08
All is fair in love and war.
天職とまでは思わないが、意外とわたしは営業マン向き、もしくは、この土地に適している性格だったらしい。概ねトラブルなく暮らしている。だからこそ、帰省を悩んでいた。何十時間も飛行機に乗るのがとにかく嫌だった。べつに、帰らなくたって、なんとかなる。飛行機に何十時間も乗るのに何日かしかいられないのだ。
でも、たしかにわたしは二郎くんに会いたくてたまらなかった。だから、二郎くんがこっちに来てくれたらいいのに、なんて無責任なことを考えていた。会いたいことも、相手の犠牲を望んでいることも、二郎くんに悟られたくなかった。二郎くんも、わたしに会いたいとは言わなかった。
実際、彼はとても忙しそうだった。専門学生は暇なんでは? と思っていたが、就活もあっというまにしなければならないから、むしろ忙しいらしい。たがいに忙しいアピールをしたとて、しかたがない。
この街では、スケートボードをしている人をたくさん見かける。わたし自身も気分転換によく滑っていた。
そのうち、ひとりの男とよく喋るようになった。多国籍なこのあたりで彼の出身など気にするだけ無駄だが、少なくともアジア系の顔立ちはしていなかったとだけ述べておこう。
最初こそ、デッキを転がしながら挨拶を交わし合っていただけだったけど、ベンチに隣同士腰掛けてからは、近くのカフェやバーに行くようになっていた。ごく自然な成り行きだった。
彼は、わたしのことを実年齢よりもうんと年下だとばかり思っていたようだったけど、「いずれにしても年齢なんて関係ないだろう、俺は君がすきだよ」と、あっさりとわたしの肩を抱いたのだった。
つねに二郎くんの顔がよぎらなかった、というわけではなかった。当然、あーあ、やっちゃったな。という意識はふわふわと浮いていた。いっぽうで、二郎くんも同じように、こんな経験をしているのではないかな、それならおあいこだから許されたいな、と思った。
どうだろう。わたしがいるから、といって、二郎くんは断るんだろうか。どうなのかな。わたしがここで、保険をかけたら、怒られるだろうか。みんなよくやっていることじゃないか。友人は笑ってくれるだろうけど、お天道さまや山田一郎は、見逃してはくれないだろうな、なんて呑気に想像した。
避妊しないならやらない、と跳ね除けたらあっさり彼は諦めて、それでもベッドから出て行けとは言わなかった。
知らない天井をながめながら、まだ高校生だからといって、ためらわずにいちどやっておけばよかったと思った。母・一郎の許可もおりていたのだ。あれっ、意外と相性が悪いな、とかなって、その時点でさめていたかもしれないんだから。
「なぜ君はいつもそんなにさみしそうなのか、だれか大切な人を置いてきたのか」と、彼はそう言った。わたしはシンプルに驚いた。わたしはここで、うまくやれているとしか思っていなかったからだ。
「置いていったんじゃないよ。待っててと言われたの。だから、置いて行かれたのよ」と説明すれば、「屁理屈だね」と彼も笑った。
「ぼくはね、年齢のことをああだこうだ言うやつは、嫌いなんですよ!」
一年以上ぶりに帰国し、山田家一同が空港に揃っていることにわたしはちょっと引いたし、案の定そのまま山田家に連行された。
正直、拍子抜けしたのはたしかだったけど、それでもあの日のお寿司会のようにお寿司はおいしいし、なんならひさしぶりのちゃんとした日本食は涙が出そうなほど胃と心にしみた。結局わたしは、日本人なのだ。
そうしてお酒をある程度たのしんでいたところで、三郎くんが突然宣言したのだった。隣に座っていた二郎くんと、正面の一郎くんと、目だけで会話をする。
「まださんがこっちにいるときですけど。二郎と一緒にいるところを見たってやつに、一兄が言われてたんですよ。じろちゃん遊ばれてるんじゃないの、大丈夫なのって」
