いつぶりだろうか?
師匠の恋人。といっても彼が戦死し黒トリガーになるいくらか前にはすでに元・恋人だったと思われる。思われるというのは額面通り、確かではないということだ。ませたガキだったと自覚はあるが、そのあたりのことを察したり、うまく詮索したりすることができるほどおれは歳を重ねてはいなかった。
師匠とおれが手当たり次第に朝から訓練に励み、さて昼飯だと、当時の本部である玉狛に続く橋に足をかけると、女がジャージ姿で出入り口に座り込んで一服している姿が見えた。それが、おれがはじめてさんをみた日だ。子どもには中高生というラベルがはがれた人間は等しくおじさん・おばさんにみえたものだが、今思えばさんは師匠よりはずっと若く、なんなら林藤さんよりも年下であったのだろう。
その光景が強く脳裏に焼き付いているのはその姿が確認できたときにひどく動揺していたからだった。自分の横を歩く最上の纏う空気感の変化を感じ取ったというのも大きかった。ふたりが目を合わせふと笑い合うその瞬間は、おれにとって居心地のよいものではなかった。師匠に煙草を手渡すさんの横をすり抜けて基地に入る時の煙草の匂いが忘れられない。
師匠亡き後もしばらくは玉狛へ顔を見せることもあったけれどなんの前触れもなくすんと来なくなり数年、瞬ようにみえた未来は現実とすぐに重なり、おれの目は繁華街をキョロキョロと見渡しながら歩くさんを捉えていた。展開のはやさに声をかけるか否か迷ったときには悠一くん? と、先に確認をされていた。
「うわあ、大きくなったね」
親戚のおばちゃんのように──いないけど──そう感嘆の声をあげてさんはおれを見上げた。たしかにおれが彼女を見下ろすのは違和感がある。年齢も身長も嵩んでいた。
「本当にひさしぶりですね」
「しばらく関西にいたんだけど、親の都合で先日戻って来たの」
「実家に?」
「ううん、県内だけど、三門市からわりと近いとこに家を借りた」
「仕事は?」
「これから探すんだぁ」
綿密に計画された転居ではないらしい。一応確認した左手には光るものはなかった。一人暮らしをするだけの貯蓄はあるようだ。
「あいかわらず不安定な三門市のようだけど、悠一くんのおかげで均衡を保っているのかな?」
「おれだけの力じゃないよ。それに──」
言い淀むおれに視線をくれる。続きを促すでも、静止するでもない、しずかなそれだった。数年前と変わらない眼差しに、
「救えないものも、あいかわらずたくさんあるよ。むしろ、増えたとすら思うね」。
そう継ぎ足せば、さんは小さく相槌を挟んだ。
「わかったふりはできないけど、落としたものを数えるより持っているものを大事にしたいね」
はらりと花がこぼれるように笑顔をつくると、会えてよかったと手を振る彼女に迫る危険はとりたててみえなかった。
師匠の大切だったはずの人だから、おれもそう扱っていた。師匠がいなくなったのなら彼女をおれが守ってやるべきではと思った。同時に、師匠から大切なものを盗んだらいけないとも思っていた。後者の思いのほうが色濃く、そして扱うのが楽だったので、姿がみえなくなったさんをおれは探しはしなかった。
それはこうして数年の月日を経て再会した今も変わらない。だから、淡い初恋にも似た蜃気楼のような感情に少しばかりの感傷を覚えようとも、その背中を追いかけたりはしないのだ。どうせ煙草の紫煙のように、その香りだけしばし残して、すぐにみえなくなってしまうのだから。
玉狛支部のリビングで、昨日さんに会ったと、キッチンに立つ小南が瞬時に思い出せるかわからない名前を出せば「おととい来てたわよ」とさんが玉狛に来訪していたことを報告された。
「なんだ、連絡くれたらよかったのに」
「えぇ? 読み逃すからいけないんでしょ」
「はは、おっしゃる通りで」
たしかにさんが玉狛の扉をたたく光景をみてはいなかった。記憶の片隅に追いやられている人間のそれはなかなかスムーズに引っ張り出すことはできないし、注視することもなかったからだろう。
「でも、なんでここに?」
「林藤さんに用事があるって」
ね、林藤さん、と小南がバトンを渡せばソファに腰掛けスマートフォンを弄っていた林藤さんが間伸びした声を返す。
「用事って、なんだったんですか?」
「会ったのに聞いてないのか」
いやな間にカチャカチャと皿とスプーンがこすれる音と水の流れる音が響き、小南が林藤を催促する。
「記憶を取り戻しに来たんだよ」
林藤さんの回答に、小南とおれは手を止めほとんど同時にリアクションをした。
「えーっと……なんの?」
「最上さんの」
コンと間の抜けた音をたててスマートフォンがテーブルに置かれる。それを合図に小南はぬれた手をばたつかせながら林藤さんに詰め寄る。
「取り戻……いや、消したなんて、そんな話聞いてないわよ!」
「そりゃ、言ってないからな」
片手で小南をなだめながら、当然のことだと林藤は表情を変えなかった。
日本語の意味は理解できたし、たしかにあの闘いのあと記憶を処理して旧ボーダーを離れた人間はいる。しかし、どうにも納得感がなかった。
「最上さんが亡くなる前に、最上さんの記憶を消したんだ」
「いやだって、師匠が亡くなったあとも来てたじゃないですか。てっきり気持ちの整理として来ているんだと」
「あれは、経過観察のようなもんだな」
