなことをしたのだろうが、ひとまず助けを呼ぶのなら五年のほうがいいだろう。彼らは断片的にくらいは知っているはずだ。全部話さずとも通ずる、そういう仲なのだ、彼らは。――我々は。
胸元から鳥笛を引っ張り出して一息で鳴らした。少し距離もあるし時間も早いが、猛禽類が騒げば八左ヱ門が気がつくだろう。
「面、直してくれるか」
当然、は直し方など知る由も無い。
「剥がしてみようか」
当然、剥がし方も知らないが、引っ張ればどうにかなりそうである。
腰を落としておもむろに手を伸ばすわたしと同時に顎を片手で押さえる三郎は子どものように見えた。
しかし、片手を三郎の頬に添えたの狙いは面ではなかった。面に顔を近づけるとそっとその色を失っている唇に自分のものを落とす。
やはり同じ口を吸うにしても、三郎には嫌悪感は覚えないということを確認して安堵した。はなかなかに行き当たりばったりな女だった。
「悪かった」
そう言って静かに瞬きを繰り返す三郎の顔から腕に目を移す。血色が足らない。何に対して謝罪しているのかを問うか迷う間に、鳥笛の音が微かに聞こえ、短くそれに応えた。
「また見つかっちゃったね」
「今回ばかりはお前が見つけただろう、私を」
存在を利用する男と、存在を捨てる女。 パズルのピースが噛み合うように、そうやって二人はこれまでやってきた。きっと、これからも。
今こそ何かを言うべきだったのかもしれないが、それが最期に交わした言葉などになるのは勘弁して欲しい。
「雨避けになるものを探してくる」
と言って、は地面に手をつく。そう、あの日この橋には雨傘がかかっていた。
立ち上がろうとするの腕を三郎は掴んで制する。
「大丈夫だ、朝雨はすぐに上がるから」