「ふわふわの犬がいたぞ」
 ビジネスホテルの向かいの喫茶店のソファ席で、いくらか口をつけたコーヒーカップをソーサーに戻して、しばらくスマートフォンに目を落としていたら、頭上から声がふってきた。視線を少し上げてもその顔面はとらえられなかったけれど、服装からして有栖川帝統である。
 帝統は手に持っていた無地の茶色い紙袋をテーブルのあいたスペースに置いた。袋の中身はわたしが取り急ぎの回収を依頼した数日分の衣類にちがいない。そのほかの荷物は一旦萬屋ヤマダに。新居が決まったら運んでもらう手筈となっていると、昨晩帝統から電話越しに報告を受けた。お礼を言い紐をつまんで引き上げ、自分のとなりに引き取った。
 帝統がテーブルをはさんでわたしの正面に腰をおとしたのを、帝統の顔がわたしが首を上げなくても視界におさまるようになり認識する。早起きねと片手を上げれば、外は暑いからなと、わかるようでわからない返答があって適当に相槌をうった。まさか外で寝泊まりしているわけでもあるまいし。
 それから帝統はまた犬について言及した。持ち出しリストに犬はなかったが、自宅にいた犬は連れてこなくてほんとうによかったのか、と帝統は問いたいのだろう。
 おしぼりとお冷のはいったグラスを手にオーダーを取りにきたエプロン姿の初老の男性に向かって帝統がレモンスカッシュ、と伝え終わるのを待って、昨日のわたしの指示に間違いはなかった旨を告げた。
 所謂ペットは誠に遺憾なことに法的には物である。ある日、酔っ払い、どうしてだかペットショップから犬を買って帰って来たのは同居人(元)であり、帝統がいうところのふわふわの犬────真っ白なマルチーズの親権は彼にある。これが人間の子どもだったなら、わたしに分があっただろうに、残念だ。
「名前、なんつうんだ?」
「当ててみ」
 わたしのフルネームはすでに伝えてあるし、はなしの流れからいっても犬の名前当てゲームだ。一気にグラスの中身を空にしてしまってから、うーん、と帝統が唸る。
 雪、大福、わたがし────あの子のビジュアルから連想したであろうモノを帝統が列挙する。ぶぶー、とすべての不正解を口を尖らせ伝えるわたしに、正解の提示が促された。
「正解は、ワンアンドオンリー、でした!」
「……競走馬の名前じゃねーか!」
「やっぱわかるんだね。わんわんと鳴くから、だってさ」
「わん、しか合ってねえし、犬全部当てはまる!」
「わんちゃんって呼んでたよ」
「それこそ全部の犬!」
 One and only。最愛の人。唯一無二の。なんて、すてきな意味もある。
 そんな英語の意味はさておき、競走馬連想でそのように名付けたのはもちろん彼であった。ご存じのとおり、わたしは競馬をはじめとするギャンブルには明るくない。昨日のは、事故みたいなものである。

 帝統とわたしが購入した馬はまったく人気がなかったわけでもなく────5番人気だった────単勝は16倍ついていた。10万円×16=160万円-元手10万円という簡単な数式でわかるとおり、わたしは150万円勝ったのである! 舞っている外れ馬券がわたしと男を祝福しているかのようだった。有り金をすべて賭けたと言ったとなりの男はいったいどれほど────とその様子を盗み見たが、有り金全部が、かならずしも10万円より多いというわけではないということを、わたしは理解した。
 スゲーじゃん! よかったな! とわたしを賞賛する男に背中をバシバシと叩かれ、あはは、とあいまいに笑う。じゃ行くぞ、ととても自然にわたしの手首をにぎって引っ張る男に言われるがまま、機械ではなく有人窓口に馬券を提出した。
 現金が用意できるのを待っているあいだにわたしたちはおたがいの名前を名乗った。うすうす気が付いてはいたのだが、男はシブヤの有名人だった。あまり人の顔と名前、そしてその人物にまつわるエピソードを覚えることは得意ではないけれど、まぁたしかに見覚えはあったのだ。
 それからひと言、ふた言、なにか会話をしてから帝統は、どうするのかとわたしに尋ねた。なにを聞かれているのか、返事にはいくつか選択肢があったけれど、わたしは引っ越しがしたいなとお金の使い道を答えることにした。
 イケブクロの知り合いに頼めば今から速攻引っ越し手伝ってやれるし、家もなんかどっか探してくれるぞ、なんならそこに泊まればいいし、それか全然俺のダチの家でもとかなんとか帝統は早口であったが、わたしはなにも精神的や肉体的に暴力をふるう男から命からがら逃げ出そうとしているわけではなかった。帝統はそうだと思っていたようで慌てているというのは明らかだったから、そういう悲劇的なストーリーではないのだよと、ひとまずもういちど椅子に腰掛けるようにと帝統の腕を真下に引いた。
 ただ、わたしはこのままあの部屋に戻ったら、そこから出ることをやっぱり、まぁいいかと放棄するような気もしていた。わたしはそういう女なのだ。
 封筒に入ったお札の束を受け取って、わたしはすぐそこから10枚引き抜いて帝統に突きつけた。それから、ポケットから出した鍵を渡して、廊下に散乱していたえんぴつとマークシートを拾い上げ、その鍵が解錠する場所を示す住所と、わたしの携帯番号を殴り書きした。できるかぎりゆっくりと、運び出してほしいもの────お気に入りのホットプレート、ポット、ソファ、そしてクローゼットにおさまっている衣類全部────を声に出して伝えると、帝統は膝を叩いて一目散に出入り口に向かって走り出した。これも用紙に書いてもよかったけれど、帝統が持ち出し忘れたものというのは、もうわたしには必要のないものなのではないかと思ったのだ。