手に取るように思い浮かべられるその光景に、苦笑いするしかない。「同世代の女の子のほうがお肌もぴちぴちで可愛げがあってとか、一郎くんも姪っ子甥っ子が見たいならとか、うんぬんかんぬん!」と、三郎くんは右手でテーブルを打つ。
「うっせーババア、黙ってろ! って言えばいいのに!」
「いやだってほら、何言ってもしょうがねぇだろ、ああいうのにはさ……」
いつになく及び腰な一郎くんが頭をかいている。長距離フライトのあとで、アルコールも入ってかなり眠たかったので、一郎くんからのヘルプの視線を感じつつ、放っておく。
「そもそも、そいつに関係ないじゃないですか! ぼくらですら、関係ないんだから!」
盛大な息をついた三郎くんをちら、とうかがって、思いがけず目が合う。三郎くんはつん、と顎を突き出して、「大事な人たちが決めることに口出しする役目を持ってないってことです! ぼくはさんのことを、どうでもいいとか思っていません」
やだ、かわいい。と思ったけど、さっきから口を開かない二郎くんの手前、口には出さないでおく。
「腹が立ってね、ぼくは言い返してやったんですよ! 年齢なんてただの数字! なんの証明にも、障害にもならないってね!」
大きな音を立てて両の手のひらがテーブルについて、「そうだろ、二郎!」三郎くんは今にも立ち上がりそうだった。名指しされた二郎くんは、「そ、そうだよな!」と、新興宗教の集会に連れてこられてひとまず周りとの調子を合わせる人のように声を出し、手元の缶ビールに口をつけている。
「ってか、こいつらが前にも後ろにも進まないのは、年齢とかじゃなくって、ただ、すきすぎて大切に扱いたいって、傷つけたくないってだけだからな!」
二郎くんがビールを噴き出すのと同時に、わたしは気管の変なところに酎ハイを入れてしまって、むせた。一郎くんは目を大きく見開いてから、手を叩いて笑っていた。
「あっ、三郎! てめーそれ、日本酒だから!」
「わかってるよ! 水からアルコールの匂いがするわけないだろ!!!!」
「「「じゃあ、なおさらダメだわ!!!!」」」
まもなく日も暮れようというころ、ヨコハマのホテルを予約したのだ、とサプライズも何も直球ストレート勝負で宣言されたわたしは、萬屋ヤマダを二郎くんとふたりで後にして電車に乗った。
タクシーを拾おうと思ったけれど、ここでわたしがあっさりそこそこな料金を支払ってしまうのは彼のプライドを少なからず傷つけるだろうと予想できたので、なぜだかいつだって眠気を誘う電車の揺れに身を預けることにした。
揺れにも身を預けたけど、気がついたときには二郎くんの肩に頭も預けていた。スマートフォンもいじらず、膝の上にお行儀よく揃えられている手がかわいくて、自分の右手をその上に乗せて、もういちど瞼を落とした。疲労と睡魔とアルコールのせいにしてほしい。
フロントで受付を済ませてくれた二郎くんはどこかやっぱり一年前とは違う空気感をまとっていて、エレベーターという小さな箱がほとんど最上階へと運んでくれている間、無言でいるのは少し不安になった。
指定の部屋を二郎くんが開けて、ドア横にカードキーを差し込む。当然電気がついて室内が明るくなるのだと思っていたのに、室内は暗いままだった。その代わりに目の前のカーテンが自動で音を立てて上がっていく。あ、これはあれだ、ハーバービューの夜景がみれちゃうやつだ。
フラットシューズを脱いで、廊下の明かりで見つけていたスリッパに足を突っ込んで、窓際まで歩く。二郎くんもそれに続く気配がする。
「すごい」
「きれいだな」
「うん。すごい。二郎くん、ありがとう」
ほんとうは、ネオンライト煌めく観覧車とか街の明かりの夜景なんて、新鮮味などない。すごい、というのはハーバービューが売りの部屋って、こうして自動でカーテンが上がっていくんだなあ、とか、こういうベタなホテルを予約したのは二郎くんにとって初めてのことだろうなあ、その初めてをわたしがいただいちゃったんだなあ、とか、そもそもわたしもこんなホテルは初めてだわ、とか、そういうちょっと違う角度のすごい、だった。けど、それらをひっくるめて、確かにここからみるヨコハマの夜は、きれいだと思った。
