閉塞感あるパドックをゆっくりとまわる馬体とスマートフォンに表示されている出馬表を交互にみる。
本命は決まっている。むしろ本命しか興味がないとも言えるのだが、ヒモ候補をみておいても損はないだろう。本命がいっしょに連れて来てくれれば大金星だ。とはいっても、もう心は◎にしかなく、落ち着かない。アッ、そもそももう金ねーじゃん!
心の中でがんばれ、がんばれよ! と唱え、実際に手を合わせながら後ずされば片足ににぶい衝撃がはしる。段差はなかったはずだし、この感触は。
「す、すいません!」
足元をみれば地面が雨がふったあとのように一部色が濃くなっている。そして、ひとつ女性の顔。
「ごめんなさい。こんなところに座っていたわたしが悪い」
自動販売機の横、ワンピースでヤンキー座りをしている女に、俺はぶつかったのだ。彼女の言い分は正しいといえるが、そもそもまわりを見ずに移動をかました俺もいけなかった。
地面をぬらしたのは彼女が飲んでいたであろう生ビール。となりでソフトドリンクの類を買ったわけではなかったらしい。彼女は申し訳なさ程度に残されていた液体を口にふくんで、カップを置いた。
「ビール代を出したいところなんですが……」
「……すっからかんなんだ?」
「はい。かたじけない」
彼女は目をほそめて、「お金あってもいらないよ」と口角をあげ、視線を地面に落とした。ではさようなら、ということなのだろうが、気がついたら俺もとなりに腰を下ろしていた。彼女は俺を一瞥することも、避けることもせず、かさり、とたがいの肩の洋服の生地がこすれた。
「なにしてるんですか?」
「ギャンブル狂の男を待ってる」
俺か? と錯覚したが、そんなわけがなかった。ほかの男だ。そもそもここには該当者が多すぎるわけだが、ここまで連れ立って来た男がいるのだろう。
「連れて来といて、ひとりにするのはひどいっすね」
「きみは連れて行かずに、置いてけぼりにするタイプか」
「仕事場に女連れてくわけにはいかねーんでね!」
彼女は「仕事場」と音をださず単語をころがして、また唇をむすんだ。まだビールがあったのなら、口をつけたタイミングだったはずだ。
「応援している馬とかいるの?」
お金のためだけに競馬をしない人種がいるということを彼女は知っているようだった。
そりゃもちろん、儲けることができたら万々歳だが、追いかけたい馬に出会えるというのも幸運──というのは競馬場で知り合ったおっさんの言葉だけど共感できる──なことだ。
持っていた端末から写真フォルダーをスクロールする。
「コイツ! 全額つっこんだから、無一文ってわけ!」
感情ではなく、ただ二酸化炭素だけが吐き出されたような音がかえってくる。けっして興味があったわけではないらしかった。
「……わたしもその子に賭けてみようかな」
「えっ」
数秒前からは想定されるはずのない発言にシンプルにおどろきの、間抜けな声がでる。
「現金しかだめなんだよね?」
背後の建物のなかで並んでいる自動発売機に目をむける。ネットでなら口座から引き落として入金できるけど、今からその手続きをするには時間がかかりすぎる。
「そうですね」
締め切り五分前のアナウンスが流れる。
彼女はポケットから手のひらサイズの財布を取り出して、広げると、それなりに厚いお札を俺に突き出した。三つ折りにこんなにお札入るのか。
「どーんと、十万いこう」
「正気か!? てか、なんでそんな大金持ち歩いてんすか!」
「いや、この後家賃振り込みに行こうと思ってたから」
「単勝十万?」
「……?」
ほんとうに馬券の買い方を知らないらしい。単勝は一着を当てる。複勝は戻る金は減るけど三着までに入ればいい。──複勝の説明だけはして差し上げた。俺は彼女の来月の住処の有無の責任はとれない。
「ふーん。単勝で」
この女、なかなかのギャンブラーだな。……いや、彼女は俺とはちがうのだから、今すっからかんになっても、口座にはちゃんと金があるか。
「代わりに買ってきて」
「無用心だな! 持ち逃げすんぞ!」
「きみは、わたしをひとりにはしないんでしょ?」
──そうとは言っていないが。
「だとしてもな、レースは直で見んだから、立て!」
自分が立ち上がるのに合わせて手首を引けば、彼女はゆっくりと立ち上がる。地面に置いていた空っぽのカップをつかんで、ゴミ箱に放りこんだ。
ファンファーレと拍手が入り乱れるなか、人混みを搔きわける。
いろんな距離で使われてきたけど、絶対にマイルがベスト。外枠にも入った。勝つなら今日。今日だ!
ゲートがひらく。一、いや、一馬身半出遅れたか。でもコイツは追込。まだ、まだ、これからだ。「いけ、いけ、いけ!!!!」。
全然みえないんだけど、とゴネる女を横に、俺は無我夢中で叫んだ。