FA宣言は高らかに



※王子視点



「ゾエ〜、現社の教科書貸して〜」
 四限目終わりのチャイムが鳴ってひと息つく間もなく、間伸びした声が開け放たれていた廊下側の窓から届く。わざわざその姿を柱を避けて仰け反り確認するまでもないし、呼ばれている人物はぼくではなくて、すぐうしろに座っている。
「今日も来たね、ジバニャン」
 赤い、片耳の欠けた猫のキャラクター、ジバニャン。彼の名前のジバは、地縛霊のジバだと言う。それなら毎度ゾエに物品のレンタルを依頼しにくる女は、ゾエのロッカーや持ち物に異常な執着をみせている地縛霊だ。そういうわけで、ぼくは彼女をジバニャンと名づけた。
「ねー、王子、聞こえてるよ」
「聞こえるように言ってるんだよ」
 振り返り、その姿を確認する。両目を黒々と囲ったり、頬をピンク色に染め上げたりはしていないけれど、いつもナチュラルにみえるメイクをきちんと施している。その時間が朝確保できるなら、ぜひとも自分のスクールバッグの中身を確認してほしいものだね。
 由来に多少の悪意こそあれど、ジバニャンはかわいい顔とフォルムをしているだろう。それに、ニャンが付けばだいたいキュートな響きになる。そんなに眉間にシワを寄せられるほど不名誉なことではないはずだ。
「こんなにかわいい妖怪なら、ゾエさんいつだって大歓迎だよ〜」
 えへへぇ、またまたぁ、なんて巨体の片腕をつついている妖怪・ジバニャン曰く、「ゾエは全教科置き勉してるから、いつでもなんでも揃ってるんだもん」。緊急招集とか特別早退のときも勝手にロッカーを覗いて借りているというから、呆れる。ゾエもそれを見越してか、鍵をかけることはないし、そもそも、しばらく借りられていることにすら気がついていなかった。ジバニャンのイラスト付きのメモが挟まって返却されていて、やっと気がついたというありさまだ。教科書だけではなく、スマホの充電器だって借りにくる。幸い、お金はせびられたことはないらしいけど。
 はいどうぞ、と机に置かれていた現社の教科書を窓越しに、ゾエがジバニャンに受け渡す。ありがとう、とジバニャンはいったんそれを受け取って、一考、窓枠の上にバランスよく置いた。まだ雑談を続けるつもりだ。
「ゾエさんはいいんだけどね、彼氏さんは、嫌がらないの?」
 ゾエが、ジバニャンに問いかけると、一瞬空気が歪む。
 タイプのちがうぼくとゾエと、そこそこ良好な関係を築けている時点で、ジバニャンはコミュニケーションが得意な側の妖怪、いや、人間だ。だから、ほかにも頼める人はいるにちがいない。それでもジバニャンはゾエに声をかけ続ける。そこになんらかの浮ついた理由があるのかどうかは、ぼくの洞察力をもってしても、ジバニャンのだれにも変わらぬ陽気な態度で、よく見えない。
「なんで? ……言わなきゃ知る由もないよね」
 これに関してはジバニャンの言うとおりだった。忘れもの常習犯・ジバニャンの恋人は、優秀なボーダー隊員であり生徒会長でもあるクラウチたちと同じ学校へ通っているというから、ぼくはそいつの地頭の悪さを疑っている。もしくは、などといろいろと想像もしないことはないけど、それを憂いているのはよっぽどゾエのほうだろう。
「まあ、大丈夫ならいいんだけどね」
 ゾエはただ、ジバニャンと彼の関係がまだ現時点でも継続しているのかどうかを暗に確認したかっただけで、ジバニャンは事実を述べただけ。でも、ジバニャンがあっけらかんとゾエをそういう対象として意識したことはございません、と無遠慮に答えたのと同じようなものだと、ゾエが受け取ってもなんらおかしくない。
「ゾエの恋人が気にするから、ジバニャンにも確認したんじゃないのかい?」
「えっ……。……ゾエ、彼女いるの」
 初耳だよ、とシンプルに驚くジバニャンは自らの行動を振り返るように、唇をきゅっと結ぶ。一応、なぜ気にされるのか、その可能性についてまったく心当たりがないということはないらしい。
「ゾエさん、今フリーだよー」
 ぬるい牽制の視線が頬を刺すので、なんだか愉快になってしまう。
「ジバニャンはいつも、ゾエにもらってばかりだ。たまにはなにか、してあげたらどうかな」
 ぼくの提案に、うむ。それはそう。と、ひとつうなずいて、ジバニャンは顎に左手で作った握り拳を添える。
「ゾエ、お礼、なにがいい?」
「ありがとうってことばと、笑顔を、いつももらってるけどね?」
「んもー! そういうことじゃないって」
 茶番劇にぼくはついに笑い出してしまう。特別に親しい間柄ではないから、ゾエとジバニャンがそういった関係になろうとも、どちらかをどちらかに取られた、などとぼくは嫉妬することもない。かといって、興味のない人たちでもない。ぼくは観戦者としてはちょうどいい位置にいるといって差し支えないだろう。
「じゃあ、体で払ってもらっちゃおうかな」
「いやん。なに?」
 自分の両腕で自分の上半身を抱き抱えたジバニャンは、ゆらゆらと頭を左右に振ってゾエがふたたび口を開くのを待っている。ほんとうにそんなことをゾエが対価に払えと要求したら、飲んでしまいそうだと、ぼくは思う。でも同時に、ゾエが馬鹿げているような、それでいて本当に望んでいるようなことを、ふざけて言うわけもないとわかっている。
「あのね、試合、観にきてくれる?」
「え、なんの?」
 ついにお礼となるジバニャンの行動を提示したゾエに、またジバニャンは怪訝そうな表情を浮かべる。それもそうだろう、ゾエは運動部に所属していない。
 ちょっと、教科書開いてみて。と、ゾエが窓枠の上の教科書を指し示す。ジバニャンが教科書の後ろ側からぺらぺらと捲りあげていくと、そこには来週末のボーダー野球部の試合のチケットが挟まっていた。
「野球の試合。ゾエさん出るんだ〜」
「……そんなことでいいの?」
 ジバニャンと同様、ぼくも心底驚いていた。ゾエの予防線のはり方に。気がついて来てくれるか、気がついて返却に来るか、はたまた、スルーされるか。その選択をジバニャンに任せようとしていたのだ。いや、もしかしたら、ぼくが余計なお節介をしなくても、自分から誘ったのかもしれないけど。
「それがいーんだよ」
 そんなレベルのお願いごとをゾエに言わせるために、ぼくはわざわざボールを渡してやったわけじゃないんだけどな。とは思うけど、これといった代案も見当たらない。ふたりにとってのベストなんて、部外者のぼくにわかるわけがないし、手取り足取りレクチャーしてやるのだって、ぼくの役目じゃない。
 だとしても、いい加減白黒つけたっていいんじゃないだろうか。そんなことを考えていれば、予鈴が聴こえる。ぼくたちに残されている時間は多くはない。いつまでもロッカーを介してやりとりしているわけには、いかないんだから。