ここで肩を抱いたりしてこないで突っ立ってるのがまた二郎くんらしいわけだけれど、わたしは二郎くんの横をするりと抜けて、ベッドサイドの照明のスイッチをつける。
「わたし、シャワー行くけど」
「あ、おお、はい」
もう何十時間も身体を洗っていなかった。いくら冬場とはいっても、どうしてもこのままお喋りに興ずるにはコンディションが悪かったのだ。
「一緒に入る?」
───わけもなく。
わたしがシャワーを浴びて戻った時には部屋の他の明かりもついていて、バスローブを巻いてタオルで髪の毛をまとめたわたしの横を「俺も行ってくる!」と二郎くんはすり抜けていった。
水が床に跳ねる音が聞こえ始めてから、パウダールームからドライヤーを取って部屋のコンセントに突き刺す。せっかく二郎くんが予約してくれた部屋を、ほんとうにただ眠るだけに使うのはあまりにももったいない。それでも、全身鏡の前で髪の毛を乾かしながら、争いようのない睡魔を感じていた。
髪の毛を拭きながら同じ真っ白なバスローブに身をくるんだ二郎くんが戻ってきたときには、わたしはすでにベッドの上にいた。かろうじて、目は開いていた。ベッドメイキングされた状態を極力崩さず、ただ肌触りのよいアッパーシーツの上に横たわって、スマートフォンの画面を眺めていた。
そんな状態のわたしの姿を見て、不意に二郎くんは思い至ったのだろう。あ、目の前の女性は疲れている。自分はこの人に無理をさせたのではないか、と。
「さん」
「ん?」
「ごめん、疲れてたよな」
「まあ。でも……すぐ、会いたかったし。そりゃ、長時間のフライトでガサガサになったお肌じゃなくて、万全な状態で再会したかったけど、時間ないし……」
「お、俺も、すぐ会いたかったから、ごめん! あと、今もかわいいから大丈夫! だから、ちゃんと布団かぶって寝よう!」
わたしを寝かせるために、これまでならナチュラルに言えなさそうなことをふたつも述べてくれたな。
「……じろちゃんもいっしょにね」
腕をのろりと伸ばすと、二郎くんは両掌をぎゅっと握って、わたしに背を向ける。先ほど自分がつけた部屋の明かりを消して、ふたたびわたしに向き直る。二郎くんのあったまった手がわたしの手のひらをつかんだ。
ぴっちりとスプリングベッドにくるまっているシーツを引っ張り出しながら、「三郎くんがあんな風に言ってくれるなんて、びっくりしたなあ」
掘り返すべき話題なのかは微妙なラインだったけど、そんな話をふってしまう程度には、わたしも緊張していないわけではなかった。
「寝て起きたら、忘れてっかもなあ」
「わたしは、覚えてて恥ずかしくて忘れたフリする、に一票」
つるつるのシーツとシーツの間に身体を滑り込ませて、枕に頭を預ける。広いベッドの隅っこの方に、二郎くんは収まっていた。まあ、想定内だし、それでもいい。
「……抱こうとしたんだ」
「……へ?」
わたしに背を向けたまま、二郎くんは言葉を続ける。「さんじゃない人を……」
あ、そういうこと。
やっぱり二郎くんも同じようなことがあったんだなあ、というのと、あ、一時帰国することを伝えたあの前の日とかだったんじゃないかな、とひどく冷静に記憶が手繰り寄せられる。それはほとんど確信に近かった。
女の勘っていうのは、あまり役に立たない。できれば気がつきたくないことのほうが多いし、後出しでは手遅れである。
「言われなければ、知らなくて済んだのになあ」
「でもずっと、さんのことを考えてた。さんのことを考えてたからこそ、そういう感じになったっていうか……でも、してないから。その人のことをすきとか、一ミリもないから! でも言わないといけないと思ったんだ、ごめん!」
そりゃ、自分が楽になりたかっただけじゃん?