「今日、家探しに行くんだろ」
「うん。これから行くけど」
 新居はすぐに決める必要もないので、ビジネスホテルをネットから予約した。ビジホに数泊できるだけのお金の余裕はあるのだ。しかし、たった150────140万だ。ここで格式高いホテルに出向いてみるだけの気概はない。それがわたしがギャンブラーの素質がないことを示している。べつに、なくて結構だが。
 彼には本業があったが、ギャンブルもお金を稼ぐ、という意味でとれば仕事といえた。肉体労働をせず、お金を賭けつづけることで生計を立てている人という存在を、わたしは彼と知り合ってはじめて知った。プロ・高校問わず野球、選挙などなど。そういう界隈の人たちにとっては、なんだって賭け事の対象だった。
 彼は家計を苦しめることはなく、むしろそれらを用いて豊かにすることができる男だった。引き時を知っていて、自棄を起こすことはなかった。
 それでは、彼が競馬場でわたしを放ったのはどういうことかと問われれば、ただひさしぶりに会った仲間と談笑している彼からわたしが気を利かせて距離をとっただけだった。わたしが、わたしから、離れたのだ。
「俺も行くからな!」
「なあに、きみも引っ越すの?」
「まあ、そういうこった! 俺も一緒に住むぜ!」
「……だれと?」
「……? さんと」
「……また似たようなやつといっしょに住むわけないでしょ」
 どうしよう、この人ほんとうに野宿していたのかしら。犬を捨てて来たのに、拾ってしまったというのだろうか。
 断り方が適切ではなかったな、とけっして致命的ではないミスについて考える。
 帝統がギャンブルをするから同居したくないわけではないし、彼がギャンブルをするから逃げたわけでもないということを、懇切丁寧に説明するほどのことではないはずだ。
 ゆっくりカップを持ち上げて、ずいぶんと冷えてしまったコーヒーをすする。

 帝統は競馬場を仕事場と表現していたが、これは間違いだろう。彼とは根本的に異なるのだ。仕事としてギャンブルができる人間は、家を失ったりしない。有り体にいえば刺激を求めているのだろう。安定するというのは心地よいもののようで、とてもおそろしいものなのだ。そのことは身をもって知っていた。ぬるま湯はすべてを飲み込み、ゆっくり融かして、二度と造形は不可能だと錯覚させる。帝統にとっての賭博は自分が今ここに存在していることを確認する作業に近いのだと思う。

 まぁ、すべて、いろんなギャンブラーを間近でみてきた彼の受け売りの考察だし、知ったような口をきかれるのは腹立たしいだろうから、考えるだけだ。
「それにきみ、転がり込める家をいくつも持ってるんじゃないの」
「じゃあ、今後はさんちだけにするわ」
「そういうことじゃないし」
 わたしがおおいに呆れたため息をついたころ、レモンスカッシュがシルバーのトレイに載せられて運ばれて来たので帝統の駄々は中断を余儀なくされる。かわりにグラスのなかで炭酸がぷつぷつとはじけて、陽気におしゃべりをしていた。
「ビギナーズラックだよ。わたしは勝利の女神なんかじゃない」
「……んなことはわかってるよ」
 帝統が放り投げた長い脚がカフェテーブルの脚に当たってソーサーとスプーンが音をたてた。わたしは帝統が氷と氷のあいだをぬって刺さっている赤いストローをくわえずに、グラスのふちに口をつけて数秒で飲み干してしまわないことを祈っている。
 ちなみに、わたしはここの会計をいっしょにしてやるつもりはなかった。