「わたし、虫歯になったことがないんだよね」
あまりにも突然の自己申告に面食らう。
両手をスカートのポケットにまるっと突っ込んでいる女の背後には屋上のフェンスがある。女がもたれかかっていたとしても軋むことはない、頼り甲斐のある鉄格子だ。
下に広がっているはずの校庭やプールは俺の位置からは死角で見えず、遠くに三門市の街並みが控えめに広がっている。
「すげーな。“仕上げはお母さん”が完璧だったわけだ。いや、このご時世、お父さんでもいいだろってキレられるな」
「歯医者でフッ素も定期的に塗布されていたからね。あとね、唾液の量が多い人は虫歯になりにくいらしくて、体質だよね。だけど、わたし歯並びはよくない」
いっ、と口を横に開いて女は俺にその歯列を見せびらかす。普段隠れているものを見るのは、見てはいけないものを見ているようで落ち着かない。じっとりとした空気が首筋をなでる。
それでも女の見せたいものを見なければならない、俺以外ここにはいないのだから、という責任感から目を逸らさずにいれば、たしかに俺から見て左側の犬歯は整列を放棄し、口外に出たいという意識があるかのように飛び出している。
「うちはね、基本的に食卓にいただきもののフルーツ以外が並ぶことはない。みかん以外の果物はめったに出てこないってことね」
印象としては近づいたらさっと身を捩って逃げる猫かと思っていたが、率先して自分の話をしてくれるらしい(先に自己開示をするという保身スタイルもあるだろうが)。それでもクラスメイトであるだけの、ろくに会話もしたことのない女の意図するところは汲み取ってやることはできずに黙ることしかできない。
「つまり、最低限のこと以上をするお金がないんだよ、我が家には」
――お金。この時期お金のかかること。
「オーストリア? 違うな、オーストラリアの大学に行くって話、もしかして、なくなったのか」
女はうんとも違うとも答えずに、俺から背を向ける。代わりに蝉が鳴いている。
屋上を常時開放している学校というのは多くない。この高校も例外ではないはずだが、古くから合鍵が出回っている。果たして何個複製されているのかはわからないが。そしてそのうちのひとつの持ち主がこの女であることにそれなりに驚いている。
担任をはじめ、基本的にどの科目の教師も、みんな揃ってこの女の努力を褒め称えている。彼女が大学は海外のどこかにいきたいらしいというのは、なんとなく学年全体の生徒が知っているような事実だった。
「まあわたしだってえぐれた三門市になにも思わなかったわけじゃないからね。都市開発学科でまちづくりでも学ぼうかなと思っている。ミカ大レベル以上のお勉強をしてたつもりだから一般で受かるとは思うけど、ミカ大の推薦はボーダー推薦枠しかないよね。なんか癪に触るのでボーダーに入って推薦をもらおうかな。諏訪くんも楽したくてボーダーに入ったのでしょう」
「おい、俺の学力と情操をなんだと思ってんだ」
ところどころ風に吹かれて聞き取れなかったことを反省し、隣に並んで校庭を見下ろす。青々とした葉がぎらぎらと光っている。
「さあ知らないけど」
それはそうだ。彼女にも等しく俺はよく素性の知れないクラスメイトだ。こちらだけが知らないわけではない。しかし見当違いなことを言われているとも思わない。俺はわりと見た目通りのキャラクター性をもっているのだ。
「ボーダー入ったら短期留学とかできねーだろーけど、いいのか? 結果出せばそこそこ稼げる可能性もなくはねーと思うけど、ベースとしては無給だぞ。稼ぎたいならまっとうなアルバイトのほうが向いてはいる」
「いいの。わたしが海外にいきたかったのはかっこいいと思ったってだけだし! お金はないんだけどさ、信じられないほどないってわけじゃないんだよ。ほら、歯医者には連れて行くんだから。だからこそうちはいろいろ条件クリアできなくて補償が雀の涙で、そのあたりも使えなかったってわけ。そもそも海外の大学への進学ってのは“贅沢”だしね」
――それこそ私大とか県外への進学だってそうね。
案外カラッとした言い方に女のこの数ヶ月の苦悩が透けていて、多少痛々しい。
「補償金で高級外車乗り回してる奴らはどーなんだって話だよな。あいつらも被災者とはいえやりきれねーな」
「不純な動機とはいえ努力はしたので、まあ控えめに言って殺意はある」
「殺すわけにはいかねーだろうから、好きな食いもん爆食いするとかしてストレス発散しろ。やけになってんなもん吸おうとせずによ」
視線でポケットの角張った不自然な膨らみを指摘すれば
「めざといね。度胸もなく封も切れてないからあげるよ」
「いらん! いまバレたら人生棒に振る」
「ここにいるのがバレてもそこそこヤバいと思うけどね?」
含みのある言い方に頭をかく。
いま三門市にすこぶる元気な奴はほとんどいないわけだが、職員室から出てきたしょぼくれた顔、どこか上の空で外ばかりながめていて、滅多に人が立ち入らない階段をのぼっていて、ポケットの中にまるで宝物を隠しているかのように慎重なクラスメイトのことは、気がかりだったのだ。
「やけ食いかあ。好きな食べ物って聞かれるとよくわからない。苦手な食べ物は答えられるけど、食べられないものはないし。友だちとご飯に行ったときにそれをオーダーしてもいいか聞かれても嫌だとは言えない。実際、食べられるしね」
「そんなやつが三門市のために都市開発を学びたい、って自発的に思ったってことは、皮肉ながらかなりいいことなんじゃねーの。ボーダーで現場に出つつ実践的にってことだろ」
「海外の大学に進学する日本人より、どえらいことの起こった三門市の住民かつボーダーの人間のほうが特別感あって、不謹慎ながらいいわ」
照れ隠しなのか、すくめた肩にセーラーの襟に薄くシワが入る。
「ボーダーやりながら好きな食いもん10個探すか。付き合うぜ」
「あのね、1個はあるよ。キーマカレー」
「あんじゃねーかよ。んじゃあと9個な。ちなみにボーダーの食堂にキーマカレーはない」
過剰に落胆して見せてから笑う女の八重歯がちらりと覗いた。思わずそらした視線の先の、プールの水面がやけにかがやいていて、俺はどうにもそのまぶしさをいつまでも忘れられないような気配がしていた。