とは思ったけど、それを突きつけるのはかわいそうな気がした。きちんと約束といった形を築かずに、予防線を貼っていたわたしも悪いのだ。
どこまで何をやったんだろう。抱こうとした、という意気込みだけなのか、それとも肌に触れて、結果として最後までは至っていないとか、そういうレベルなんだろうか。
聞けば解決することを、わたしは聞けなかった。「胃を掻きむしられるように、嫌な気持ちがしている」そう二郎くんを責めながら、自分のことは棚に上げておいた。というより、お互いさまなので、ほんとうは少し、安心していた。
「二郎くんのまっすぐさには、いつも銃を突きつけられるように感じるよ。だって、恋愛はもうこれっきり最後にしたい擦れた女と年下の男の初恋が実を結ぶとか、そんなうまいことがある? ないと思う」
問いかけたと見せかけて自ら即答したわたしの声に、二郎くんがついにもぞもぞと動いて顔をこちらへ向ける気配がする。わたしは天井に吊るされている大きなシーリングファンを睨みつけながら話を続ける。
「今もないと思ってるけど。でも、それは二郎くんが相手なのであれば、もしかしたら、あるのかもしれない。それに、やっぱり二郎くんが他の女のことを考えたり、触れたりするのは、いやなのよ」
言い終わるより早く、わたしは二郎くんのほうへ手を伸ばしていた。二郎くんは躊躇うことなくわたしの手のひらを握り、もう片方の手をバスローブの筒に通してわたしの二の腕をつかんでいた。
「……まだ、待っててくれる?」
二郎くんの中では、どうしても自分がわたしを待たせている設定らしい。あまりにも頑なで、思わず小さく笑ってしまう。
「……うん」
「彼女だって、俺、さんのこと話していい?」
「…………わたしも彼氏に置いてかれてさみしいって、話すことにする」
「置いて……ってはねーだろ」
そこは違うんだ。
声を出して笑えば、二の腕を二郎くんの手がさすって、時折優しく絞られる。
すきな人に触れられて、心臓が身体を打ち付ける痛さと、何もかも見せてしまいたいのにあけすけにしたくない羞恥を覚えることなんて、はじめてのはずがない。いつでも最初はこうだろう。それなのにわたしは愚かだから、すぐにそれを忘れるだけだ。
「じゃあ、ちゃんと、好きな人を抱いてみたら?」
遠慮の匂いを少しだけはらんで擦り寄ってくるその顔があまりにも整っていて、その瞳を見つめ続けるのは困難だった。代わりに口元のほくろをぼんやりとながめるけど、すぐにそれも視界から消えてしまった。
二郎くんが、飛行機を乗り継いでこちらへ遊びに来ると言ったのは、二郎くんの就職活動が終わったころだった。
てきとうに、というよりこちらの生活に合わせてしまっていた服より、多少おしゃれな服を急いで買って、仕事もしっかり片付けて有給をもらった。
空港の到着ゲートから出てきた二郎くんはひどく眠そうだった。でも、彼はわたしの姿を捉えた瞬間、スーツケースを置いて、駆け出した。
そんなドラマチックなことがあるだろうか。わたしが想像していた二郎くんはゴロゴロとスーツケースを引っ張ってへらりと笑って、おー、とかよぉとか言ってはにかむ予定だった。違った。彼は飛びつくようにわたしに抱きついた。
わたしはそれを噛み締めるより、二郎くんが放り出したスーツケースが心配だった。ひとしきりなだめてから、待合に並んだプライオリティシートに激突していたそれの横まで歩く。
「迎えに来たんだ!」と、二郎くんは言った。
あ、わたしはほんとうに、待っていてよかったのだ、と、そこではじめて気がついた。
「でも、さんが望むならこのまま、ここにいてもいい。ちょっと英語も勉強したんだ。日常会話もまだちょっと怪しいけど。ウェブデザイナーは別にどこからでも仕事できるから、まあ、現場経験がないから最初は苦労するかもしれないけど……そこは持ち前のコネクションでだな……」
どうしよう。
ぺらぺらと喋り続ける二郎くんは、きっとわたしに言うべきことを紙に書くかスマートフォンに打ち込むかして、何度も推敲したんだろう。別に、到着してすぐでなくてもいいはずなのに。もっと、ゆっくり食事を楽しんでいるときに、ワインを傾けながら、話してくれていいのに。
「二郎くん」
「あ……いや……なあ、カッコ悪いけどさ、とにかく、すごく、さんのことが、すきなんだよ」
「わたしも二郎くんのことがすきだよ?」
「俺がどれだけさんのそばにいたいか、ちゃんと伝わってる?」
ただでさえ下がっている目尻がこぼれ落ちそうなほど緩んでいて、愛おしい。二郎くんの手首をつかんで、つま先に乗った重心を預ける。
重なる影を、ここではだれも気に留めることはない。