おれからか小南からか困惑の色を発し続けていれば、林藤さんはマグカップからコーヒーを飲み込んで口を再度開いた。
さんは実験台を名乗り出たのだ、と言った。
今後必要になるはずの記憶処理の技術を試す人間が必要だと言って、提案されたそうだ。長年の疑問ではあったが、やはり最上さんが亡くなる前には別れていたらしい。ただし、その提案があった時点ではふたりにそういった話が上がってはいなかったという。実行にうつされたのは件の大災害の少し前、別れた直後だった。
まだ未知で不完全なところがあったその技術を汎用性ある確かなものにするためには小さな記憶で試しても意味がない、インパクトのあるものでやってみるしかないと、最上さんの記憶を消そうと林藤さんとさんで決めたという。
最上さんには許可を取らなかったので悪いことをしているという意識は俺にもあったと、林藤さんは頭をかいた。それでも、消した記憶がある、入れ替えた記憶がある、と、本人にも言ったうえで定期的に脳波の確認をさせてもらい今の技術があるのだと、はっきりとした口調で林藤さんとさんの当時の決断の否定を拒絶した。
「で、当時の不安定な技術だったから後遺症的に偏頭痛がすごいらしく、元に戻してみることにしたというわけだ」
事の顛末を手短に話して、静寂が流れる。
「元にって……失恋したての感情と、付き合ってた男が死んだ事実をいっぺんになんて──今、生傷だらけじゃない!」
堰を切ったように叫んで頭を抱える小南の言うことはもっともだった。
おれがさんの来訪を読み逃した? ちがう、過去が改ざんされた人間の未来は不確定要素が多すぎてみえなかったんだ。
この数年、たびたびさんのことを思い返すことはあったけど、みえてはいなかった。いつもおれは今をみているようで、まだ起こっていない可能性ばかりを、目の前ではなくまだないはずの先ばかりをみているのだと痛感する。
止めていた手を動かしてちんまりと残っていたカレーライスを口に運ぶ。小南にごちそうさまを伝えてから、おれはみえるようになったそれを頼りに行き先にめどをつけた。
河川敷にだんごむしのようにうずくまっている さんを見つけた。
そういえばだんごむしを、みなくなった。いなくなったのだろうか。そんなわけはないか。幼少期はだんごむしや蟻を捕まえては袋につめていた気がする。数日も経てばみな息絶えていて、ざらざらと砂と一緒に捨てたものだった。身長が低くて地面と近かったからだろうか。下ばかり向いて歩いていたからみつけられていたのだろうか。そんな取るに足らない疑問がわいて頭をぼんやりとさせた。
「さん」
背中を丸めて火のついた煙草を空に向けていたさんは、頭上にふったおれの声に顔を上げる。
昔から察しのいい女だった。おれが林藤さんからこれまでの話を聞いたのだろうと仮説をたてて、
「最上さんを偲んでいます。お墓もないんじゃあ、しかたがない」
と、煙草をくわえた。草の上には師匠が生前愛飲していた煙草のソフトケースが転がっている。
「一本、どう?」
「……未成年だから」
「失礼。もう二十歳をすぎているかと思ったわ」
乾いた笑い声を短く出して、さんは副流煙と路上喫煙を気にすることなく喫煙を続けた。
「なんで」
思い出話に花を咲かせるつもりはなかった。さんにとってはまだ思い出にすらなっていないであろうその記憶をなぞりたくはなかったし、おれがしたい話はさん自身のことだった。その理由を問いたかった。
「どうしたら未来はいいほうにむくんだろうね、って話をしたの、覚えている?」
わたしは昨日の今日のように思い返せるわけだけど、自虐的に笑えば「最上さんと悠一くんと、ここで話したんだよ」。
これからもたくさんの人が死んで、そしてうまれる。そして、みんないろんな思いを抱えて生きてくんだ。でも、抱えられずに、生きることを諦める人もいるだろう。──そう、最上さんは悲しそうに笑ったのだという。
「悠一くんは、だから、この手で動かせる未来を増やしたい。だから、もっと強くなりたいって言っていた」
霧が晴れるようにおれはあの日の夕暮れを今この場の夕日のまぶしさと重ねた。そんなことをおれは二人に宣言し、自分自身にその言葉を刻んだことを、たしかに覚えていた。内容としてはけっして軽くはないが、取り立ててその会話の前後になにかが起こったわけでもなかったから、すぐには思い出せなかっただけだ。
「わたしではなんにもできないからさ、それくらいはさせて欲しかったんだよ」
通りすがりの女の、意地だね。
短くなった煙草を携帯灰皿を開いて押し付け、さんは健気にも笑った。
通りすがりなんかではないだろう。今や機密情報といわれている技術のことだって知っていたのだから。師匠は、そしてその周囲の人間も、彼女のことを大いに信頼し、よくも悪くもさんを巻き込みたがった結果だ。
それでも師匠がさんとの予定よりはやかったであろう決別を選んだのは、きっと──おれが師匠のいない未来をみたからだ。そう、吐き気がするほどの確信があった。
さんは自分自身がリスクを背負ってでも、生き長らえられる人を増やそうとして、そして現に、多くの人を救っただろう。その根性を本来ほめてやるべき男はもうこの世にはいない。
腰をかがめて投げ出されたソフトケースからひとつを引っ張り抜いて、そっと地面に腰をおろす。果たしておれの言葉は、何かの代わりになるだろうか?