06



 兎に角は、三郎にだけは会いたくないと思っていた。何があったのか喋らずとも、様子がおかしいことに気がつかれ、誤魔化そうとしてみたところで、結局すべてを見透かされると思った。その上で笑われるならまだいいのだ。でも三郎はそうしないと、には想像ができた。きっと三郎は、怒るだろう。と。
 にではない。をそのような状況に追いやった人物や、実際にその状況をつくった人物に対してだ。思い上がりだろうか。だとしてもそれくらいの自己評価は生ぬるい目で見守ってほしい。三郎はに降りかかったその出来事に、目を瞑らないだろう。ただ、その思いをには直接的な言葉で表すことはない。一人抱え、考えるのだ。そんな顔をした三郎を、は見たくなかった。否、だから見ることはないのだが、そんな顔を三郎に一人でさせたくはなかった。

 そういうわけで、三郎に事情を悟られる状況になった時、心の整理がついていない状態のでは何かを言ってしまいそうだった。これまでの二人の巫山戯た関係に決定的な何かが下されてしまうようなことを。だから、避けた。

 別に、は誰かに殺されかけた訳でもないので、無傷だ。そう、何せ生きている。「いいえ、貴方の心が傷ついているわ」と山本シナは真剣な目でそうに言ったが、そんな生半可なことを教師が生徒に言ってもいいものなのだろうか。貴方は使える忍者を育て、出荷しなくてはならないのではないか。

三郎との関係がどうこうではなく、本当のところはただただ、傷心していただけだった。

 そして、その出来事についてもなんとなく、落としどころというようなものを見つけた。ある程度気持ちが落ち着いたのだ。
 いつまでも三郎を避けたところで、が学園を辞めるなどしない限り接触は避けられない。そして何より避けることで尚更詮索され、もうとっくに三郎は、彼らは、の身に何が起こったのかを少なからず把握しているだろう。
 は、忍術学園に入学する際に雷蔵に手を引っ張られながら歩いた道からまた日常をはじめようと、結構な道のりを歩いた。意外と形から入る性質なのだ。

 あの日、誰かに見られているような気配がして、でも、それを言ったら雷蔵に心配をかけると思い、黙っていた。殺気や気持ち悪い目線ではなかったから、自分の胸の内に留めたのだ。そんなことを、思い出した。




 霧雨が目に入り眉間にしわを寄せていると、少し先の茂みに人影のようなものが確認できた。横たわっている人だ。そして、はその人をよく知っていたので、覚悟を決めてその影まで寄った。

「あの日も雨が降っていたんだ」

 何やらひとりごちているが、せめて朝の挨拶や三郎が置かれている状況の説明から話をはじめていただきたいものだ。それに、に三郎の指すあの日は見当もつかなかった。そういえば入学の日の朝も、雨が降っていたっけ。
 何をしているのかと三郎の発言は無視して問いかければ「見ればわかるだろう、寝そべっている」と、かすれた声が返ってくる。

 横になっている三郎を立ったまま見下げながら観察する。三郎の、雷蔵の面は、顎の下あたりからずれていた。面が三郎の意思に反して剥がれるという光景は今まで見たことがなかったが、これは剥がれかけているということだろう。先ほどから降り出した雨の所為もあるのだろうか、寄れている箇所も目立つ。
 何故こんなことになっているのかとは問わない。それを三郎も望んではいないだろうし、なんとなく、これはのために三郎が起こした何かの結末なのだろうと、思った。そうであれば鼠を仕留めて来て見せびらかす猫にするように褒めてみたらいいだろうか。
 目に見える身体的な損傷で最も大きいのはそれこそ面が剥がれかけていることだけれど、毒くらいはもらっているかもしれない。骨の一つや二つ折れているかもしれない。

 追っ手はない、か。おそらく、撒いたから学園に三郎は近づいたはずだ。
 遅かれ早かれ、三郎は教師陣には大目玉を喰らうようなことをしたのだろうが、ひとまず助けを呼ぶのなら五年のほうがいいだろう。五年は何か断片的にくらいは知っているだろう。全部話さずとも通ずる、そういう仲なのだ 彼らは。

 胸元から鳥笛を引っ張り出して一息で鳴らした。少し距離もあるし時間も早いが猛禽類が騒げばハチが気がつくだろう。案外冷静に物事を整理して行動している自分に多少驚く。

「面、直してくれるか」

 当然、は直し方など知る由も無い。

「むしろ、剥がしてみようかしら」

 当然、剥がし方も知らないが、引っ張ればどうにかなりそうである。
 腰を落としておもむろに手を伸ばすわたしと同時に顎を片手で押さえる三郎は子どものように見えた。片手を三郎の頬に添えたの狙いは面ではない。やはり、同じ口を吸うにしても、三郎には嫌悪感は覚えないということを確認して安堵した。はなかなか、行き当たりばったりな女だった。

「悪かった」

 そう言って静かに瞬きを繰り返す三郎の顔から腕に目を移す。血色が足らない。何に対して謝罪しているのかを問うか迷った間に鳥笛の音が微かに聞こえ、短くそれに応えた。

「容易いことではないとよく分かったから、これは約束ではなく私の覚悟として聞いてくれるか」

の答えを待たずに三郎は続ける。

 今こそその、”何か”を言うべきだったのかもしれないが、それが最期に交わした言葉などになるのは勘弁して欲しい。何か雨避けになるものを探してくると地面に手をつき立ち上がろうとするの腕を三郎は掴んで制する。

「大丈夫だ、朝雨はすぐに上がるから」