雨天結構



 スターバックスの紙袋ふたつに詰め込まれた、のんさんが貸してくれた野球漫画(全24巻)を、生身でダンベル代わりに両腕で上げたり下げたりしながら本部基地の廊下を歩く。そうして弓場隊室まで返却しに来たけれど、弓場隊室のドアを解錠してくれたのは拓磨で、見渡す限り隊室には拓磨しかいないようだった。白いジャケットとツーブロックリーゼントではないので、こっちも生身だな。
 文庫本片手に拓磨は、よお、と挨拶もそこそこに、おそらく今まで座っていたのであろうソファに腰掛けた。わたしが自分を目当てにここを訪れたと疑っていない様子だった。べつに、わたしだって会えることを期待していなかったわけではないけれど。
 のんさんに在室を確認してから来たわけでもないし、のんさんは悪くない。そもそも弓場隊室というのは、ランク戦や防衛任務以外でみんながきっちり揃っていることのほうが少ないかもしれない。部屋で目的もなくだらだら、みたいなのはあんまりないのだ。
 テーブルの上に、飲み物なんだかデザートなんだかわたしには永遠に判断がつけられないスタバのドリンクとかが入っていない袋をふたつ乗せて、わたしもとなりに腰をおろす。差し入れでも買ってきたらよかったな。というより、わたしがなんか飲みたい。
 拓磨が本からしおりを引っこ抜いてしまったので、わたしもポケットに突っ込んでいたスマホを取り出す。のんさんへ手短にメッセージを打ち込んで送信すると、マナーモードにしていなかった端末がシュポン、と間抜けな音を鳴らした。
「あら。週末、雨か」
 惰性で天気予報のアプリを開いてみれば、土日には雨マーク。どちらも80パーの降水確率を告げていた。土曜日は野球部の交流試合がある。とはいってもドーム球場だそうで、雨天決行だ。
「リーゼントの野球選手とか、怖すぎやん?」
 しかもサングラス。ルーキーズかよ。小学生、泣くぞ?
 そう揶揄って、えーん。と泣き真似をしてみる。拓磨は笑ってはくれないが、読書の邪魔をする女を邪険にもしない。
「帽子で見えねーし、そもそも小学生相手に換装はしねェよ」
「おとなでも怖いんだわ」
 今回の試合はついに拓磨が投げるということで、わたしものんさんと羽矢ちゃんと観戦に向かう予定だ。といってものんさんは帯島ちゃん、羽矢ちゃんは創作のネタ探しに比重がおかれている。
「ってかさぁ、拓磨、高校の球技大会のときも雨降らしたよね」
「アァ? 別に俺のせいじゃねェだろ」
「いやいや、そうだって。拓磨が投げはじめたら降ったもん」
 体育館でラリーの続かないバレーをぼやぼやとやっていたわたしの元に、拓磨と同じクラスのお節介な女の子が「ソフト、アンタのが投げるよ」と、呼びに来てくれた。
 わたしは突き指したとかなんとか理由をつけて体育館シューズのまんまグラウンドを見下ろせる掲揚台まで走って。ポールに腕を巻きつけたところで、ぽたり、ぽたり、と水滴がコンクリートに跡をつけはじめた。
 霧雨のなかキャップのツバを指で挟んで左右に動かしているわたしの恋人の顔はよく見えなかったし、そもそも後ろ姿しか確認できなかったけれど、信じられないくらい男前だった。後光がさすようだった。恋愛フィルターがかかるというのはこういうことなんだろうな、と身をもって理解した瞬間。雨なんて、室内履きの靴底が帰り道に汚れるであろうことなんて、気にならなかった。だから、よく覚えているのだ。
「先発の日に雨降らせがちなプロ野球選手もいるらしいじゃん」
 生駒が贔屓にしているプロ野球球団の投手に、そういう方がいるらしいと聞いた。この世には雨女雨男協会というものがあって、そこから入会のオファーがあったというから、平和なもんだ。
「そりゃ、死活問題だなァ」
「ね。特別な日に雨降らせちゃうのかな?」
 先発の日に雨っていったら、仕事の日はいつも雨みたいになっちゃうけど。節目とか。楽しみにしてることとか。イベントとか。
「京都旅行、晴れてたけどなァ」
 わたしらだって同い年じゃんかと、のんさんとアピールしたけれど連れて行ってもらえなかった、いつだかの同級生男子たちの旅行について拓磨は言っているらしい。まあ、一緒に行こうぜと言われても、着いて行かなかっただろうけど。
 お土産に八ツ橋だけは買って来んなよ! と言ったにも関わらず、迅からニッキだけのそれを渡されたときは飛び蹴りをしたもんだ。拓磨は抹茶のバウムクーヘンを買ってきてくれていた。好き。
「防衛任務も雨の日には滅多に当たらねェ」
「えー」
 いまいち納得がいかない。べつにわたしだって、雨男とか雨女とか、そういう迷信めいたものを信じているわけではないけど。それに、「俺は雨男だ」と高らかに宣言する拓磨を見たいかと言われると、見たくはない。なんか、ただそのひと言だけですごく自己肯定感低そうに感じるじゃん。
 でも、拓磨とはじめて会った日とか。はじめてデートした日とか。実家に遊びに行った日とか。ふたりで北海道旅行した日とか。拓磨との思い出といえば、高確率で雨なんだけど。って、あ。もしかして。
「俺じゃなくて、おめェが雨女なんだろうがよ」
 いつのまにか本から視線をあげ、ちょっとだけ目尻を下げてこちらを見ていた拓磨と視線が混ざる。
 同じようにふたりの歴史をなぞって、たどりついた結論だろうか。なんだか照れくさくて、へへ、と頭をかくしかない。
「雨女は龍神に愛されてンだとよ。よかったなァ」
「りゅうじん?」
「龍の神様」
「ほぉ……」
 あっ。拓磨のやつ、わたしが雨女だと認識していて、前々からググってたな? それか京都で、その龍神とやらが祀られてる神社に行ったんじゃないのか。まったく!
「神さまに愛されてる女に愛されてる拓磨は、しあわせだね?」
 雨が降れば、拓磨はそのたびにわたしを思い出してくれる。思い出さざるを得ない。そんな素晴らしいことがあるだろうか。まるで健康的な呪い。そうであれば、わたしは雨女で結構だ。 
 わたしの後頭部のまるみを、ゆっくりと伸びてきた拓磨の手が支えるように包む。耳元でささやかれる、フラペチーノかそれ以上に短い甘ったるい声を噛みしめたくて、わたしはそっとまぶたをおろした。